麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

自演自註:第2回 <夢幻大戦>

 

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 【演目】

 <作品> 清経

 <作者> 元阿弥

 

 

ღ 自演

 

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ღ 自註

『井筒』ほかの複式夢幻能を、いまだ創出せざりし世阿弥陀仏(1363? - 1443?)の修羅能謡曲。コロナ患者狩りの悪夢のけはいが、アスファルトからいぜんとして蜃気楼のようにふぇらちゅ~るのナツィズムでゆらいでいた庚子初夏起草:<六枚道場>辛丑元旦掲載。みやこで隠栖する清経の妻のもとに淡津三郎がとどける先主の遺髪:「かみ」は宇佐の神で、ありし日のエロティックな閨房のいとなみもイメージさせる髪… ねむったまま妻が耳にすることになる原典のサシシテ詠唱:「聖人に夢なし」に照応させるかたちで呪咀:「死人に口なし」が本作のことあげになるが、「ここのえ」は帝都/だんな(落武者)は死後に海(〽やえのしおじのうらのなみ)をわたって奥さんがいる東京にもどってきたことになる。オリジナル落武者の平清経は源氏の追撃におびえるあまり正気をたもっていられなくなって、うき世のうさ(宇佐)からのがれるべく入水自殺… こじつけながらデリヘル愛欲濃厚接触な光(コロナ)源氏からおいつめられて、ネクタイで縊死しましたといったら、ご愛嬌:「ふぇらちゅ~る」の地謡(コロス)から、だんなが奈落にありつつも仏果をえて昇天するすがたは、まずもってめでたしめでたしな散楽事(さんがうごと゠ジョーク)にて御座候✍ 

 

 

貴翰拝誦:第3回 <文藝擂賽>

 

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ღ 出場作

「ロボとねずみ氏」紙文氏

 

<六枚道場>がおわってから先月までSNSを利用しなかったが、かぐやというコンテストで吉美駿一郎氏がそのあいだに受賞していたり佐渡しおふき… じゃなくて阿波しらさぎで宮月中氏が新聞賞だったりと朗報がつづいたらしい。ほんらいはそれらも拝誦してうんぬんするべきだが、いかんせんネット上の掌篇にたいする興味はつきた。はたして6枚10枚くらいでなにが書けるんでしょうか眼のみえないわたしにと麻原彰晃っぽく反問したくなる偏見はいやますばかりで、かりに紙文氏が出場するのでなかったら “本家” にこのたびも読者としてコミットしたかどうか? 「紙文(かみかざり)なのだ!」の抱負は、グッド!! 「お前の息の根を止めるために書きました」の星野いのり氏の1文からは文字どおり匕首がぎらつくようだし、「無害に見えるもので戦うのが僕の流儀です」の宮月氏もいかしていた。「雅かつ邪悪に」

 

 しかしA・しかしB・しかしC・しかしDの出場する諸作は、ノヴェルにかぎっていうなら、ノヴェルの質を、このたびは俳句や川柳とのバトルがまともに成立しうる性質のものという1点にしぼりこんで、えらびぬいたのではないかと邪推させられそうなほどで、いのり宗匠や川合氏のお作品が、それだけにことのほか生き生きとしてみえる… いやいや、ちがうのかな? あくまで掌篇(そして韻文)に興味がない市井の眼にはそんなふうに映じるということにすぎないかもしれない。だったら出場作に言及するのも無意味/無礼きわまるではないかの結語にいたる。もうしわけない、これが感想だ。

 

「ロボとねずみ氏」にかぎって言及するが、<六枚道場>で紙文作品になじんでいた読者のひとりとしてみたら、う~ん、そうか… つづく1語がおもいうかばない。べつのひとが書いたもののようだ。まっとうだ。すなおだ。ひっかかるところがなく、するりとしている。たちどまって、いかがわしくなったり、まえのページにさかのぼらざるをえなかったりという読者がいつものプロセスに時間をうばわれることもない。だから勝ちぬいて、つぎをよませてもらいたい。はずみをつけて、あと2作… なお宮月氏の雅悪派では、イグ出品作のかたりくちがかなり気にいって、ざぶとん3枚とわたくしも読後にひとりごちていた。

 

 

 

 

 

ღ 応募作

「つめたき天涯がおれをみる、みつづける」ハギワラシンジ氏

 

 ことしも独善的偏見で、ハギワラ氏の作品がいちばんだとおもった。おもったというのは客観的でなさすぎるうえに、フェアでもない。なぜなら今回はほかの応募作にほとんど眼をとおしていないからだが、おそらくはそれらの読了後にも感想はかわらないだろうし、「つめたき天涯がおれを…」にうならされる理由もひとえに昨年の感想とかわるものではない。あらたにつけくわえることばもなく、さなきだに今回はますます腕があがって、パワーもすさまじい。なぜ本作がえらばれないのかという疑義をもちだしてみたところで、イヴェントが3年もつづくと、ぼやくことさえ無意味なのは一目瞭然:「なのだ!」のひとことを、ハギワラ氏にあびせるのが手っとりばやい。そんなものなのだ。フィールドがちがうのだ。ぜんぜん土壌がちがう。そういうサークルに応募したのだ。しかし来年もなのだはなのだのままなのかはわからないから、ためしにまた応募してみるのだ。

 

 ものがちがう。フィールドがちがう。なかんずく精神的な土壌がちがう。ハギワラ氏も日々SNSの唾液の河をおよいでわたるのに、おのれの創作の曠野゠白紙の地獄にたちつくしたとたんシャーマンというか全智の聖獣神虫にすがたをかえる。あたたかSNSの日常によごれない同氏のその甲殻文字はえてして神託で、まがまがしい変身がなかば衒学的にもみえてくる… まわりにいるプロもふくめた無数の書き手は、めいめいの日常から隔絶していない。ネットの唾液が、ぬぐいきれていない。というか隔絶をそこまで劇的にみせるつもりはなく、かえって変身のそんな劇性を、オールド・スクールっぽい前述のいわゆるペダンティック臭もかぎとれなくはないものとして忌避しているふしがみられることは、サークルのイヴェントが3年もつづけば気がつく… わたくしからみたらそれでもハギワラ氏の創作は、パワフルで神聖でうつくしいもので、ボーナス・ステージにこんな覚醒した獣神がでてきたら瞬殺されるだろうとあきらめがつく

 

 くりかえしのアドヴァイスになるが、かくなるうえはハギワラ氏が “本家” とおなじ規模のイヴェントなりサークルなりを、みずからの手でつくりあげるよりほかに道はない。サークル内の亡命クーデタ政権でもよい。サークルのはらわたをくいやぶって、サークルのあたたか母胎から覚醒する魔界転生の集団゠略して摩衆:「おれは兄をくい、妹をしゃぶる。姉らしきおとうとよ、喉笛を裂け。あかい、あかい、くえ。ほのぐら、ほのぐらよ」「母になれ」おのれのことばが、ゆくりなくも暗示する闘争の未来:「くっついて、おれはちびからほのぐらを受けとる。ちびはか細い悲鳴を滴らせ、おとうとよ、おれはおまえをねじふせ、母になる…」

 

 けだもの虫けらの聖痕にうめく預言者ランボオのごとき見者のことばの錬金術をくりひろげながら、もっとも有力な手だては、ハギワラ氏自身がもくろむ文字どおり資産運用の錬金術ではないか? われわれのネット上の投稿作品から巨万の富をうみだしてくれる奇術師ともなるなら、おのずとそれは楚漢のごとき講談社白夜書房に比肩しうる趙斉の韓信軍にひとしい出版業界の第3勢力たりうるだろう。ほんとうに富をうみだす/もたらすのではなく、ルメートルがえがいた青年エドゥアールのように戦友゠同志たる無数のわれわれ書き手から、あまい投資口のことばで(なけなしのww)大金をむしりとって、ネット上から揮発する気体詐欺師というのだとしたって痛快!! 『マルドロールの歌』を自費出版するまえのロートレアモン伯爵は、べつの詐欺師的な文学者から、すぐれた詩人どうしでアンソロジーをだしましょう、ただし掲載されるのは選抜された作品だけですよという自尊心をくすぐるコンテスト広告から、だまされるにもほどがある1行いくらの大金をむしりとられた。それで世にでたアンソロジー詩集のタイトルが<たましいの芳香> Les Parfums de l'âme なのだから、おそれいっちゃう… なんのにおいだよ!? けさはNFT談義を拝聴しつつ本稿をつづって、まるきり放送のその要諦がとどかぬあいだに脱稿してしまったが、あゝ文学史上にその類例をみない錬金ファンドの金庫番になりたい… たのむ、おらの作品☟からも大金を!! 「モット金ヲ!!!!」Mehr Geld!!!! りっぱなワインセラーを買って、ブルネッロやジュヴレ゠シャンベルタンでみたすことを夢みる祝日の朝だった。

 

 

Avvisi

 

 

弄翰蝶喋:10月刊 <Avvisi>

 

 

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「惑星と口笛ブックス」より拙作をば刊行していただくはこびと相成申候。アルバン・ベルクの文字どおり “完成された” オペラ(※未完のやつもあるからね)3幕15場の形式/技法にもとづく3部15章の長篇にて候ハゝ “完成された” ロマンだぜぇぇとスギちゃんばりの豪語でもって品質保証はいたしかねるし、「架空のオペラღ」un opéra fabuleux だなんてランボオ流のはったりをかますのも気がひけようというもの… だいいち本作は、ほんとうに脱稿していない。およそ10年のあいだ総譜化の作業をつづけながら、やっとこさ15章中13章がしあがったところだから、まじで未完:『速報』Avvisi もこのたびの刊行のためにでっちあげた仮題でござろうが、かんがえてみたら完成していないものを刊行していただけるなんて、グレイトすぎないか!? 「グレイトだろぉぉ?」「グレイトだぜぇぇ」べつにスギちゃんふうに自問自答したかったわけでは寸毫もないが、<六枚道場>でそういえば鬼滅のなんちゃらにあやかった痰痔瘻と揚饅子とが攻守交代しながら、くんずほぐれつな小品:「きめせくのばいぶ」を投稿することができなかったのはざんねんだし、「すし職人伝説☆すかっとスカとろ」「恋して皇子になりました(恋プリ)」なども深部小脳核のあたりではほぼ完成していた。おしいサークルをなくした。

 

「グレイト」die große から、シューベルトのもうひとつの神品:「未完成」交響曲にあやかりつつ自家中毒したかったわけでもない。ようするに完成していない小説なんて版元および読者から、ほんらい鼻にもかけられないしろものだということを明示したかった。ノワールの魔犬エルロイだろうが押切もえほどの文豪だろうが現存する書き手が、ついうっかり完成していない原稿をもちだそうものなら、ストローでいまさらタピオカをすすることにひたむきな編輯者はふんと鼻をならして、うけとった原稿をそのままウェイターの後頭部にむかってパワフルになげつけるにきまっている。そんなものは商品にならない、ようするに書きはじめたら書きあげることだ、きみが商品をつむぐことで出版業界ひいては文学にかかわろうとするなら…

 

 わたくしごとをみなさまの問題として転嫁しつつ大上段にかまえたくなったのも、むりはないところ… そっくりそのままのフレイズを、むかし文藝誌の編輯長からちょうだいいたしました。わたくしは18歳~21歳のあいだ間歇的に某探偵作家Aの弟子だったが、『す○る』編輯長を紹介してやるから自信作を用意しておけと弟子になったとたんA師からいわれた。ほいきたッッッッとばかりに40枚ばかりの原稿を持参して、バキよりも高速のランニングで編輯長のもとに遅参:「短篇?」もちこみ原稿をぺらぺらとめくりつつ編輯長がたずねてきたので、うんにゃ長篇ですだ完成したあかつきには上下巻になりそうな一大ロマンでげす、ご高覧にあずかってるのは冒頭のその第1章だでと天衣無縫にさえずる19歳をにらみつけた編輯長:「きみねぇぇ~完成してないと意味がないんだよ」

 

 

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『海豚座に捧ぐ百一発の砲声』上下巻河出書房新社を刊行するころにはA師からも勘当されて、おつむがよわい大学生はすこぶる陰険な27歳のマーシャル・アーティストに変容していた。しあがってもいない小説を、もうにどと版元にもちこむこともなかったのだ、もうにどと… にどと… もうにどと? 「惑星と口笛ブックス」より拙作をば刊行していただくはこびと相成申候。やっとこさ15章中13章がしあがったところだから、まじで未完:『速報』Avvisi もこのたびの刊行のためにでっちあげた仮題でござろうが、かんがえてみたら完成していないものを刊行していただけるなんて、グレイトすぎないか!? 「グレイトだろぉぉ?」 ここまで眼をとおしていただいた知的マイノリティのみなさまは、コピペのこの主題回帰が、ソナタ形式にせまる効果をあげていることにも気がつくだろう。ともあれ西崎憲氏のその寛仁大度は、なまじの編輯者のおよぶところではなかった。こちらが刊行のご検討をおねがいするさいに未完の長篇なんですけどねといいそえたところで、とりたてて難色もしめさない。さらに全3部から1章ずつをぬきだしたダイジェストもダイジェストのダイジェスティヴ・ビスケットなやつで、インド映画の予告編のほうがまだしもエキサイティングなくらいでござろうと白状したところで、へぇぇ~そりゃまたなんともといいながら、びくともしない。これだよ諸君、この感性そして野性…

 

ヴォツェック』はもとより当方のながらく偏愛してやまないオペラだが、はなはだ不満な箇所があるとするなら、ラストの1場がそれにあたる。さまよえるクラおた連中はあのボーイ・ソプラノにあわせた8分音符の無窮動がすてきやんと島田紳助ふうにブラヴォしまくるが、わたくしからみたら同ラストがオペラを因循姑息なものにかえてしまっている… つじつまあわせというかパトスの帳尻あわせや収支決算めいた矮小さが、すけてみえてしかたがない。ここで対蹠的にもちだしたくなるのは、なき柴田南雄マーラー評:「つまり、音楽的想念としての着想の天才ぶりと、これら、言葉による(標題などの)着想の幼稚さ、平俗さ(バナリテ)の間の乖離は、ほとんど常識では理解できない」ほどだったマーラーのまさにオーストリア゠ハンガリア二重帝国そのもののように肥大化した窮極のアンビヴァレンツが狂瀾する音響゠文学コンプレックスにくらべたら、シェーンベルク一派による無調のスコアのほうがまだしも常識的で家父長的ではないかという柴田のあまのじゃくな逆説⇒マーラーバロック的対位法の金襴と後期ロマン派の爛熟とのごった煮グラーシュにくらべると、もとは銀行員だったシェーンベルクや病弱なニートにちかい弟子ベルクの音楽理論/作曲技法はなるほど前衛的で尖鋭だが、かんじんの感性はウィーン宮廷歌劇場の楽長マーラーのほうがはるかに天将奔烈でなおかつ不確定性にみちて、あたらしいものではなかったか? 『ヴォツェック』のラストこそベルクの因襲的で家父長的な感性が、もろにでてしまっているような気がしてならない。ラストだけは新時代をひらいたものではなく、かえって旧世紀の圏内でとじられたようにも感じられる。

 

 わたくしのスコアは、いまだに長篇(グランド・オペラ)のフィナーレに到達しえない。つまり完成させることができないのも、こんにち小説にピリオドをうつことが可能なのかどうかの懐疑を、おのが孤影のごとく21世紀の生活上でひきずってきたからにほかならない。プルーストムージルの回収不可能なほど膨張しまくる前世紀の大長篇も、とうぜんながら未完だった。ニュートン古典力学の世界なら、おしなべて小説家はめいめいの作品をしあげることができた。あるいは上述したとおり商品だとわりきるなら、いまもなお小説は完成しうる。ただし量子論のミクロから、かぞえきれないほどに分岐する現実:「多゠世界」many-worlds 解釈のなかで生活上のフィジカルな主題Aになおかつネット上の主題Bもからみあう現代人のはてしなく拡大されたソナタ形式の日常において小説ひいては文学が、はたして完成させられるものなのかどうか?  <六枚道場>のたわむれのゾーンでなら可能にみえた完成も、かならずや未来の文学においてはアナログの幼稚な概念のひとつとみなされるにちがいない。ムージルのあたらしい鉱脈をめざすものなら、おぼろげにもそれは予見しうる。

 

「惑星と口笛ブックス」より拙作をば刊行していただくはこびと相成申候。やっとこさ15章中13章がしあがったところだから、まじで未完:『速報』Avvisi もこのたびの刊行のためにでっちあげた仮題でござろうが、かんがえてみたら完成していないものを刊行していただけるなんて、グレイトすぎないか!? 「グレイトだろぉぉ?」「グレイトだぜぇぇ」べつにスギちゃんふうに自問自答したかったわけでは寸毫もないが、たびかさなるコピペのこの主題回帰が、あなたのまえでいま新時代のドアをひらく… さいごに未完成品の出版を、まよいもなく決行してくださった西崎憲氏の感性と野性とにたいする最大限の敬意ならびに感謝も、あらためてここにしるす。ありがとうございました。ダ・ヴィンチがそのむかし太陽光をそのままボトルにつめこんだようなと讃美したトスカーナのノービレ(高貴)なプルニョーロ・ジェンティーレで、かどでの祝杯をあげます。インターネットで本作は、まもなく試撃行をはじめます。

 

 

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※<Avvisi>なるエア・ブックは、フィクションです。エア・ブックはつまり拙者がおもいついた電子書籍のニックネイムでござるが、「今月刊行予定のair books」だなんてe-bookよりもよほどファニィではないか? <Avvisi>はとにかくフィクションで、いかなる実在の人物/団体とも無関係:「K」なる既婚のキャラクターは、おれのこと? 「アキラ」も、あのひと? むむむむ? 「グラーヴェ」変奏曲にでてくるのは、わたしの離婚した両親? よりによって聖職者も、ドイツ文学科教授も、ゲイバーのじゅんちゃんも元気? なつかしいぃぃ~夕張めろんちゃんなどなど約20名のレイディス&ジェントルメン&カトゥーイズが、ご一読後にそんな猜疑や瞋恚にもえたつとしたら、かんちがいもはなはだしいです。こたえは、ノン(byセリーヌの墓碑)です。あなたがたのことが、エア・ブックに書かれているはずもありません。あまりにそれは自意識過剰のうたがいや忿怒です、デューク東郷更家失調のとまどいや殺意です。ご安心ください、あなたがたのことなんて書いておりませんから… うかつに訴訟をおこしてやろうだなんて短慮もひかえていただいて、あけはなたれた窓からさしこむ初秋の陽ざしなり、ひばりのさえずりなり、おおぶりのグラスにそそがれたシャンボール゠ミュジニィのばら色なり木いちごのような薫香なりに陶酔しながら、でもでも第Ⅱ部のあのキャラクターは、ぜったいに彼女 or わたしだなんて疑念がきえなかったとしたら、リアルから自在にはばたくこともできなさそうな小説家のその菲才をあわれんでみてはいかがでしょうか? <Avvisi>なるエア・ブックは、フィクションです。ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチァーノでみたされた外道小説家のボルドー型グラスと、あなたのそのブルゴーニュ型グラスとを、ながらくの音信不通も、わだかまりも、いさかいも、こんにち太平洋や鶏林八道や幽顕さえまたいだ彼我のへだたりもこえて、ピアニシモでぶつけあいましょう。シェーンベルクやベルクがBGMだなんて気がめいるでしょうから、おニャン子クラブのかの西崎憲氏が作曲した名品にひととき耳をかたむることにいたしましょう♬

 

 

 

 

辛丑但去 :第12回 <六枚道場>

 

 

 

 

 

<六枚道場>が今月でおわるらしい。たまたまtwitterでその告知をみた余人からきかされたばかりで、おわりにする理由もさだかでないが、わたくしにとってはすくなくとも昨秋あたりから原稿用紙6枚の作品は興味のうすいものにかわっていた。どれだけ回をかさねても、ことばは既知の観念連合からのがれることができない… かなしくもWEB上はついに文学の未来をうみだすグラン・クリュ(特級畑)の土壌たりえぬものではないか? けだし20世紀後半は文学が未知の領域にはばたこうとする意思も、ばけものじみた貨幣経済からたえず<商品>の枠内というかレッテルにおしもどされる泥沼にはまりこんでいたようにみえるが、どのみち21世紀のインターネットも貨幣とおなじで非゠日常にむかおうとする文学を、たえず日常の単純話法と生活のなまぬるい皮膚感覚とにおしもどそうとする因襲の逆波でしかないのかもしれぬ。

 

<六枚道場>にとって当初はそれが推進力におもわれたSNSとの連動も、けっきょくは因襲の逆波にすぎなかったのではないか? こいつに拘束されるかぎり原稿用紙6枚の作品はたえず文学性をはぎとられつづけて、ゆるい140文字のつぶやきの日常のおしゃべりの延長からのがれることができない。めいめいの広報機能をべつにしたら、わたくしはSNSに以下の3つの唾棄すべきものしかみることがない──あってもなくてもよさそうなジョーク、自己憐愍、ポピュリズム──いや瘴気にちかいネット上の喧噪を、あれこれとぼやいてみたところではじまらない。なにごとにも、おわりはめぐってくる。ありがとうさようなら、また問うことなく白雲はつきるときなし、「担(ただ)(され)」のひとことがのこる口腔のにがにがしさを、ヴォーヌ゠ロマネ村からとどいたキャピキャピしたピノ・ノワールであらいながす。やかましいことのいっさいを意識から霧消させる花ざかりな薫香が、リヴィングのこの瞬間にたちこめる。

 

 

 

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ღ グループA

 

「青い燈台」のテキスト上に意識をさまよわせて、ただひとつの句:<大客船深きに生る黒あげは>をのみくだしながら、カオールの Vin noir(黒ワイン)ひとしずくの陶酔にひたるが、「部屋」は全読して鍵盤の階調をたんのう♬「死んでいる場合か」はつぎの1首:<凍蝶をつれた仔猫よ>にひきこまれつつも “今いずこ” を自分なりに書きかえてみたい欲求が大爆発!!!! 「読みかけのディケンズ」は既知的で古朴。ちなみに数ヵ月まえから、もはや投票機能にはかかわっていない。

 

 

 

ღ グループB

 

「黒い靴のままで」をなぞりながら、こちらの感性はいつしか中原中也がだいきらいと公言してはばからない宮本浩次の反俗におりかさなってゆかなかったか? 「読みかけのディケンズ」のドードーのリフレインのほうは、すなおにうけいれていた。たぐいまれなる詩人なのだろう。マダム草野、いままでありがとう。

 

 

 

ღ グループC

 

「マグロ大王殺し」はことばが未知の観念連合をめざしていながら、わたくし個人としては上述したSNSのジョークからのがれきれていないような不審もぬぐいされなかったが、「劫火の終わりに摂氏世界を孵化させる、再生と順接の神、環化su蛾花」はそれとは正反対にことばの錬金術がいつにもまして様式美をほこって、ひときわ妖艶に完成されつくしたものにみえたし、「読みかけのディケンズ」もいままで以上にリラックスした筆致でほおぉぉと感心させられる精緻がさりげなく、ここちよい。ともあれ当グループの諸兄も、いままでありがとう。

  

 

 

ღ グループI

「読みかけのディケンズ」Takeman氏

「読みかけのディケンズ」成鬼諭氏 

ღ グループJ

「宇宙作家ディケンズ」小林猫太氏

 

 さいごにこうやって3賢人の玉稿をたてつづけに拝読すると、なにやら小説とむきあうよりも寄席でふんぞりかえっているような気さえしてくるが、「本を読まない僕でも知っている」の前口上とはうらはらに、フー・ダ・ニット形式によるディケンズ作品:“The Mystery of Edwin Drood” から興趣をひいたTakeman作品は、しかしながら3賢者タイム中でもっとも文学的でなおかつ本サークルの有終をかざるにふさわしい清新やせつなさをたたえていた。モーツァルトのKV. 595のロンドからきかれるような愉悦/哀感:然り、揺らぎ」における異星の神が、はたして作中でいかなる意味をもつものか? 「異星の神は既存の宗教をリセットさせるための手段」なる答酬をいつぞや作者Takeman氏ご本人からいただいてうれしかったが、「二週間目の暗黒茹で卵」「prey and pray」をはじめとして、いやぁぁ~もう毎月たのしませていただいた。このたびもラストの2行は、スタンダールのそれに比したくなるものでした。いままでありがとうございました。

 

 

 

 

彼女のあそこが眩しくて(一徳元就師)なる神代煽情文学®から不感症にさせられて、ついに恢復のみこみはなかったが、おもえば原稿用紙6枚作品の──これがやはり極北だったのではないか!?  「6枚」とは小劇場のようなもので、ストリップ小屋にもなれば口からでまかせの寄席や浅草ロック座にもなる──いや不屈の不退転のかくごがあれば反゠文学をつらぬくこともできるのだと元就師匠からおしえられた<道場>ならぬ6枚劇場:「読みかけのディケンズはまさにそんな口からでまかせの韜晦のすごみが、もろにでていた。それかあらぬか高座からは反゠文学的(アンティ゠ディレッタント噺家のそれではなく、ペトリュス・ボレルのごとき半狂乱の眼光のむしろ詩美にもえたつ火箭がふりそそいできて、わたくしは威伏しつつも愉悦にはずんだしだいだった。じつに元就師父からは、おしえられることがおおかった。いままでありがとうございました。

 

※「げんなりボール」「猫太侍」などの小道具をもちいた6枚作品を、わたくしは旧年中にはやくも脳裡でしあげておりましたが、<六枚道場>管理人はプライヴァシィ上の危険性でこれをとうてい掲載してくれないだろうとの憶測から、ついに脳裡からひきだすこともなくおわりました。いつか私家版として献呈させていただけたら、さいわいでございます。

 

 さいごはその猫太侍じゃなく小林猫太氏のお作品で、およそ1年のあいだ運営がつづいた本サークルのための拙文をしめくくる。ジャッキー・チェンの映画にでてくるクンフー・マスターのような鍛達の筆致が、つねに躍動していた。このたびも文章はすばらしかった。わたくしは毎日文章を書くトレーニングをつんでいない。それどころか書くのは月にせいぜい数時間だろう。しかし毎日のトレーニングをつまないことには、かかる猫太氏のような筆致はとうてい身につくことはない。あとはその達意が、おおいなる主題をとらえたときだ。まっている。ネットからとおざかった当方のような人間の耳にも、きこえてくるくらいの大爆発:『少林サッカー』のごとき巨篇のうぶごえが猫太氏のペンからあがって、すめらきの島国をその爆音でゆるがす日がくることを、たのしみにまちつづけております。いままでありがとうございました。

 

  かかる3賢者タイムとあわせて、さいごに紙文氏、宮月氏、ケイシア氏、中野真氏、いのり氏などのお作品にふれられなかったのはさびしいかぎりだが、しかたがあるまい… なにごとにも、おわりはめぐってくる。ありがとうさようなら、また問うことなく白雲はつきるときなし、「担(ただ)(され)」のひとことがのこる口腔のにがにがしさを、ボルゲリからとどいた奇蹟のしずくでうるおす。さるにても本サークルがなくなってしまうと、みなさまのお作品にふれる機会もなくなってしまう気がしてならないが、いずれ巨大な跫音がきこえてくる日をたのしみにまっております… Je vous remercie tous, et BON COURAGE!!!!

 

 

 

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略人疏註 :第11回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ はじめに

 

『ブルグント公女イヴォナ』刊行をもって7、8年におよぶ当方のゴンブロヴィチ欲はほぼコンプされたしだいだが、『結婚』ほどの衝撃はなかったにしろ本戯曲もドリフみたいで大満足:『コスモス』あたりも同版元があらためて刊行してくれないだろうか? 『ウェルギリウスの死』だとかハインリヒ・フォン・クライストの絢爛たる騎士劇だとか図書館のふるい全集の1巻としてしか手にとれない傑作が、ほかにもたくさんあるので、ぜひともよろしくおねがいします。

 

 

 

 

 

 

ღ グループC

「太閤黄金伝」乙野二郎氏

 

『妖説太閤記山田風太郎が関白秀吉を、もっともよく活写しているとおもう。およそ一般的イメージの磊落な “猿” ではなく、ぞっとするほど陰険で邪悪… まずしい百姓あがりではなく、ゆびが6本はえ山窩だったという稗史のささやきにもうなずきたくなるが、わたくしは本能寺(1582年)にもやはり “猿” というかハゲネズミがふかく関与していたのだろうという疑惑をぬぐいきれない。というのも右府信長の最晩年にアヴィス朝ポルトガルはスペイン併合(1580年)で、いったんは亡国。ポルトガルとちがって、スペインが貿易とともに精神のアヘンともいうべきキリスト教によって日本を内面から毒して植民地化しようとする奸計をひめていることに気がついた信長は、だんじて交渉を拒否。ポルトガル人宣教師フロイスは信長が一統後に大艦隊をひきいて中国大陸の征服にのりだして、むすこたちに領地を分割支配させるつもりだと書翰にしたためたが、じつにこれは信長よりもスペイン&キリスト教の野望… かりに羽柴筑前守秀吉が本能寺の変にかかわって、スペインがこのクーデタのうしろだてになっていたとしたなら、のちに豊臣政権が2度の朝鮮侵寇軍をおこさざるをえなかったのも、むべなるかな… えげつないスペイン&イエズス会の大東亜教化゠属国化計画をみぬいた家康も烱眼だったから、スペインみたく交易と布教とをコミコミ・プランにしないオランダおよびイングランドと手をくんだのだろうし、もののみえない仙台黄門のごとき東北の総会屋と駿府久能山の大御所とではもとより品格がちがう。さらに教皇の植民地になるよりも鎖国はまだしも日本にさいわいしたのかもしれないが、いったん植民地化されて勇猛なる士族がそこから100年間におよぶレジスタンスおよび解放戦争をくりひろげていたとしたら、こんにちのSNSまでもが百姓根性や貧乏くさいポピュリズムから毒された島国とはことなるジパングができあがったかもしれないぞとおもうと、そぞろ血がわいて肉もおどる…

 

 ところで乙野作品でも石田三成(テキストでは光成)関ヶ原の首謀者だったとは明記されていない。じつのところ三成は家康とわりあい連繋しつつ豊太閤なきあとの事後処理をすすめて、おもてだった敵対関係はみえないようだし、「たぬきおやじ」のイメージとはうらはらに家康が実直すぎるほど織豊政権をささえていたふしもみられる気がするが、どさくさまぎれの騒擾をみこんだのは上掲のいなか武将政宗大阪城に陣どって使嗾した安芸中納言輝元のたぐいではなかったか? 「いちゃもんじみたやりとりと、こずるい策謀」がはたして巷談のイメージそのままのものだったのか? ひきつづきスペインが秀頼の代まで大阪城にたたって、キリスト教で日本を毒そうとする野望をすてていなかったとしたら、なんとしても家康はこれを覆滅しなければならなかったはずだと本作をよみながら、しばし島国のこしかたゆくすえを、ネットユーザの農村的ポピュリズムと硬直した政権とでひきさかれそうなコロナ禍の祖国のありようを、かんがえる正月のよすがにもなりました。

 

 

 

ღ グループF

「然り、揺らぎ」Takeman氏

 

  よいタイトル。ドイツ゠オーストリア表現主義的なカンタータのそれのようにも感じられる。はっきりと書かれてはいないが、なかば都市伝説的な古代ユダヤ&伊勢神宮/キリスト&戸来などのニュアンスが感じられたが、「破れ」というテキスト中に散見される表記はこのままでよいのだろうか? もともとの神々の支配圏がやぶられたということか? はたして異星の神とはなにか? 「奇跡」はわたくしが全身にあびている奇蹟とはべつのものか? 「奇跡」がなにひとつとして身におこらないことこそが真の奇蹟:“Kryie eleison” (あわれみたまえ主よ)ではなく、<お許しください>のひとことに “揺らぎ” をみるべきか? いきおいコロナやらワクチンやらともむすびつけて、きりあげようとしながら、ゾロアスター(火祆)教をあがめていた倭国にとっては天孫族も仏教もネストリウス派景教も、もとは異境から飛来して疫病のように伝播したものだったんじゃ? 「玉砂利が敷かれた境内」のように人生をふみしめてきたTakeman氏ご自身を、なかんずく作中にちかごろは実生活のいかなる狂気や懊悩や絶望がひそんでいるかという観点から、ズームするようにもなってきた。

 

 

 

ღ グループA

「迎春奉祝能「清経」」元阿弥

 

「清経」は世阿弥陀仏が複式夢幻能を確立するまえに創作した修羅能。そもそも能と狂言とを総称しての能楽(散楽)だから、ファルス的な要素もぶちこんで、わるいはずがない。こんにち刊行されるスタイルよりも謡曲の原典は、ずっと散文にちかいものにみえる。アルバン・ベルクの3幕15場のオペラにもとづく長篇をおよそ10年のあいだ書きつづけて、ラシーヌや能の劇的小空間にむしろ魅せられるようになった。みやこで隠栖する清経の妻のもとに淡津三郎がとどける遺髪は、スヴェンソンにかえてみた。かみは世阿弥の原典でも宇佐の神で、ありし日のエロティックな閨房のいとなみもイメージさせる髪… ねむったまま妻が耳にすることになる原典のサシシテ:「聖人に夢なし」に照応させるかたちで本作:「死人に口なし」がことあげになるわけだが、「やえのしおじのうらなみ、ここのえに」のここのえは帝都。だんな(落武者)は死後に海(〽やえのしおじのうらのなみ)をわたって奥さんがいる東京にもどってきたことになる。オリジナル落武者の平清経は源氏の追撃におびえて、おびえるあまり正気をたもっていられなくなって、うさ(宇佐)からのがれるべく入水自殺… こじつけにすぎないもののデリヘル愛欲濃厚接触な光(コロナ)源氏からおいつめられて、だんなは縊死しましたといったら、ご愛嬌:「ふぇらちゅ~る」は地謡にて有之候段、だんなが奈落にありつつも仏果をえて昇天するすがたは、まずもってめでたしめでたしの蜻蛉日記の筆者も眉をひそめそうな散楽事(さんがうごと゠ジョーク)でございます。 

 

 

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略人疏註 :第10回 <六枚道場>


 

 

 

🎤 カラオケバトル

 

<六枚道場>は年1回のいわば一過性のイヴェントとちがって、たえず原稿用紙6枚の言語表現が有効かどうかの自問自答もつづけてゆかなければならない… たんなるサークルだぜ、だれが自問自答するかよ? あっちが年1回ならこっちは月1のイヴェントさと鼻でわらう筆者/読者もいるかもしれないが、はやくも年の瀬がちかづいたことだし、ひとつ根本から原稿用紙6枚の表現をみなおすことにして結論からさきにのべるとするなら、コロナ世界よろしく展望はあかるくなさそうにみえる。

 

「均質性」「既視感」などの表現を、およそ1ヵ月まえに本家ブンゲイ(どうにもこうにもやはり “ブンゲイ” のカタカナやBFCの3文字は苦手でどぎまぎしちゃうから、つぎから同名称を “本家” の2文字であらわすことにする)作品群にたいしてM*A*S*H氏や紙文氏は、ひと月ほどまえにそれらの表現をもちいながら、サイレント読者のおもいを代弁しておられなかったか? 「均質性」はそこに撰者が介在するからというばかりでなく、ぞんがい原稿用紙6枚の表現と密接にからんでいるように推察される。いうまでもなく6枚は、みじかい。みじかすぎる。ぶっちゃけ書くのも読了するのも、たやすい。たやすさはときとして他人のイディオムで水をながすような安直さにもつながって、つづられている文章は書き手の半径30㎝から手づかみにされてきた横着なものにみえることもしばしばだし、「既視感」はおのずからそこにそなわるもの… ささっと名刺がわりに書けもすれば一読もできる利便性になおかつWEB上公開+SNS連動ゆえの反響の即効性もあいまって、わたくしが現時点でたくさんの書き手とつながることができたのも “本家” の原稿用紙6枚のインヴェンションというかイノヴェイションのたまものだということは、どれだけここで感謝しても感謝したりないほどの事実なのです… ありがとうございますと明言しておかなかったとしたら、フェアではあるまい。ありがとうございます。めぐりあえたしあわせは、ひとえに原稿用紙6枚および惑星と口笛ブックスのおかげです。ただし利便性によって喪失/剝奪されるものは、かならずや存在するはずだということも明記して、つぎにすすむ。

 

 はじめに原稿用紙6枚の表現のファイトときいて、もろこしの武術の百家争鳴のようなものをイメージしたひともすくなくないにちがいない。そこには南船北馬よろしく戳脚翻子拳もあれば燕青拳もあれば回教心意六合拳もあって、トンファもあれば棍術も刀術も黄飛鴻の無影脚も極真カラテも西欧わたりのコマンドサンボ、サヴァト、ルタ・リブレもみられるかもしれない。つまり小説、詩、戯曲、都都逸、まんがなどが、ぶつかりあうエキサイト… ふたをあけてみたら、そんな絵そらごととは無縁の散文空間:「均質性」はたしかに昨年よりも顕著だったが、わたくしはそこに原稿用紙6枚の表現の根幹や限界をみたような気がした。カンフーのごとく小説や詩や戯曲がわかれて独立した身で、ファイトするのではない。それらのジャンルというか要素は、ひとつひとつの作品のなかに融合されている… みじかさは小説を書くばあい一面では困難さにもつうじる。そして原稿用紙6枚の小説はその困難さからのがれるために詩にあまえる。いっぽうで詩にとって6枚はひろびろとした空間だと錯誤するなら、そこには小説にあまえた寓話や散文詩になりがちな危険性もかいまみえる。わたくしは五味康祐のあの凝縮された傑作「喪神」が原稿用紙6枚でつづれるなら、すこしはその枚数の可能性をみなおすかもしれない。しかし6枚でそれは、ぜったいに書けない。つまり6枚は凝縮させるためにさえ不十分な分量だし、もとより作品をカタルシスにみちびくことはなおさら不可能な枚数といえる。

 

 さても原稿用紙6枚がおちつくところは、おおむね小説未満でなおかつ詩以上のいわば東武ワールドスクウェアのごときミニテュア・パークか? ひとつの作品のなかに小説や詩や戯曲が融合された新機軸といったら耳ざわりがよいが、どっちつかずのしろものの大量展示といったら蝗害にちかいイメージがうかぶ。つまり無自覚なものにとって危険きわまる死角から、ジャンルが溶解する。ジャンルが他ジャンルや他人の書法にあまえて、くだんの名刺がわりにうってつけなコンパクト性や(既視的なイディオムの)通気性のよさをアピールして、ピリオドのさきまで空気をよんでくれそうな読者にあまえる… 「愚者たち」によせるM*A*S*H氏や紙文氏のコメントにそそられて、さきほど作品そのものを一読してみた。うまい。まちがいない。ただし讃辞だけですまそうという気にもならない。どうも原稿用紙6枚の小説のうまさというものは、カメオのレリーフっぽい浅薄さとほとんど致命的につながる気がしてなりませんやとぼやきたくなる。そして勝ちまけをきめるイヴェントの応募作でまじめに書きすぎですよ、やぼですぜと野次をとばしたい気分にもなってきた。

 

 われわれの身になじみはじめた原稿用紙6枚の勝負ごとは、カラオケバトルにちかい。たまにTVでそのたぐいの番組をみて、なんでこんなのばっかりが勝つんだ!? <六枚道場>のあの投票結果などをみるにつけても狭量なわたくしはそんな反撥でいきどおってきたことが、はっきりといまになって想起されました。ひとの楽曲をひとの歌唱法で、コンピュータの採点に気をくばりながら、やけに真剣にうたいあげるバトル… 「均質性」「既視感」しかり原稿用紙6枚で書いて、ファイトすることはいまやオリジナルの殺傷力をぶつけあうことではなく、むしろ既存のフォーマット(仮面)にいったん自分をおしこんで、どれだけ闊達にどれだけ声量たっぷりに表現しうるかを、スコアでせりあう行為にちかいんじゃないか? なんで新妻聖子とかいうのばっかが勝つんだよ、みんな耳がおかしいんじゃないか!? ながい小説をアップするよりも現状はこの界隈で原稿用紙6枚の小説を投稿したほうが、おおぜいの読者にめぐまれるかもしれない。しかしミュージシャンがステージではなく、カラオケでうたうところばかりを聴かれて、いったいどれほどの意味があるのだろうか? <六枚道場>はだんだん巨大化していって、かえって存続する意味がなくなってゆくんじゃないでしょうか? およそ半年ほどまえにそれを問うてみたら、ぼくはむしろ継続するごとに作者というものの存在意義がどんどん稀薄になって、おびただしい作品群がおたがいに近似しあって巨大なひとつの表現にかわるような未来をこの眼でみてみたいとおっしゃられた紙文氏:<道場>の書き手はなるほど自他の作風の垣根もこえて、おたがいの領分を浸蝕しあいながら、ボーダレスに溶解しているようにもみえるではないか!? 「既視感」の重量がわたくしの両肩にのしかかってくるばかりなのは、ネット上にいまや厖大な6枚小説が公開されていることと無関係ではあるまいし、<道場>第10回作品群をよんで蚊がなくような寸評しか口からもれでてこないのも、ほかならぬ大量アップ下の眼精疲労がひきおこすデジャ・ヴにさいなまれたすえのことだろう。

 

 

  

 

 

 

ღ グループA

「ことば」星野いのり氏

 

 せみしぐれから、わたくしの脳裡にまさに殺陣のスリルがひろがる。ことばではなく、こと刃とつづりたくなる… 「こわい男よ」うしろすがたを遠眼でながめただけで、どれほどの剣をつかうかがわかる。みごとな凝縮が、ここにある… こと刃はまだ鞘におさまっている。しずかにおさまっている。ひらめいたとたん読者は斬りはらわれて血けむりをふくような居合の殺気が、ここからゆらいでいる。わたくしは俳句にたいして文盲なので、この余は言及することができない。ただし厖大な6枚小説から圧迫された意識には、みごとさはよけいにきわだって映じるので、ひとこと本作について書きそえずにはいられなかった。

 

 

 

ღ グループB

「ノン(ノン)フィクション」紙文氏

 

死に神の夢」も拝読した。わたくしにとって本作とともにそれが興味ぶかいものになるのは、とりもなおさず人類にむかって死刑のらっぱ Tuba mirum をふきならす天使のむれの “王国” のものがたりとして両作が1冊の書物におさめられるべきときにほかならない。ベストセラー作家の筆名も万事終了の音につうじそうで、すがすがしいほど逆説的なユートピアにふさわしい。いっぽうでアイドルが演じるTVドラマのくそ芝居のようなリアクションをくりかえす話者には、ラオウの天将奔烈やケンシロウの夢精転生をあびせたくなる。それにしても書けば書くほど紙文作品がどんどん闊達になっていって、カラオケなら高得点につながりそうなクォリティをほこっているのはまちがいない。そろそろ圧倒的に不利なネタのもとで潜在能力をしぼりだすような作品を、うたえないキイでうたうような逆にご自身がやぶりすてたくなるほど不自由な作品を、しどろもどろで書いていただきたいともおもう。アンダーフロウな世界にうってつけの書き手だときめつけて、つぎの至乙矢氏につなげる。

 

 

 

ღ グループD

「オーバーフロー/A」至乙矢氏

 

「墓場軌道」から注目している。このたびも、うまい。いつか至乙矢氏の博識が、わたくしの既視感をうわまわった作品をしあげてくださるような気がする… したり顔でAはアキオくんだろうなどといったら、さむいだけかもしれないのに書かずにはいられなかった。

 

 

 

ღ グループE

「prey and pray」Takeman氏

 

 よみごたえは、いちばんだった。ただし一撃一撃のダメージや痛みとともに既視感が、こちらの意識におしよせてくる。むしろ本作は書き手が、みずからの精神にきざみつけようとした墓碑にちかい内声にみちたもののような気がしてならない。とびちる血しぶきは、ワイン… ひしゃげた顔の肉は、ステーキ… なぜかフィレンツェで肉汁がしたたるビステッカをほおばりながら、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノをかたむけたほどに甘美な読後感がある。ほどよい詩情が既視感からたちあがるのは、はたして本作の美点ゆえか弱点ゆえかとかんがえあぐねる…

 

 

 

ღ グループF

「クロージング・タイム」ケイシー・ブルック氏

 

 ちかごろ原稿用紙6枚の小説なら、ほぼ3分間でよみおわるようになった。はじめの数行でこれは無用なりと判断したものを除外しながら、したがって1時間もあれば全グループを完読できる。うわすべりしているほど饒舌なかたりくちのものがおおいなと今回はいささか閉口したが、さすがに自身の “声” をもつケイシー氏のそれは底光りしている… ひとめをひくだとか尖鋭だとか巧拙だとかとも、それはちがう次元の問題のような気がする。とどのつまり自分の “声” をもたぬかぎり書き手は、フォークナーの仮面をかぶろうがボルヘスのものまねをしようが押切もえになろうが、わざわざ小説をつづるべき用もないのだ。ネット上にそんな無用の星くずがちりばめられておるなと感じた師走の第1土曜日のひるさがりが、マンスリィ・イヴェントのわがクロージング・タイム…

 

 

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略人疏註 :第2回 <文藝擂賽>

 

 

  

 

✍ はじめに

 

彼女のあそこが眩しくて(一徳元就師)なる神代煽情文学®から原稿用紙6枚の小説にたいする不感症にさせられて、いまも恢復のみこみがない。なにがどんなふうに書かれていようが、ぜんぜんOK☆ぜんぜん感じませんの巻。ねらっていた女の子のなにげない表情から、とつぜん自分の父親とか弟とかに酷似したものがみえはじめて、いくにいけない懊悩にもつうじる E. D. 感☞「吉美駿一郎 vs ハギワラシンジ/レフェリー紙文」のおもむきで本稿をすすめたくても E. D. げんなり病のそんなこんなでパッションはわき勃たなくて、さなきだに未読の吉美作品は毎度のごとく大伽藍に比すべきものではあるまいか? 「幻の魚」は数日まえに読了して日本語につばさがはえた作品だとわかっているから、いっぽうは読者がことばをさしはさむ余地すらないかもしれない堅牢無比のしろものなら、もういっぽうは読者がことばをはさむのが不粋におもわれる作品というわけで、いずれにしろ難儀なものよと歎じつつも感想はのべさせていただくって約束しましたからね… 

 

全体を読んでもらえる筈という創作上の前提が、既にプロとしては甘い。自動的に先へ先へと進んでいく音楽や映像作品と違い、小説は受け手が読むことを面倒に感じた瞬間、いったん終了して、そこまでの作品となってしまう。

 

 ついさきほど紙文氏のRTで眼にした文章だが、ひるがえって自分がくりかえし賞翫して倦じない名品は逆になぜ自律的にすすんでゆく音響映写にちかづいて、なぜ美酒のように自然にうっとりとさせてくれるのか? わたくしにとっては五味康祐柳生諸篇などがその名品にあたる… まずはこのあたりを該当の名品から、いったんは対岸にもどって再考するなら、とりもなおさず初見の作品は未知のことばの羅列でなりたっている。それらを苦心惨憺のすえ咀嚼して解析して読了したあかつきにうかびあがる全体像から、なんだ過去にいままで何度もくりかえし表現されていたことが、ここにも書かれていただけじゃねーかという幻滅や徒労をあじわいつくしてきたことに気がつかされて、ひゃっぺんどころか千篇万篇のそんな徒労や幻滅にみちた読書体験からすくいあげられた稀有なものゆえ名品はおのずと音響映写にも美酒にもちかづいてみえるというもの…

 

 もっとも上掲のRT文章はおめーらの作品がつまらなけりゃ数行でほうりだしてしまうのが読者だぜ世間だぜといっているのだろうが、ほうりだされまいと1ページめから商品化につとめる作品もかえって底がわれて興ざめだし、「あたらしいことにガンガン挑戦していきたいです」というアイドルのせりふとおなじくらい<新作>にいまや猜疑のまなざしをむけるばかりな読者もすくなくないのではあるまいか? やぶれたらこまる下着やなくなってこまる惣菜などは量産しなければならないにしろ小説はわが家に10冊もあったらうんぬんかんぬんとつぶやく E. D. げんなり病の読者が、ともかくもそんなこんなで吉美作品をひもとく… さいごにブンゲイというカタカナやBFCの3文字は、なじもうとしても1年ごしながら肌になじまなくて、どぎまぎしちゃうから文藝擂賽なんて書きかえてしまって、ほんとうにすみません。 

 

 

 

 

「盗まれた碑文」吉美駿一郎氏

 

とりあえずマヤ文明に紙は無かったのではないかと思った」じつは本作をよむまえに紙文氏のRTで加藤晃生氏のさまざまな指弾をまのあたりにして、おそろしや加藤先生!!!! ならぶものなき博覧強記にいたく感心させられたが、「紙は無かった」の6文字をわたくしはうかつにも無文字文化というふうに誤読:「マヤ/聖典」の2語でGoogle先生におたずねするところまで未読の段階から別方向にめがけて驀進すると、ポポル・ブフなる聖典にたどりついた。あと2、3歩ふみこんだら真偽はさだかになるともおもったが、「どっちでもいいじゃん」という内心の声がそれと同時にこだましはじめた。アマゾンのジャングルの葉っぱの枚数だか蠅の翅の枚数だかまで都内下町の書斎でしらべあげたとうそぶく小栗虫太郎ふうの虚実ないまぜもゆかしきもの。スマートフォンでだれもが検証しうる現代において小栗流のはったり芸を、こんにちの書き手がそのまま継承してよいわけではないのはいうまでもない。しかしiPhoneをもっているだけで、たいていの読者はいちいち記述のその真偽をたしかめたりしない。たしかめないからよいわけでないのはもちろんだが、「どっちでもいいじゃん」の声にはとうてい抗しきれない… ここにいたってようやく本作をよみはじめた。そして未読時にいたく感心させられた加藤先生のご指摘が、なにやら見当はずれな数箇所をつきまくっていることに気がつかされた。

 

「石板と石碑がおなじものを指すのであれば」うんぬんの加藤先生のご指摘も一読後は石板に詩がきざまれたものが石碑なんだろうし、「怪異の仕業」によって佚文にもどされたものが石板なんじゃないの? 「何の説明もなく突然3枚めの左ページで石灰岩が出てきて、壁とかコの字とかいう話が展開する。これは不親切」のご指摘にはニヤリとさせられて、さこそあらめ小栗ならここで補足の挿画をもちだす段:『黒死館殺人事件』のそれをわたくしもいまや欣喜雀躍しながら、まってましたとばかりに青空文庫さまから拝借仕候。こんな見取図をみせられたって、ちっとも読者の理解はふかまらないのに披露するのが小栗流なのだった。

 

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 「同じ人物を指すのに『王』『月の火』を使い分ける必要は無い」のご指摘には作品の風味づけでしょうなあ… おなじ作品のなかで上杉謙信のことを不識庵とか大僧都とか荷風散人のことを金阜山人とか書きかえたくなっちゃいません? 「手をあげると翡翠の腕輪が鳴った」「黒髪の波間に、銀が現れては消え、現れては消えてゆく」「皮膚を貼った碑」なんて本文の描写はラストまでリアリスティックでなおかつロマンティックでみごとですよ。ただし第九代王としか情報があたえられていないのは不満ちゃー不満ですね。マヤ文明にも〇〇王朝だとかの時代があったんでしょうから、ぐだぐだとそこは起源や縁起のうんちくをつけくわえてほしかったですし、わが小栗ならかならずや月の火にもカタカナで強引なルビをふったはずですよ… ここで年代をさだかにしなかった作者はもしや寓話化したかったのでしょうか? わたくしは寓話なんぞという深窓の令嬢みたいなものはいやです。ましてやファイトするための応募作品なら、いっそう寓話性なんて排除してほしい。ところで先生はおのれの詩句にそんなすごい魔力があったら、マヤ王から詩人が殺されることもなかったのにというふうなことをおっしゃりましたが、「死」が幽憂する詩人にとって浮世よりも忌避すべき悪所だとはかぎりませんよ。だからこそ妻の髪をなでる詩中のシーンが、なぞめいて預言的にみえるのかもしれないざんすよ…

 

 かかる加藤先生との架空のやりとりをつづけながら、はずかしいことに再読・再々読しても自分がまたもや誤読していた箇所に気がついて赤面したしだいだが、いったいどうしてマヤ王月の火は処刑するまえに詩人の両腕をぶったぎったのか? ぶち殺すなら切断は不要じゃん? 「彫琢」の2文字がつまりは脳裡にやきついて、そっちは詩人じゃなくて彫刻家だったことにさえ気がつかなかったのだ。ひとさまの作品に言及することは、のろわれた所業だとおもいしらされた。そして所業におびえきった口から、まえもって結論づけるべく本作はみごとな幻想小説だと明言しておこう。

 

スカルラッティが "Già il sole dal Gange" でガンジス川を持ち出したような素朴なエキゾチシズム喚起の小道具という可能性も無いではないが、そんなオールドスクールな道具立ての作品がブンゲイファイトクラブという文学の」うんぬんは本作の未読時にことのほか刺戟をうけた加藤先生のおことばで、モーツァルト後宮とかをひきあいにださないところがよいよなとおもったし、「それどころか(舞台は)古代の日本列島のどこか、でも良いくらいなのだ」「現代のマヤ人への仁義をどう通すか」のくだりで本作にたいする先生の言及をば完全にわたくし自身のことと混同:「紙は無かった」を無文字文化とよみちがえたゆえんだった。それというのも無文字文化圏の西域わたりの蘇我氏記紀萬葉集をでっちあげた朝鮮わたりの天孫族とのアウトレイジが秘せられたまま現代日本人のDNAにつづられているというのが、わたくしの祖国観の根柢で、いつか加藤先生からおしえをこうてみたいという冀願もよびさましたわけだが、「紙は無かった」「現代のマヤ人への仁義」などはロマン主義のみごとな幻想小説たる本作にたいして見当はずれな指摘、要求、いちゃもんだということは一読後にもはや明白だった。くりかえすが、わたくしは本作をみごとな幻想小説だとおもっている。

 

<六枚道場>なら、ここで感想はおわっているかもしれない。ただし本作はファイトするための応募作品なのだし、わたくしも本作とセメントでやりあわなければならない!!!! 「現代のマヤ人への仁義」などの難癖もあずかりしらない高次でそれは静謐にみごとに完成されている作品だからこそリング上のはげしい要求をつきつけたくもなる。くりかえすが、みごとに完成された作品だとおもう。しかしファイトするなら、おつにすまして完成されてはいけないような気もするのだ。マヤのいつの時代とも現代ともふれあうことがなく、ロマンの香気のなかに本作はたゆたっている。ヴィリエ・ドゥ・リラダンのコント・クリュエルにおさまっていたとしても遜色がないようにみえるが、『サラムボオ』『聖アントワヌの誘惑』のフローベールなら空想からでっちあげた異常なまでに精密なリアリズム世界を、ロマンティシズムはおろか “現実” をつきやぶったさきの異次元にまで敷衍させるのではないか?「手をあげると翡翠の腕輪が鳴った」の1行にさらなる過剰にいかれた数ページの描写をつけくわえたような気がする。それで吉美作品も6枚におさまらなかったとしたら、すなおに破綻すればよい。まずは原稿用紙6枚の “現実” をふみつぶす。よくできたものがたりだということはまちがいないが、よくできたものがたりを書いているばあいじゃないぞ、ファイトするんだと発破をかけたくなる。ものがたりは自己をまことしやかに表現している輪郭線のすべてに猜疑の視線をくれながら、いっぽうで輪郭線たちもその本体の<真実味>にうたがいの眼をむけている… とうぜん作品は6枚のなかに視像をとどめることができなくて、ことばはぶれてよじれて支離滅裂になるだろう。わたくしはそんな地獄のバトルがみてみたい。ファイトする相手は他人じゃない。ほかの書き手のことなど知ったことではない。なによりもまっさきに自作が “現実” にぶつかって、ロマンの幻想のなかに退嬰するのではなく、ひしゃげて破綻して、よくできた幻想小説なんて19世紀の西欧人がそれこそ在庫過多なほど書いてるじゃないか!? 「現代のマヤ人への仁義」をだれからも要求されていないのに錯乱、暴虐、卑劣、嘲笑でおしとおすような破滅作をよんでみたいと切実におもうし、「天狗の質的研究」「群」などはもっと尖鋭で狂気にみちたものではなかったか? ねがわくばファイトするための全応募作品が “現実” をつきやぶるべく破綻して欠損して膨張して歪曲して諧謔して韜晦して卑下して、ふざけきって発狂して軽薄へらへらで自爆する作品だったらよいのに… わたくしも加藤先生とおなじくらい本作にいちゃもんをつけたかたちだが、だからこそ1文1文がその作中にけっして定着することはなく、つばさをひろげて上空にまいあがって、つねに作品をだいなしにしようとする衝動をはらんだハギワラシンジ氏を推したがるのかもしれない。なぜだか毎度のごとく猛スピードでつねに “現実” の壁にぶつかって、ひしゃげて、ひっくりかえった車輛をイメージさせるハギワラ作品は、いっぽうで自身のなきがらから天使のつばさをひらひらとさせて、こともなげに時代からはばたいてゆく。

 

 

 

「小指を見つめる」吉美駿一郎氏

 

  つづく本作は、テキストにずいぶんと私的な要素をふくんでいるような気がした。インターネットに敗北した小説家なる種族のことも、なかば無意識にとりあつかわれている心理的自伝… けさ4、5回ほどの黙読のすえに脳裡にうかんだ全体像は、ミステリ+幻想小説のなおかつ内実は散文詩というものだった。 おもてむきはローレンス・ブロックやJ. R. ランズデールにならったような輪郭:「広島県南部」の設定にもかかわらず貧乏白人をとりかこむ土壤をイメージさせるし、「一九八二年七月二十八日」が誕生日でありつつも実質は50年代うまれの主人公がふさわしい翻訳調のアナログな空気感につつまれている。メルセデス゠ベンツの男なんかもまさに恰幅がよい富裕層の白人をほうふつとさせるが、じつのところ作者はこれとて共政会幹部のすがたなどをあてはめて書いたというようなこともありうるのか? 「小指をつめる」稼業のはなしといったらジョークがすぎるが、「アメリカの媒体に聖書研究についての文章を発表、原稿料で糊口をしのいだ」「それらのエッセイが彼の手による翻訳で収録された」などの説明から罪人はともかくも英語にたんのうで日本語のほうも一定水準の文章力のもちぬしだとみられる。「五人兄弟の長男で、そこそこ明るい少年時代を過ごした」

 

「彼の人生に陰りが生じるのは」うんぬんから彼はまさにその人生のスタート・ダッシュをきることになるが、「弟が死んだのに何も感じない」おのれの空洞性をまわりに転嫁しながら、まわりにもその空洞性をおしひろげてゆくしかなかったのは、そもそも宗教売文業のこの男がことさら空疎な25年の半生をすごしてきたせいではないか? 「ベンツの持ち主、弁護士、弟の同級生三人」はみんな弟がそこで蹂躙されて、もがきながら、とびおり自殺でのがれさった生き地獄にかかわる連中といってよい。もっと端的にいうなら弟の生死のなかに包有される人間たちだった。まちがっても兄たる彼の人生からとびだしてきた連中ではない。さらに両親にしたって弟の自殺とともに弟の人生が所有するものにかわっていたから、あやめたのかもしれない。アメリカの媒体での寄稿をなりわいにしてきた男は広島のどこかで自己をむなしくしながら、よその国のことばで稼業をこなしつづけるライティング・マシンにすぎなかった。

 

 およそ信仰者は紀元前から無限に四季をくりかえしてきた循環型時間と、イエス゠キリストの磔刑から信仰者みずからの “現在” まで運命的にのびてくる直線的な時間とを、ふたつながら同時に生きていることになるが、「本当の私と尾道秋をつなげているのはただの偶然です。わかってもらいたいんだけど、本当の私を見つけたら永遠の生命を得られるんです(中略)たとえ肉体が滅んでも本当の私は生き続けることになる。つまり、永遠の生命を得るためには、本当の私を見つけなければならないってことです。私は私を見つけなければならないのにそれを盗む人がいる。だから私は、本当の私を盗んだやつらを殺しました」の告白によって彼は循環型時間を “偶然” とよびならわしながら、からっぽの自分に気がついたとたんイエスからのびる直線的な時間をさがした。そして火中からひろった栗のような信仰を永遠の生命だの精神だのと称揚しながら、むりやり直線的な時間のその軌道にとびのるために数人を殺害のやりかたで排除したことにもなるかもしれないし、「偶然のない世界はキリスト教でなければ生れなかったとする、黄金時代のミステリ論。第二次大戦後、偶然が存在するようになった世界で、それでも悲劇だけは偶然以上の力が働くのだと提示したロス・マクドナルド論」をこれまで空洞゠無信仰のいわばライティング・マシンとして書いていたにすぎなかった男が、たまさか弟の自殺でようやく内部の空洞にいれるべき信仰をみいだしたというプロセスにもつうじないだろうか?  「弟が死んだのに何も感じないのは」ほんとうの自分がぬすまれたせいだといって連打する倚音のもとに弟にちなんだ人間たちを殺しながら、とどのつまり彼自身がなき弟の人生をぬすんで、イエスからつづく直線的な時間のその軌道にとびのったようなかたちとはいえないか? 「彼の頭はしびれた。ベンツを買う金などどこにもないというのに」

 

「投獄されて十二年目の夏」にみられる省略は、もとより枚数制限から要請されたものとはいえメリメの短篇のようなセンスが光る。ところで信仰の圏外で定義される精神は、おのれの肉体をかたちづくっている原子のエントロピーに反撥する無数の蜂の翅音やさざなみのようなものといえるかもしれない。そして世界にはやはり世界をかたづくる原子のさざなみがみちていて、ひとりの人間の死後はその精神も世界のさざなみのなかに還元されるだけのことだろうし、まちがっても死後に1個の精神がそこにのこるとはおもわれないが、「神」を信じる精神にかぎって残響しつづけるのか? 「延長コードは誰のもの」でひきあいにだされる萩原朔太郎散文詩には自己をくらいつくして消滅したあとも不可視の存在として生きる蛸がえがかれていた。それは精神よりもなにか妄執や怨念にちかいものだった。ところで罪人のこの短篇を所収しつつ上梓された書物の同総題には別してクェション・マークがつけられているところは芸がこまかいし、「死なない蛸」によって罪人をとりまく言語もようやく英語から日本語にうつった印象をうけるもののアメリカのローカルな空気感はきえていない。マット・スカダーの哀愁のままに幕をとじることができたらよいが、「尾道秋」は80年代のうまれで刑務所の “現在” もどうやら2020年らしい。オールド・ファッションのハードボイルドには似つかわしくないネット回線が、アナログのうしなわれた地平にも無粋な延長コードをのばしていた。

 

 こんにち読者の声がスピーディに書き手の耳にとどけられるSNSなどは利便性にみちたものだが、いっぽうではその利便性というか日常レヴェルの短絡的な結合によって書き手の機能をおそろしく退化させる宿命もはらんでいる… たえず端末画面をのぞきこんで、イヤフォンで耳をふさぎながら、ゆきかう雑踏のなかでも自分のちっぽけなエゴに閉塞する “現在” のひとびとをながめていると、うまれつきの機能とか触覚のひとつやふたつは退化させられているだろうと感じてしまう。つながろうとするまえから短絡的にネットで読者とつながっている書き手は、アナログだった時代のあの孤絶された個が生きたまま外界とつながろうとする書き手からはなたれた精神のエネルギーをうしなっているかもしれない。ネットの進化のぶんだけ小説そのものはむしろ退化したかもしれない。ネットに小説は敗北した。ネットは刑務所さえも孤絶させておかないで、そとの世界とむりやりコネクトさせてしまうだろう。だから小指をたべるという行為が、みずから外界とつながったアンテナをくいちぎる小説家というアナログの種族のいわば無意識における反骨のあがきのようにもみえて、すがすがしい。うまれつきの触覚をネットから退化させられて、うしなってしまうようすを小説家そのものが、あるいは被虐的にえがいた文字どおり精神的去勢゠最期… もっとも作者の吉美氏がまるきり意図していないどころか見当はずれもはなはだしいところからの感想かもしれないが、「歌声が消えてしまう間際。目覚める直前に忘れた夢。残照。それらに似た何かが」には作者の心理的自伝がぬりこめられた文字どおり散文詩のふんいきが濃密だし、「独房を通過すると、新人は己の小指を見つめる。もちろん毎日。一日も欠かさずに」の散文詩のおもたさから脱したような循環型時間の1行でしめくくられているところにも名匠のわざをみるおもいがする。そして名匠がつねに名匠のわざをみせる吉美作品から感じはじめた一読者のいらざる懸念については、あくる月にでも別稿で書きつぐことにしよう…

 

 

「幻の魚」ハギワラシンジ氏

 

 ここから眼をとおしはじめたハギワラ氏ご本人は、おそらく記述を理解しがたいとおもわれるので、お手数でも120行くらい手まえからなぞって、ここにもどってきてほしい。すると貴殿の小説のことばは不確定性にゆらめきつづけて、つねに失敗作におわるか空前絶後のしろものになるかの境界線でぶれているとみなす読者がいることに気がつくであろう。このたびの作品も、ことばのひとつひとつが蜃気楼だよね。しかし読者があまり作中にことばをさしはさもうとすると、かえって化学反応をおこして霧消してしまいそうな気がするので、ソーシァル・ディスタンシングですが、「竹みたいな甘い匂い」はいいよねえ… はなれぎわにアーネスト・ホーストのハイキックが、スコ~ンとこちらの後頭部にのびてきたような気がする。エスかっちはエスカルゴなんだろうなんて確認しちゃ不粋なんだろうし、「ワシ」かにカニかに? 「水死体から死だけ取り除いたみたいで」もばつぐんだな… いけにえからえぐりだされた心臓が、カニ神のための祭壇でぴくぴくと痙攣しているような作品だった。

 

 かつて日本の芸術表現にいちどとして前衛なんぞというものは存在しなかった。ものまねばかりだった。ダダにしたって日本のダダイストは、ダダっていってパリやベルリンでこれは芸術的にみとめられたものなんだよ的にカッフェーの女給をくどく目的でやってただけだろう、ば~かとゲスのかんぐりをしたくなる。だれもが小説を書きはじめるまえから商業主義やネットの劃一主義に屈服してしまっているような現状で、シュルレアリスムをおしとおせる人間はえらばれた書き手だとおもう。そしてハギワラ氏の自動筆記はむしろ長篇むきだと何度でも主張しよう。おもいつきの6枚じゃだめだ、パルテノン神殿のようなスケールのために自己のことばをふるいたまえ!! 「地下鉄はギリシアの神殿をめぐる帯状装飾(フリーズ)の精度と速度とではしりつづけた」Le métro filait avec la sûreté et la vitesse d'une frise autour d'un temple grec. わたくしはジャン・ジュネの長篇のかかる1文を、ハギワラ氏にささげたい。もしも吉美氏の構築的な作風が、ハギワラ氏の文章でつづられたら、ファンタスティックになるんじゃないかとも夢みるが、 おびただしい神殿の装飾が、ファザードや柱廊のなかに定着しないまま乱舞・繚乱しつづけるような奇観… 「ケトラルカ」がパルテノン級に巨大化した作品を、わたくしは待望する。ただし会社はやめないほうがいいような気がする。ストレスが貴殿をくるしめればくるしめるほど詩境もたかまってゆくとおもう。

 

 

 

「夜Vェ啼く無け、夜ル穢リ」ハギワラシンジ氏

 

 ことばそのものの楽劇のために、いっさいをなげうつ。なかなか一般の小説家は、ここまでおもいきれるものではない。パリ゠シャルル・ドゥ・ゴール空港の滑走路からフライトするさいの蜃気楼が、ことばからゆらいでいる。そして蜃気楼がつぎの瞬間には、アンダルシアのひまわりの丘にすがたをかえて、ひまわりはなおかつ視界のいちめんで炎上:「#恣意」のハッシュタグとはうらはらに火焰のその軍隊が、われわれのほうに理づめの布陣でせまってくる… めらめらともえたつ歩兵や金将によるAI将棋を、イメージさせるほど本作は精緻で構造的にめざましい進歩がみられる。はたしてそれはいかなる構造なりやと詰問されたら、こちらの脳裡にこだまする弦楽5部のハーモニーとは逆行した4管編成のオブリガートが、はらわたからこみあげてきそうなヤナーチェクふうのうんぬんかんぬんと適当ないいぐさでデクレシェンドするほかはなく、かわりにM*A*S*H氏にそのあたりを講釈していただこうとおもったら、ごらんのありさまで気絶させられそうな木曜日のあかつきだった。

 

 

 

 

「わたし せつなの 穢クレール」には、わが師たる松本隆の神韻:「わたし裸足のマーメイド」を呼応させたくもなる。のっけから、ひびきがたかい… ここには凛として時雨などというバンドの “音” もにじんでいるのか? わたくしに粘着したがるキャバ嬢が愛聴していて、いまだに鳥肌をたてずにこのバンド名を耳(眼)にすることができない… なみだいっぱいの両眼で、こっちの水で炊く米は内臓もはきだしたくなるほどゲロゲロだべとか、ひとの体臭はゲロゲロなのが9割でほおずりしたくなるのが1割ぜよとか、うなじの汗のにおいがベストでごわすとか、あんだれぱとかレズも同居したがる男がクサとか、やヴェーなくなけじゃけんとかリスカっちな手くびの鮫肌でさけびながら、わたくしの右手にいつも500円硬貨のおこづかいをにぎらせて、かしてやった刃牙はぜったいにかえそうとしないキャバ嬢からライターになった美女をおもいだすたびに凜として、ハギワラ氏のこのたびの作品の厳密さもひときわ身にしみるというもの…

 

 ことばそのものが、ことばを胚胎した瞬間を、ハギワラ作品はつねにその受胎告知を、うたいあげているような気もする。ことばは内臓から文脈をたちきられる。すると花の茎のように截断面はあらたな “音” をのばして、ひとびとが生きるための方便とはことなる文字どおり異次元にあらたな文脈というか音列をむすぼうとする… われわれの3次元とは隔絶したところに異次元があるわけではなく、われわれの世界とむしろ異次元はおりかさなって存在するものかもしれないし、それを知覚するためのシックス・センスとまさに新言語とがゆらめいている滑走路を、ハギワラ作品はつねに疾駈しているようにもおもわれる。そして作品があらたな文脈をかたちづくる異次元では、ことばから火焰の花のひらかれる瞬間が、ひときわ厳密な論理にもとづいていることも予感させられる。ちなみに前半#Amの韻文はゆっきーなうんぬんの姑息なたてよみになっていたら興ざめだなとおもったが、さすがにそれはなさそうだった。

 

 ひとの脳髄だとか感受性だとか想像力だとかは、ことばにとってAIの代用品にもならない。ことば自身がことばの誕生をうたいあげて、ものがたりをつむぐ。ことばの火焰が、ネットの石版にあらたな神託をきざむ。いたって厳密な語法で、はじまりの瞬間゠予感だけが記録される。おわることがなく、つねにはじまる。ハギワラ作品に刮眼させられたのは、おもえば1年まえのいまごろだった。よみなれない原稿用紙6枚の小説というものが、じつのところ既知のものがたりやぽゑむのエッセンス/コラージュばかりにみえて、いまいちだなと感じていたおりから破滅派でみつけたホーミタイうんぬんの短篇にうならされたことを記憶しているが、ことしの本イヴェント中もそんな感慨はかわらない… あとからふりかえってみると、ふしぎなことに重要な作品ほど選考からもれているばあいがおおい。マーラーもウィーン音楽院のベートーヴェン賞には落選した。ラヴェルバルトークなどの実験作/野心作のかわりに作曲コンクールがどれだけ凡庸な音楽に栄冠をさずけてきたかは後世の眼からみると不可解きわまるほどで、ウェーベルンやベルクに音楽教育をほどこす身になってからも、ベルリンの音楽雑誌のコンクールに応募しつづけていたシェーンベルクの作品にしたって毎回落選だった。もの書きでも○○賞受賞者のひたいにやきつけられるものは、およそ凡庸の烙印だけではないかと猜疑をふかめてしまう。プルーストも新聞の投稿マニアだった。コーヒーをのみながら朝刊をひらいて、また落選かよとこぼすのは長篇のなかの名物シーン。パリで気鋭の同時代人たちがつぎつぎに小説を書いて刊行して文名をあげてゆくなかで、プルーストだけはフォーブール・サン゠ジェルマンのながいながい無為(ひま)の生活のなかで小説とはいったいなにかを、ときにステマもまじえつつ黙考して探求しつづけていたのかもしれないが、あらたな価値をかかげる一派を、ハギワラ氏もいずれ自身でたちあげたほうがよいのではないかと作品を読むたびに感じる。そしてアンドレ・ブルトンⅡ世になったあかつきも、わたくしのことは教団から破門しないでくださいと哀訴しておく。

 

 

 

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「ナクシカク」紙文氏

 

「さっきから、ナンパのはなしばっかだね」

「ほかにしゃべることもないですから、ぼくなんて」

「すきな作家は?」

「ゴンブロヴィチ」

「じゃなくて、ほら最近の日本で」

「いるわけないじゃないですか」

「じゃあ作家としての目標は?」

「猿のオナニー」

「は?」

「死ぬまで、カク」むかし新聞文化欄の取材でそんな抱負をのべて、ぜんぜん記者が真顔だったことを、たまさか本作の一読後におもいだした。おはようございます、こんにちは、こんばんは、ただいまの日時10月31日(土)午前7時58分:「魚のいらない水槽」をよみすすめながら、いたく感心したのも、はや1年まえのこと… ふだんSNSでアニメ画像を眼にしただけで首のまわりにダニがはいまわるような突発性のかゆ~い忿怒にかられる類人猿のわたくしでも、あれはよい作品だとおもった。そして1年後の本イヴェントにもあの手のものをぶつけてくるんじゃ? いくらだって同列作はくりだせる書き手なんだろうともおもったが、「ナクシカク」のストレートな世界観できましたよ。でもストレートっていったら、いくぶん語弊はあるんだろうな…

 

 ぱっとみて、ウェル゠メイドとみまちがえる。いやいや、ウェル゠メイドなんてカタカナをもちださなくたってよい。とりわけ父親との公園でのやりとりは、プロの流儀。エコノミックな書法とそこから最大限にもれだす情報量とに集中するヌーヴェル・キュイジーヌの腕まえをみせながら、たばこの哀愁、「その話、ママにもしたのか?」の距離感、「詭弁」のニュアンス、「小山内」先生のその苗字にも思春期圏内のありようが暗示されているようにみえて、カクヨムとかアクセスしたことはないけど、いまどきはこんなふうに投稿者がこぞってプロ流なのか? 「定規の先端で河合さんの背中を、そっと、つついた」もエコノミックな性的譬喩:「定規」から天使の王子くんの時空にクォンタム・ジャンプしそうにもおもわれるが、「背中にこびりついた」スパームの冒頭の5行だけが河合さんの視点か? 「駅のくずかごにさっさと捨てた」のドライなふるまいと後段の彼女がなみだをながしていたらしいという伝聞とがちぐはぐしそうな気もするから、やっぱり1年まえに話者<僕>がうしろの変態男からスパームされたのか? <俺>がリビドーとともに自我からわきあがって、オスのむさくるしさが1年まえのその恥辱とともに中性でありたい王子くんを嫌悪させるのか? かってに王子くんにしちゃったよ。

 

 もてる技倆で腕によりをかけて彫琢された作品だとわかるから、ジャッジがどれほどの見識をほこるものかリング下でみとどけたかったな。そしてM*A*S*H氏とともに本期間中もめざましい活動をつづけていらっしゃる比良岡先生による6枚で昇華しきれていないというご意見には、ノンをつきつけておく… これ以上になにを書けというのだ!? 『コージ苑』収録4コマまんがの1作をおもいだす。ナイーヴそうな男子中学生が、おまえもオナニーしてんだろと教室で友だち数名からたずねられる。しないよと彼は首をふる。うそをつけ、しないわけないだろと友だちはいう。しないよ、ぜったいにしない、するもんか… さいごのコマの彼は自分の部屋でいつもどおりオナニーしながら、ああそうだよ、どうせオレはうそつきさと片手でスコスコやりつつ威風堂々とひらきなおっている。きっと紙文作品の<僕゠俺>も数ヵ月後にそんなふうになって、うすよごれて、ジェントルマンになってゆくんだろう。やっぱりストレートな作品だった。

 

 これまで紙文作品をよむと、きまって回転体がちかづいてくるイメージをいだいた。ちなみに上半分と下半分とが、べつべつに時計まわりと反゠時計まわりとで回転する球体兵器… こちらは上半分ばかりに集中して格闘していると、かならずや下半分の回転から邀撃される。アンビヴァレンツが、はなはだしい特徴の書き手。これこれが正義だ、ただしいのだーということは、ぜったいに主張しない。こんなストーリーが展開しているといいながら、べつの口がそんなことはいっていないと否定する。ジェンダーもはっきりしない。だいいち書き手がいまだに男性か女性かもさだかではないし、「顔をもたない」状況にここまで成功している書き手は、たとえネット上とはいえ稀少。あくる年にむかって氏の執筆活動に、それでも微妙な変化はみられそうな気がする。

 

<六枚道場>はさまざまな趣味趣向をもつ書き手がさまざまな趣味趣向の作品をもちよって、はじめの数行でひきつけられた読者はよみすすめて感想もつづって、はじめの数行でいやになったら逆にほうりだすのも自由だし、わたくしのばあいSNSの投票機能でとりわけ毎度のごとく自分の趣味性の大敗北をまのあたりにして呵々大笑することになるわけだが、さまざまな趣味趣向をよりあつめたとはいえ第9回までで日々匆々におなかいっぱいになってしまったきらいもある。かといってサイト上にそれぞれの作品を掲載する掲載しないの選定がはいったとしたら、こんどはそこに自分の趣味性とかぶる作品がゼロになる可能性もなくはない。やりたいほうだいのゆきつくさきが不感症なら、えらばれたものの陳列もまた冷感症の寝褥… よいものは万人の好悪をこえるというのは真実味がありながら、んなことたぁない(byタモリ)かもしれなくて、だいいち万人がその好悪をこえて感心しそうな上空の普遍地点がそもそも存在するのかどうか? ひとまずは1億作をふるいにかけて1作がのこる100年後の文学史の選定をまつしかあるまい。ノーベル賞作品もそこでは出版業界のバーゲン・セールにすぎなかったことが、おって判明するだろう。あくる年に氏の執筆とともに同サークルにも変化がみられるのかもしれないと意識しながら、さいごに以上の蛇足をつけくわえた。

 

 

 

ЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ」摩衆楼蘭

 

 さて紙文王国を隠密して、しばし蠢動のけはいもこれなしとみさだめながら、ふるさとの柳生庄にきびすをかえすため国境をまたいだあたりで袈裟がけに斬りかゝるものあり、あわてゝ身をひるがえせば当方のぶっさき羽織も藺笠もきりさかれて、みれば20人30人ばかり左右に必殺の衡軛陣形をかたちづくる摩衆の影ぞ曠野にあり… そもじ休日のひまをあかして、ひとが書いた小説をあゝだこうだとあげつらっておるが、どのみち鳩の糞ほどの文学的素養もないことは詩をおそれるあまり詩にちかよらずビゞりまくりに虚勢をはって詩や短歌に興味がないなどの公言をはゞからぬあたりに明白だわと摩衆の領袖楼蘭のいひけらく、ひとさしゆびの爪から弦のようなものをとばしてきた。こちらはそれを腰の長刀で斬りはらおうとするも斬れるものではなく、ぐるぐると刀からすぐさま胴体にまきついて身うごきもとれぬ仕儀となりはてぬ。はッはッはッはッ呪縛呪怨の暗殺陣よ、くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… さびた領袖の声とともに頭上のいちめんに毒ぐもの巣がはりめぐらされた。

 

 かねてより摩衆氏は小説がものごとをむだに饒舌にかたりすぎるので小説をきらうと公言されている。その段でゆくなら、ムージルプルーストなどの手あたりしだいに自分のまわりにある有形無形のものを言語化して散文化する大長篇は、とりわけ今後はますます不要なものとみておられることだろうし、『蜻蛉日記』『源氏物語』などとおなじくウィーン/パリ御両所のその無類に複雑な長文は、じつのところ当方もこのさき商業小説、ゲーム、アニメ、SNSの単純語法になじんだ若者が、おそらく賞翫することはおろか解読することさえ不可能になってゆくものだろうと危惧している。

 

 わたくしは現代日本語で詩は不可能だとみている。みじかい詩句を横にならべてもそれは文章を横につらねただけのこと、ボードレールマラルメソネットと同日の談ではない。アレクサンドラン、半諧音や畳韻法などの諧調、アレクサンドランにおける六音綴の擲置などというバロック音楽におけるフーガやパッサカリアにも匹敵する精緻な技法/形式で聴覚から視覚にうったえかけて、あまつさえ味覚にも陶酔をおよぼすような西欧の詩法や言語機能もそこにはないのに、のっぺらぼうで機能がとぼしい現代日本語にはそもそも不可能な大仕事… もっとも定家卿のころのそれなら、アクロバット技もなしえたかもしれない。しかし現代日本語には、つばさがはえていない。こんなものでつづれるのは童謡かアニソンくらいで、 せいぜい相田みつを潮田玲子にでも未来をたくすしかあるまい? およそ8年まえに以下の拙文でもとりあげた中村光夫による日本詩断罪が、わたくしにとっての鉄則にもなっている。

 

 

 

 

 どのみち日本人にも日本語にも前衛がなしうるはずがない。おっとりおだやかで、まんがやアニメの流儀でこのさきもゆくのだろう。つねに現実のもとに隷属・定着するアニメの人物画の輪郭線は、わたくしからみたら認識の抛棄以外のなにものでもない。アウシュヴィツ以降の<野蛮>発言をのこしたアドルノが、アルバン・ベルクの弟子だったことに注視しているひとがどれだけいるかはわからない。ツェムリンスキイや師ベルクの多調性および無調の音楽についての論考はそそられる。アドルノのその<野蛮>発言は、いろいろといいかえることができそうな気もする。ランボオロートレアモンシュルレアリスムの自動筆記によって詩の可能性はとことん追求されて、うちあげ花火のように詩はそれで消滅した。それ以降に詩を書くのは野蛮だ。そして自動筆記やバロウズのカット゠アップの範たるランボオのことばの錬金術を音化したロバート・フリップの黒魔術:「キング・クリムゾンの基本的な目標はアナーキーを組織化すること、カオスの潜在的なパワーを活用すること、さまざまにことなる影響を相互に作用させながら、それらが有する均衡を発見すること」が後期クリムゾンの実践をへて "RED" で破綻というか敗北したことを推理するなら、クリムゾン以降にロックをやるのも野蛮だ。ロバート・フリップが世界にあと10人くらい存在したら、ロックも21世紀をむかえるまえに12音技法的な破綻をむかえて、はやばやと消滅:「大量生産/大量遺棄」の侮蔑をフリップ卿がなげつけた現在のポップ・シーンのていたらくを眼にしなくてもすんだのではないかとおもうこともしばしば…

 

「かたりすぎる」小説をきらう摩衆氏も、しかしながら詩をきらう当方とおなじく内心ではじつのところ日本人や日本語機能にみきりをつけているのではあるまいか? くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… そんなこんなをかんがえているあいだにも毒ぐもの巣が頭上のいちめんにはりめぐらされた。わたくしに現代詩など解読できるはずがない。しかし解読というか黙読して毒性のことばの糸をほぐしてゆかないと、いのちはない。というか詩にいのちがあるものと現在のこの瞬間はみなさないと、ほかでもない摩衆詩にがんじがらめにされて、いのちをうばわれてしまうから、ふりかかる1語1語をひとつずつググってゆくが、まず詩の標題は曲名:「閃輝性暗点」はぎざぎざにみえるやつ… つぎのページは右にすすむか下におりるか? どちらでもよいところがゲーム感覚でおもしろいぞ、とりあえず右☞「ロバート・ジョンソン」も初耳だったし、「エイフェックス・ツイン面」ってやつは摩衆氏がtwitterで紙文氏をおどすときに行使するやつか?「グレイマルキンパドック」はマクベスゆえに綺麗即是蕪穢… 「D4」「E4」「C4」「C3」「G3」は音階? 「未知との遭遇」はみたことがないからわからないし、「諸星大二郎」は光GENJI!? なんだ、なにもわからない!!!! くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… くもの巣でがんじがらめにされて毒殺されるすんぜんに、しかしながら紙文王国から流星のような1本の聖剣がとんできて、またたくまに摩衆暗殺陣を斬りふせた。「わからないといえることは、すばらしい」

 

「見者のてがみ」を書いたランボオのように詩を書くひとびとは、そとにむかって積極的にどんどん自註自解してゆくべきだとおもった。あさぬま氏がかつてtwitterでおっしゃっていたような気がするが、つねに詩とその自解とを現代アートさながらセットで発表してもよいくらいだろう。もちろん解説からその詩を理解するような読者は、おなじ詩にけっして感動することはないかもしれない。わかることと感動することとはちがうが、すくなくとも美学的な欲求から詩人のその作品をこのさき必要とする人生をおくることにもなるかもしれない。それゆえ摩衆氏も本自由詩の自解をnoteに掲載していただけたら、つたない本稿にたいする返答はおろか過分な報奨にもなるところですし、うれしさを禁じえないところでもあります。

 

 

 

 

 ひきつづき本作品にたいする言及からはじまる日曜日の朝です。おはようございます、こんにちは、こんばんは… ただいまの日時11月8日(日)7時44分:「コロナ禍救済と深読み」はほんとうにそうだろうか? 「あなたの生命に そっとキスする」の冒頭句からさらに終結の反復:「あなたの生命に そっとキスする/コロナ・ウィルスに罹ってもいい」までコロナ禍がにじんでいることはあきらかだし、「HIV感染症エイズと呼ばれていた頃/はずかしいけれど あの頃は セックスが怖かった」にはとりわけ自身のキャンパス入学式をおもいだして共感させられた。というのも大学から配布された厖大な資料のなかにエイズについての小冊子があって、たいくつきわまる入学式のとちゅうでそのページをめくりつつ絶望:「あてはまりませんか?」の疑問形につづいて箇条書きにされた行為や筋肉痛うんぬんの症状がいくつも自分にあてはまるような気がして、エイズじゃんよーの絶望で希望にみちたキャンパス・ライフの幕あけも闇黒… なきじゃくりながら保健所に電話して、はなしをきいてくれたおばちゃんから平気よ平気、みんなそんなもんよ、かんたんにうつる病気じゃないのよと説得されるまで日常生活にもどることもできなかったわけだが、そんなこんなを本詩作品をよみながら追憶しましただなんて書いたところで意味があるまい? 「コロナ禍」にたいする言及やおのれの体験談をもちだして感想文をおわらせるのは、なんだか本詩作品とのつきあいを表層できりあげるワリキリ交際のようにおもわれて気がひけたしだいだが、「素晴らしかったです」という比良岡先生のひとことが衝撃的すぎて、いまさらそんなこんなもどうでもよくなってしまった。はなしがどんどん冗長になってきて、すみません…

 

  かくなるうえは身もふたもない本心を、とことん書かざるをえない。べつに本作をけなすとかそういうことじゃなく、つねづね本イヴェント周辺の書き手のみなさんにたいして自分がおぼえている違和感にまで言及しなければならないということだが、「素晴らしい」とおっしゃった比良岡先生はつまり詩を鑑賞することができた。たのしむことができた。しかしロック・ミュージックがうなりをあげて、アクション映画がスクリーンを鳴動させて、ゲームセンターやファミコンが電子音をポリフォニィさせはじめた時代のあとで、わたくしは詩作というアナログというかアナクロの行為が、つくるうえでも黙読するうえでも娯楽になるとは口がさけても表明することはできない。だったら音読したらアクティヴな娯楽になるのかというと、そんなはずもない。わたくしは本イヴェントの周辺のみなさんが朗読会やら読書会やらのアナログなイヴェントを嬉々として実施/実況(参加)されているさまを、いつも奇異の念でながめている… ほんとうにこんなものが、たのしいのか? わたくしも何度か都内のちいさな書店でひらかれる類似の集会に顔をだしたことがないわけではないが、「はやくおわってくれ」と念じるばかりだった。だから詩をよんで比良岡先生のように感動したり、みんなでそれをかこんで娯楽とみなしたりすることができる書き手のみなさんを、ふしぎなおもいでながめながら、あたまがおかしいんじゃないかとおもったことがいちどもないといったらうそになるし、かれらは世間からみたら趣味のマイノリティのなかのさらに小教団のようなものなのだという見地はすてちゃだめだろうし、まちがっても自分がその小教団にくわわってそれが世界だとおもいこんではいけないぞと自誡もしている。

  

 

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  もしもキーツシェリィ、ランボオロートレアモンブルトンなどが戦後にうまれかわったとしたら、ドアーズのジム・モリスンキング・クリムゾンのピート・シンフィールド、ジェネシスピーター・ゲイブリエル、ヴァン・ダー・グラフのピーター・ハミル、ロキシィ・ミュージックのイーノになりたがっても、テーブルに紙とペンとしか用意されていない詩作にもどりたいとは寸毫もおもわなかったような気がする。もっとも小説だっておなじだ。いまどきはそんなものを書くのも、しみったれた行為にほかならない。どちらにしたって、オワコン。ただしオワコンならオワコンとみなす見地からその創作に手をのばしたほうがよいとおもうし、「文学は死んだ」とニーチェのような狂人がいまこそ各国の憲法にひとこと書きそえてくれないと、なにもはじまらないような気もする。あたかも屍体を生きたものとみなして両腕であやしているのは、そいつを食扶持にしている出版業界だけだろう。まだ生きているものと夢みている書き手もいるだろう。クラシック音楽のように19世紀のそれらを骨董品やうつくしい宝飾品として愛玩している蒐集家(ビブリオマニア)もいるだろう。しかし生きたものとは、とうてい認定することはできない。ケンシロウのゆびさきが詩も小説も戯曲も短歌も俳句もゆびさしながら、おまえらはもう死んでいるといっている。そして死んだという儼然たる事実をまえにして逆にその表現の不可能性におのれの人生をかける摩衆楼蘭氏やそのほかの書き手がこれから雲霞のごとく輩出するとするなら、あたらしいものがうまれてこないともかぎらない… わたくしは詩を娯楽にすることができない。それを娯楽にできるマイノリティのみを対象にするのも、ひとつの手だろう。それを娯楽とは感じない世間にたいして詩を呈示するなら、たのむべきはやはり自註自解:「詩の四枚目は数式ではなく、意図的に文字化けさせた文章です。解読するとメッセージが浮かび上がります」などの作者によるそれはじつに興味ぶかくて、たのしみにできなくても美的欲求からそれをほしがらないともかぎらないわけで、けっきょく結論も先週とかわらなくて、おはずかしいかぎりです… さいごにご教示いただいたタイプライターでブルース・リーをえがく表現者は、ブルース・リーをえがくつもりでタイピングしているのでしょうか? だったら紙でえがこうがタイプでえがこうが結果はおなじということになりますが、もしもブルース・リーをかたちづくる1語1語がなおかつ深遠な文章をおりなしているということなら、けっきょくはそれを註釈することで世間の美的欲求もすこしは刺戟することができるのかもしれません。