麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

痩蝶月旦:第6回 <六枚道場>

 

 

 

 

 ✍ アラムナイ゠6タゴンのひとりによる冗長なはしがき


ヴォツェック』3幕15場の形式/技法にもとづく3部15章の長篇を、かれこれ10年のあいだ書きつづけている。オペラの総譜とにらめっこしつつ原稿用紙300枚ばかりの梗概をまずは作成して、ランダムにそこから各章をしあげてゆく工程でなんとか全体の75%をしあげた。さいわい困難なパートもそのつどムーサの恩寵できりぬけてこられたが、ことしにはいって全体の80%にせまろうかというインヴェンションの後半で、ついに以降はとうてい書きすすめられるものではないという地獄の牆壁(かべ)にぶちあたってしまった。ボートにのりこんで、オールでこぐあいだ気温はみるまに氷点下にさがって、せっかく対岸がみえてきたのに自分をとりまくものは氷湖にかわってしまったから、すすむことはおろかUターンもできなくなっていたような創作の膠着が、つい先日まで3ヵ月もつづいた。だいたい10年のあいだ脱稿しない時点で、ふつうならボツだ。はじめの数年でファイルの消去にふみきっていたら、さもしい未練ものこらなかったはずだが、あと20%で完成じゃん? のりかかった船じゃね? 「すすめば往生極楽/ひけば無間地獄」の一向衆ばりに前進あるのみだとダーク・ラムやバーボンをあおりながら、ゆびさきを舞踏の神化にみちびくムーサの招魂もこころみたしだいだが、こんどばかりはそんな劇薬にたよったところで1行はおろか1字たりともキイボードからはじきだされない。いたずらに沈黙の3ヵ月がすぎた。いよいよ自爆するときかと松永弾正少弼ふうに観念して、ファイル消去をはかろうとしたとたん文字どおり魔がさした。

 

<六枚道場>にだすつもりで、つづきを書いてみたら?????????? 「ろ… ろくまい、ど?」あたまのなかがその瞬間にまっしろになって、ゆびさきはケンシロウもまっさおなタイピング激打にあけくれていた。ぶあつい氷面にたちまち亀裂がはいって、およそ3ヵ月のあいだ白紙だった箇所もことばの奔流でうめつくされた。ボートはふたたび対岸をめざしはじめたが、まてよ? おかしくないか? いまや奇蹟的にこうして膠着状態をまぬがれたことに安堵しながら、おれはこの安直なクリアにかえって不安をつのらせていないか? 「急がば回れ」というではないか? ふだん接続するはずがない日常会話の回線にキイボードをつないで、ぬけ道でなおかつマラソン大会のゴールをふんでいたような手段のやましさを禁じえない。ひとことでいうならオンラインで書いてしまったわけだが、だんじてそれは本意ではない。おのれと外界とをむすびつけるものは、ネット回線ではない。おのれの文章そのものが、ローカルから自分をひいては世界につないでくれる。すくなくとも外界にむすびついたと書き手がみずから妄想しうるほどの文章は、たいていのばあい筆舌につくしがたい労苦のはてにしか作中にもたらされないし、<六枚道場>で発表しようとおもったとたん3ヵ月のあいだ1行もすすまなかった難所が、かくも短絡的にクリアされるなどというのは、よほど自分はおめでたい墨俣の一夜城のはりぼてならぬ素股の一夜嬢の張形… おのれというかベルクの書法のかわりにSNSのおしゃべりで空白をみたしてしまったような陰鬱が、いまもなお意識にこびりついている。ともあれ支離滅裂な描写のとちゅうからはじまって、ピリオドもうたれない尻きれとんぼでおわる──できそこないの小説まがいにしかならないが、いっそのことタイピング激打のこのシーンから適当にぬきだした6枚ぶんを、ほんとに紙文氏におくってみたら?????????? 「お… おくって、み?」あたまのなかがまっしろになって、ゆびさきもふたたび魔がさしたようなタイピング激打にあけくれていたが、<六枚道場>で発表した過去3作は──おもえば3作すべてがこの無意識というか無想転生からくりだされた本能寺だった。そしてフォルダにはこのたび原稿用紙4枚ほどの "Des Abends" なる標題をもつシューマンもどきが新規保存されていた。こちらはどうやら何年もまえにpostした以下のふたつの140文字: 

 

 

 

 を3連符にかえて、ふたつながら同時にうちならした器楽曲ふうの小品らしい。アラムナイのひとりとして今回はこれで6タゴンに復帰するが、つぎは上掲のできそこない6枚でいどみたい…

 

 

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 さて先月とおなじく第6回の全作品が発表されるまえに上掲のはしがきをしあげて、あとは紙文氏、宮月氏、ハギワラ氏などの作品を、こんどこそ冷酷なまでに粘着質のメスで腑わけしてやるばかりだとサディスティックな快感にうちふるえていたわけだが、だれも参加していない!!!!!!!! さては阿波しらさぎ賞とやらに意識をうばわれてしまったのか??????? わたくしだって土佐くろしお賞、佐渡しおふき賞、マゾッホ菊門賞などがあったら応募したいくらいだが、いざ戦場にのりこんでみたら敵勢がいなかったような肩すかしをくらいながら、ケイシア氏と中野真氏との作品はあとのおたのしみにして、ほかの作品をよみすすめることにした。

 

 

ღ グループA 

「貧富の彼岸」大道寺 轟天

 

 おそれかしこくも後鳥羽院の世をしのぶ雅号とて轟天を名のられし御門のたはむれに筆すさびたまへる玉稿を、やつがれさへ拝しうる僥倖ここにきはまれりというべきならむ歟。もとより僭越ながら至尊のみこころをおもんばかるに4ページ12行めあたりより奔騰して山内さんの歯もぬけたるにおよんで作品はようやくメイン・ディッシュの本然をば顕現したりとぞいふもをかし… むしろ4ページめまではオードヴルとして1ページほどの分量でちゃっちゃと書きながして、おもうぞんぶん作者みずからの描写のよろこびに耽溺したほうがよかったのではあるまいか? 「幽暗を赫奕と照らす」あたりにその冀望せる世界観はあきらかで、とどのつまり作者はかの三島由紀夫のフォーマットをかりて、ことばをちりばめたかったのではないか? かさねて僭越ながら小生はつとに三島作品をきらいぬいて、しみったれた地方の歓楽街のようなものとしか感じたこともない──いたるところに美のネオン看板はまたたいているが、「美」そのものはどこにも存在しない──ひっきょう当方の三島観はそれにつきるが、ひとさまがその作品群にあこがれる感性や審美眼までを否定するつもりもなく、したがって氏にはもっと徹底的にのっけから美文攻撃をかましてほしかったなというおもいがつよく、みたび僭越ながら次回作をたのしみにしたい。

 

 


ღ グループC 

「扉を開けるとロンドンなのだけど、そこまで話は進まない」一徳元就氏

 

 おもいこみで浅見をさらけだしつつ書くしかないが、たぶん小説を書くよりも小説の枠内でご自身のつややかな玻璃細工にちかいテクステュアを構築することに余人のおよびもつかない情熱をかたむけている芸術家ではあるまいか? 「エディは13歳」が縦線ではなく横のながれにあわせたオーケストラとして作中からひときわ新鮮な音響をたかならせてくれたようにおもわれるし、ひょっとすると芸術家/作家などのことばもご自身のめざすところからは乖離しすぎて、いやがりそうなものかもしれない。そこでAVになぞらえてみるなら、けっして本番行為にいたらないのにシテュエイションだけで病的なエロの撮高や売上(もとい再生回数)をほこるレーベル系か? からめ手からまた淫靡なからめ手にうつるマニアックな迂回でけっして直進゠挿入することはなく、ほんらい小説家がもっとも書きたがって、なぞりたがる王道ともいうべき展開゠本番にもけっして突入しないまま奇怪な自動器具におのれのいちもつというかラール・プール・ラールの情熱をおさめて興がる… はたして生殖行為がそこにあるのかないのか? そこに愛はあるんか? すきなアイドル歌手や女優はおるんか? げんなり氏の作品から、つねにそんなことをおもってしまう。

 さて今回の作品は、リーダビリティをほこっている。つい最近までリーダビリティをリーダーになる素質の謂だとかんちがいしていた人間がこんなことばをつかっても説得力はないが、よみすすめるうえで停滞がなく、ことばの配列もていねいというほかはない。タイトルをみただけで結末までがリーダビリティだわといいたくなるほどサーヴィス精神も花びら回転天国:「サイクロードを使って山の上の湖を眺めに行くか」ぜったいに行かねーだろ、てめえとおもいつつも4ページめでふたたび山の上の湖がうんぬんされると、ぜったいに行かないだけに読者のなかにそれがやけに銀色のうつくしいものとして想起されないか? 「曲げわっぱ」「メキシカンダイナー」「のりたまご飯」「ランチバッグ」「ジャスミン茶」「ルイボスティー」などの小道具のひびきもサイクロードをかけぬけて、いっさいがその清涼な山上にすいあげられる。おそらく4ページまでに作者はつい最近までリーダビリティの意味もしらなかった低脳読者のおもいもよらない秘密をちりばめているにちがいないが、「金輪際パイポ」は禁煙のそれではなくて落語のほうか? 「トイレのドアは閉まった」ままだとしてもラストは本作のそのタイトルにむかってドアをあけはなっているようにおもわれるし、なぞめいたコードの堆積のなかで閉塞する6枚とはまた別趣のおおいなる開放感の風がふきよせてくる。

 

 


ღ グループE

「マニッシュ・ボーイ」ケイシア・ナカザワ氏

 

 なによりもケイシア氏に感謝しなくてはならないのは、テキサスの狂犬ランズデールの存在をおしえられたことだが、『短編画廊』におさめられた作品が無料でよめるぜという氏のtweetをのぞきみたのは4月のなかばだったか? 「まあ魔犬エルロイさえいたら、ほかのヤンキィ作家はいらないんだけどさ」いささか傲慢な通常運転の境地から、さして期待もしないままランズデールの短篇をひもといた。しびれた。すぐにハップ&レナードの文庫本シリーズにとびついたし、『サンセット・ヒート』も一気呵成によみおわってしまったが、『ボトムズ』だけはもったいないので手をつけていない… すばらしい書き手をおしえてくださってありがとうとお礼をつたえようとしたら、ケイシア氏はなんとtwitterではやくもランズデール本人とつながっているではないか!? うらやましい。しかし書くもののすばらしさにくらべて、フォロワー数1.9万人はすくなすぎる。いかに世間がよいものをわきまえないかの証左にもなろう… おしゃべりな日本のどうでもよい作家はおろかエロ漫画家や地下アイドルにも数でおくれをとっているかもしれないし、くだらないRTがまわってきたAV女優が同数の1.9万人くらいだったから微妙なところだが、「いいね」をランズデールからおしてもらうどころかフォローもしてもらったらしいケイシア氏はともかくもブロウ・ジョブならぬグッ・ジョブ。こうなったら海のむこうの邸宅にまねかれて、エンチラーダでもふるまってもらったうえに美貌のむすめとねんごろになるところまでいってほしい...

 

 さて海外に雄飛するべきケイシア氏のこのたびの作品は、ほかでもないランズデールにささげるオマージュか? 「映写技師ヒーロー」(わたくしがケイシア氏のtweetでおしえられた短篇だが、まずい邦訳タイトルだよね? "The Projectionist" の原題表記のままにしたほうがましなくらいじゃないか?)にふんいきもつうじるものがある。ほらほら納屋からもうショットガンをだしてきたじゃん、だしたくなるよねぇぇぇぇと当方がはるな愛口調で黙読していると、ダイオメドというものがでてきたので瞬時にググれカス。えがかれているひとびとの国籍をつかまなければならない──ここで余談だが、「ジムノペディ 第一番」でさいごにバラバラ殺人とむすびつける意味わかんねーという感想をみかけたが、わからないどころか当方にはその意図がわかるよねぇぇぇぇのはるな愛以上にわかりすぎる──えがこうとする土地と一体化したい(はるな)愛からその土地の史蹟や縁起までも書きこむアメリカの作家の職人気質をうけついだものにほかならない。バラバラ殺人にまで時空をひろげて、ジョージおよび恩賜公園をわがものにしようとしたのさ… などと余事におもいをめぐらせているあいだにレイク・ショアというものがでてきて、ふたたびググれカス。しかしダイオメドとはむすびつかない。シカゴのそれやノース・ショアなら検索にあがってくるが、たんなる湖畔の謂か? あるいは移民系のものがたり? 「これに関して面白い証言が出てきた」の一文だけは違和感がのこる。だって死んだ女性のだんなもそこにいるからね。しかし6枚なのに、よくもまあ自由闊達にこれだけ書けるものだ。おとなになりかけの少年にたいするラストの句点:「坊主(ボーイ)」

 

「バラッド・オブ・ジョン・ヘンリー」の系統だとわきまえた。クラシック特売セールでよくウェーバーの序曲集をみかける。オペラ全曲はかったるいが、やけに迫力があって蠱惑的な序曲のかずかずだけは必聴ですぜという理にかなった商売根性の1枚なわけだが、いつかケイシア氏もそのようなものを自身であむことができるのではないか? あたまからしっぽまで書ききる/よみきるばかりが快感ってわけでもなく、おいしいところだけ天ぷらでいかが? ”Landsdalic Overtures” ひょっとするとランズデールも自邸にむかえた日本のゲストからそんな1冊を献本されたらよろこぶかもしれないし、むすめに色眼をつかったところで文句もつけないにちがいない… さいごにまたまた余談だが、「無題」の閏現人氏が宮月氏の後輩ではあるまいか???? やけに書きなれた学術系のなおかつ清新なにおいも感じられた。

 

 


ღ グループF

「占い探し」中野真

 はっきりいって今回はみなさん阿波しらさぎ賞佐渡しおふき賞にこころをうばわれつつ6枚もしあげたような脱力感やまったり感でそろえてきている気がしてならないが、さすがに中野氏くらいになると脱力もあじわいというか芸になっている。マジシャンであることはまちがいなく、わずか6枚の分量がこのひとのまえでは無限にふくれあがって、ことばをいくらでも包有してくれそうなムーサのえこひいきも感じられる…

明日への扉」がわからなかったのでYouTubeで再生して、とうぜんながら作中に引用された歌詞がでてきたところで聴くのをやめた。こんなものを卒業式でうたわされるくらいなら、ダイナマイトをなげこんで教師や父兄もろとも爆死するまでよとおもいながら、なんだか無限につづいてもよいとおもわれる作中のふたりの会話をよみすすめる… これって新聞にこのまま連載されてても違和感ないよね? ご年輩だって阿部牧郎だとか宇能鴻一郎だとかのそれっぽい作家名をつけておいたら、ひそかに毎朝の連載をたのしみにするんじゃないか? うまい。つぎはやっぱりこんなやつを書いてほしい。

 

 


ღ 番外篇

オセロ」宮月中氏

 

「席替え」の元小説にあたるらしい原稿用紙約16枚の作品✍めったに国内の小説をよまないのでわからないが、だれ系統の作風といったらよいか? 「だれもくそもねえよ、おれさまのオリジナルだわ」かってに既存の商業作家の系譜にあてはめようとしたら宮月氏からそんな怒号をあびせられて、フック・キックも顔面にたたきこまれるかもしれないし、「席替え」のほうがすきだといったらネリョチャギでこんどは鎖骨をたたきわられることになろうか? 「席替え」の6枚には本作を鉈でぶったぎったような気勢とそこからふきだす諧謔的な音階と毒とがあって、なかんずくラスト2行からはシチリアにまいもどったヴィト・コルレオーネが、ドン・チッチオの腹にナイフをつきたてて心臓までえぐりあげる復讐のシーンをおもいうかべたくなるほどの上行ポルタメントがきこえてくる…

 

「席替え」が幻想曲だとするなら、こちらはもっと自然主義(ふるくさい譬喩ですみません)にちかいムードといったらよいか? 「ゆたかさ~」コンテストの応募作らしい。アカレンジャーがうんぬんされるが、およそ半世紀まえの特撮ヒーローをいまどきの中学生がわきまえているというのはおもしろい。ただし戦隊ものの各カラーがある種の思想をおびて男の子たちに滲透しているというのはもっともなことで、それらを即物的にただ色(識)別していたほどの “無思想” なこどもをさがすほうがひと苦労だろうし、「Aは黒、Eは白、Iは赤」とうたったランボオの感性もだからこそ珍奇なものではなく、おさないころにふれたカラーのひらがなカタカナの文字盤などで極東のわれわれにもそれらはおなじみの観念ではあるまいか? 「ずっと成宮になることを一つの幻想として抱えていた」誠一のまなざしも、だからこそ成宮をふりかえる瞬間になにか赤いものをとらえるシーンがあってもよかったなと感じた。まっかなソックスでも、シャープペンシルでも、ブック・カヴァーでも、スマートフォンでもよいが、ほんのつかのま相手の領域からはぜる燠火のようなものを… いっぽうが消防士をめざすなら、もういっぽうは放火魔をひそかに夢みてるとかの構図だってよいじゃん? 「ほんの少しも伝わらなかったのにがっかりした」誠一と成宮との無添加といってもよい齟齬をあつかうラストにそれだとうまく機能しなくなるか? “The Mighty Ducks” はエミリオ・エステヴェスが少年アイス・ホッケーの監督として奮闘する’90年代の傑作シリーズだが、ひとりの白人のこどもを両わきから黒人のこどもがはさんで展開する3人組の<オレオ攻撃>というやつが、ひときわシュールだった。わたくしがそんなことをおもいだすのも、かなしいことに宮月氏がここで呈示したアブノーマルやおふざけに逸脱しない理智的な作品というものを、いちどとして自分が書いたことがなかったことにたいする寂寞のせいかもしれない。アブノーマルやおふざけから、おもいでさえ腐蝕されている… とおい日の中学の教室をおもいだすと、うしろの席の男がいつも癇にさわって、わたくしはこいつの所持品というか机もろとも2階の窓からよく校庭にほうりなげたものだった。いじめられっこが、これとはべつに2人いた。いっぽうは数人の男子からたいていサンドバッグにされて、もういっぽうは机にあおむけの状態でおしつけられていちもつをしごかれていた。みてみぬふりで黒板とむきあう教師たちの後頭部にも、ひっきりなしに教科書がなげつけられた。バイクにまたがった先輩たちが、グラウンドに突入する。クラスの半数をしめる女子は、それらのいっさいが眼にはいらないみたいだった。わたくしは学校のむかいの宮内庁宿舎からかよう浮世ばなれがした美人のクラスメイトに恋していた。べつのクラスの産婦人科医を父親にもつ美人にも恋していたが、「おやじがそれなら万一のばあいも安心だよな」などと男たち数人でそんな愚にもつかないことを話題にしながら、ほくそえんでいた日々がかなしい…

痩蝶月旦:第5回 <六枚道場>

 

 

✍ はじめに

 

「月旦」はほんらい人物評で以下につづられるのもそれにちかく、もとより作品論や批評はおろか感想でもないしろものだが、ひととなりといっても本サークルでじっさいにお逢いしたかたもいないし、おおむねSNSで数回のリプライをまじえたことがあるくらいだから、このたび以下4名にかぎって言及するというのは、とうてい第5回の全作品をよみきることができない──いや通読できても味読はむずかしいとふんだからだとして、くだんの4名の発表作がつまり群をぬいていたわけか? ただしくはそんな感銘にもとづく起草でもなく、なんというか拙作との接触でかつて鑑識眼がセクシィだったり、どんだけぇぇとおもわされたりしたことがあるという──まずもってエゴイスティックな所感にもとづく人選なり言及なりだということを白状せざるをえなくなるから、あらかじめ第5回作品をうんぬんする声部にちゃっかり前回までの拙作を論じていただいた数行がわりこむ間隙があることにも弁疏をかさねておく。

 

 かねてより原稿用紙6枚の小説にたいしては懐疑的だった。いいかげんな造型のキャラクターでも6枚ていどの小空間なら、まあまあな俳優のふるまいがつづけられるかもしれない。おもいつきの設定でもおそまつな人物描写でも6枚ならもちこたえるはずで、リアリティ皆無の──いやリアリティなどというものを、ほんらい6枚の分量であまたの局面にもとめられるか? ぶさいくな女のほくろが馬の顔にばけて、わらうとする──あくまでも当方のこれは嗜好にすぎないが、ぶさいくは作中でとことん使役されて、ばかにされて、きずついて、なきわめいたり忿怒したりしたすえの6枚めにようやく馬の顔がわらうというのでないと、カタルシスはおぼえない。いやます狂気のパワーが現実の重力をつきやぶって、はじめてファンタジィは浮上するのだという古陋な定式信者だからかもしれないが、『冬の旅』Winterreise の23曲めでついに3つの太陽がみえはじめるためには、シューベルトはともかくもそれまでのスコアに一定数の絶望にみちたパッセージを書きつらねておかなければならなかったということで、はじめの1行めからデブスのほくろが馬の顔でわらいだしたら拍子ぬけがするし、「うむそうか… よかったな」と藤岡弘のような口調でうなずいて、こちらはブラウザをとじる公算がたかくなる。もっとも原稿用紙6枚なので、よみとおすことはたやすい。よみとおせるから、どんな創作ごっこも小説まがいもまかりとおる。かといって経験値でまじめに書きすすめたら、こんどは既存の幻想小説やヒューマン・ドラマの複製画のごときものになりかねない。よほど気をひきしめないと、いずれかに堕してしまいそうな気がする。ただし本サークルの名義はあくまで道場だし、だれがどんなものを書こうとも読者から批評とはべつの嘲弄や一方的な訓誡をこうむるいわれはない。

 

 わたくし個人は、そこでいったいなにができたか? とりもなおさず原稿用紙6枚の小説自体をせせらわらう作品を呈示したということにすぎない。いっぽうで6枚ならむりでも3つほどを通作として20枚ちかい盛土をこしらえたら、あるいは読者をカタルシスにみちびく頂点がきずけるのではないかとも推察した。せせらわらう否定形とはべつの建設的なやりかたはないものかと思案すると、かえって小説からはもっとも乖離したハギワラシンジ氏による第3回発表作「ケトラルカ」のごときものを夢想してしまうが、あれとて1回性のうちあげ花火ではないか? くりかえすと偶発がこんどは偶発そのものを模倣しはじめて、ゼクェンツの泥沼でバロック的展開のサイレント・ホィールにはまりかねない。だいいち自動筆記は、ブルトンなどが前世紀にくりだした特Aランクの秘鑰… ひとがやったことをやるのが、わるいとはかぎらない。はじめの数回はそのフォーマットで自身の言語的な意匠を開発したり、たかめたりするのに有効かもしれない。ただし先人がつくりあげた計算ドリルを解答集がついたままの状態でとりくんでいる状態にかわりはなく、しまつがわるいのは自動筆記や12音技法でやにわに表現上の実験はゆきづまって、わたくしの眼には100年がすぎてもその地点から前進していないようにみえることだし、おなじようなセリエルばかりになって、クラシック音楽はまさに死滅したわけだが、はたしてハギワラ氏はこのたびの新作でいかなる幻境をかいまみせてくれるのか?

 

 

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ღ グループG 
「正解社会」紙文氏
「席替え」宮月中氏
「あんたなんかもう要らない」一徳元就氏
「安らぎたまえ、シークエンスの獣よ」ハギワラシンジ氏

 

 さて上掲のまえおきは、じつのところ4月のなかばに書きあげておいた。あとは該当のハギワラ氏、紙文氏、宮月氏、ケイシア氏の新作の1語1語をそれこそ顕微鏡でのぞきこむようにしながら、およそ人格がうたがわれるほどの長文でマニアックに解析してやるまでだとポッキーを片手にまちかまえていたわけだが、いざ5月2日(土)に全作品がおおやけにされると、なんと4人中3人までがおなじグループ!!!! あまつさえ一徳氏もそこにくわわる変態スクラムぶりで、こんな感染クラスタの1作ずつを精査してさばいてゆけるはずもなく、ひとつのカンヴァスのなかで連中がむりやり共作したコラージュのごとき表現性の強度にふみつぶされるのがせきの山だから、むしろ同グループの面子をごった煮にしたブイヤベースのような乱文にしたててやろうと決心したしだいだった。したがって順不同にGからまいろう…

 

「ケトラルカ」のうちあげ花火を、ハギワラ氏はかるがるしく再演することはなかった。だたしシークエンスならぬ3度下降のゼクェンツで隠微なニュアンスのうちに自動筆記をいつくしむ──いや第1回発表作「朱色ジュピター」のカット゠アップのふんいきにちかい技法というべきか? 「あんだれぱ」はなんとなく3月末に歿した志村けんの声でわたくしの脳裡にこだまして、こだまするたびに東村山ならぬ川越のローカル性(失礼)がきざす印象だし、べつの作品でもアメジストがでてきたはずだが、「朱色ジュピター」のなかにその語はみあたらなかったな… 「黒紙魚」と紫水晶(しのだ?)とによる和音のなめらかで不穏なニュアンスの推移をみせるゼクェンツにほくそえみながら、こいつ──ついついハギ神29歳をこいつよばわりしていたが、「こいつ実生活の職場とかオナニーでもこんな脳内会話のひとり芝居にあけくれてんだろうな」という邪推からピーナツでも後頭部にぶつけてやりたくなって、つぎの作品あたりでいよいよ極彩色のネオン天使がはばたくんじゃないか? こちらがそんな読後感にしずんでいると、ふいに背なかをかすめてゆく紙文氏の──まばたきをすると、あたりいちめんは悪意にみちた雪化粧──ほぼ1文ごとにちりばめられた樹氷はリアリティで作中をてらしだしながら、おなじリアリティから同時にその意味をうばいさってゆく。ひと呼吸でかたりつくすような脱力系の技巧がきわだっている。アルスのみでしあげられて、ひとり6枚の制約゠重力からときはなたれたクリネックスの天使もしくはクリオネさながらの飄逸、透過、融通無碍… やけに雪がねばついてきたなとおもったら、こんどは意識の表層をなでまわす一徳氏のローションまみれな十指☞ 「ちゃぷちゃぷと軽い水の音、波の音。かちかちと測量され、分析され、たとえば浅瀬に横たわり…」うまいうまい、ヴェテラン竿師のゆびづかいのごとく巧緻きわまる文章:「体の半身」はたんに半身という表現でよいか? ともあれ香油のような変奏にこちらの意識の皮膚もひたされて、リンパドレナージュエネマグラにくるめくあいだにヘルマプロディトゥスのあおざめた美が、けざやかに月魄のごとく作中にひろがりながら、ほほえみをたたえている…

 

 

なんというかクライマーズハイのような、書き上げるごとに筆がノる様な感じに思えてくる

 

 

「挽歌」という先月発表した拙作にたいする宮月中氏の感想:『ホワイト・ジャズ』の血みどろな空港の銃撃シーンで、エルロイがきずきあげたパトスの頂点のようなものを、わたくしも第2回から第4回までに発表した3作<別名:3楽章のシンフォニエッタ>の掉尾にもってこられたらとかんがえていたので、うれしいとともに宮月氏のこの観点はまさに烱眼だといって煽動するほかはなく、こちらは感謝のおもいから同氏のこのたびの新作にちまちまとした指摘をくわえることで応じるか? 「織田をそうせしめた」(1ページめ)は学園ものでもあるから、もうすこしラフないいまわしはなかったか? 「教室の角」もしかりだし、「引き戸を引く」はおなじ漢字をかさねるのがいやなのよね~などとこぼしはじめたら、てめえの文字嗜好なんぞファック・オフだわといって星野凜(すみません漢字訂正)氏から顔にフック・キックをたたきこまれかねないが、なぜ当方はかくも無用の指摘をつづけるのか? なぜだか当方にもそれはわからない。わからないうちに2ページめのおわりから微細な心理がえがかれはじめて、ついつい作品にひきこまれてゆく… 「私の(傍点)渉君を早紀に譲るわけにはいかない」の1文はいいよねとおもいながら、ラヴ・レターって死滅してないのか? 「ノルマを終えた青春が、静かな眠りにつこうとしていた」わかるわかる~などといっていると、さしずめ原稿6枚をかるく2枚のテンポでかけぬけたようなアレグロが、デクレシェンドで霧消しそうなところに異質のコーダがくわわって、シャープな上行形で終奏するセンスのよさ… かぶれる青春すてきだねといってブラヴォをおくりたくなるが、「いらっしゃいマンション」もそういえば先日賞翫しました。そこでは油彩画のごとく何層にもテーマがぬりかさねられて、よみおわるとそれらが山頂からの等高線をえがきだしているほど精緻にえがかれておりました。

 

 


ღ グループE
ジムノペディ 第一番」ケイシア・ナカザワ氏

 

 わたくしはケイシア氏のファンなので、かねてよりnoteは愛読している。ふるさとの愛犬とたわむれる夢の生活をつかむべく文壇の千両役者になろうとしていることも、ポメラニアンポンちゃんがかわいいこともわかっている。ハードボイルドを抒情的な文体でつづろうとして、つねにそれはいかんと自誡していることもわかっている。ジェイムズ・リー・バークやジェイムズ・クラムリィのごとく抒情的でなおかつ激越なハードボイルドの書き手はアメリカにみられるが、かなしいほど貧相で一面的な作品がめだつ和製ミステリや時代小説(の公募)でたしかに複雑なニュアンスがうけいれられるかどうかはわからない。むこうの小説はおおむね書きだしになかなか焦点というか調性がさだまらなくて、あえて厖大な情報をぶっこんでくるような作品がおおい。ブルックナーマーラーのながったらしい序奏部やぶあついオーケストレイションにもつうじるところがあるかもしれないし、かれらの後継者ツェムリンスキイ、コルンゴルトラフマニノフあたりがハリウッドの映画音楽をつくったわけだから、むせかえるような後期ロマン派の霧はじつのところアメリカのいくばくかの書き手の潜在意識にもたちこめているかもしれない… 『サンセット・ヒート』のようにケイシア氏はむしろ女性がたたかうミステリやハードボイルドを書いたら、まずしい和製ミステリ業界でもそんな抒情性をおびた作風はうけいれられやすいのではないか? 「花の歌」でも今回の新作でもそれを感じたが、「ジムノペディ」はいまやクラシック音楽の特売チラシみたいなものになってしまっているから、わたくしなら本作にべつの音楽をあてがいたい…

 

 おせっかいにもそんな欲求にかられて、ひとまずは本作がなぜサティの小品なのかを吟味:「ジムノペディ 怖い」がGoogleでサジェストされて、へぇぇそうなの… なになに不安定な和声進行のせい? 「公園は、小さな町ならひとつ丸ごと収まってしまうのではないか」はじめの2ページからは(オ)カルト味よりも吉祥寺にひっこしたケイシア氏のうきうき感♬がつたわってきますね。パリやジヴェルニィを夜ふけの恩賜公園にかさねあわせて、ひょうたん池の波がしらからも印象派のピアノによるアルペジォをききつけるような非在のノスタルジア… まっくらな黒紙魚の水面から亡者のうしろすがたがほのうかぶ浮游音階のイメージも表出したかったのか? おしまいのミンチにされた屍肉とからめるなら、ギリシア神話でおなじ最期をとげるオルフェウス。しかしモンテヴェルディグルックも屍肉のさいころステーキはうたいあげていないし、『バッカイ』の結末でエウリピデスはえぐい描写をもってきたものだけど、だれもオペラや器楽曲であつかっていないよな? 『バッカスの巫女』のヘンツェ? 『ルル』組曲アダージォ・ソステヌート(ひとりで夜ふけに聴いてね)はこわさでいったら最恐ランクだが、「ジムノペディ」にかわる曲か? むずかしいな…

 

「饗宴」という第3回道場に呈示した拙作は、われながら悦にいるほど精緻な室内楽曲ふうの書法でえがいたつもりだが、さほど読者にはつたわらなかった。まあ作者による自註やしょうもないトリヴィアの吐露はさむいだけなのでやめておくが、どさくさまぎれに1点だけ表白:『湖中の女』にみられるフィリップ・マーロウのごときヒーロー像のほろにがいダンディズムは、こんにち逆説的なことにその仇敵デガーモ警部補やジェイムズ・エルロイがえがいた卑劣な悪党のすがたなどからしか抽出することができないのではないか? もの書きのそんな野性の直観がはたらいて、わたくしは卑劣そのものの擬人化から男性のよりいっそう濃密なヒロイズムやダンディズムの数滴をしぼりだすために前述の第3回発表作をものしたしだいだが、ただちにこれを看破したケイシア氏はまさに見者だった。

 

めちゃくちゃ格好良いし、渋い。

こんな世界観の中で生きている主人公の男には

否が応でもマイカを守って欲しい。

と思いました(中略)

僕はこういうセンスある世界観で生きている

主人公ならば大丈夫だと思うので(中略)

しかしまあ、このような深み、渋みというものは

時代の道徳性に消されゆく定めにある、

そんな気もします。 

    

 じつにハイパー・セクシュアルなプリンスも顔まけの省察ではないか!? はやく文壇の千両役者になって、わたくしを金庫番につかってほしい... じつはケイシア氏の上掲文が引用したくて、このたびの道場評をはじめた。おもいきり功利的にこれからも生きて、コロナでそろそろ死にたい。ともあれ紙文氏、宮月氏、ケイシア氏など今回はわずか6枚なのに会話文のながれが最大限にいかされた作品がすくなくありませんでした。

 

 


ღ グループD
「僕と左手と」中野真氏

 

 はじめの1文でひきこまれた。ファンタジアでも前掲のほくろが馬の顔にばけて、わらうのとは月とすっぽんな実存性 🌛👋 よみはじめたとたん彫刻家としての故ミック・カーンの処女作にあたるサッチモの片手(だれもわかんねえだろうな)のブロンズの重量のようなものが意識にのしかかってくるし、「かえってきた」がひらがなだというところもイノセンスと先天的な威厳とをたたえている。しかばねさながらの殺菌された左手の呈示部から、まっさきに読者がきく女声:「ほんとキス魔だよね」から追想゠生のぬくもりや密室のかぐわしさがたちこめて、わたくしは自分がながらく模索してきた無調音楽のノヴェライズの血がかよった理想型を、そこにみいだす予感にときめいた。

 

悲愁のマジシャン」ひとは中野氏をそうよぶ。ともすると氏はその作品はおろか実生活においてさえも、マジックのつかい手なのではないかとおもう。しかしマジックは当人の生活にまるで益しないばかりか同氏をひたすら苛酷な局面においこむ──いっぽうで氏のマジックは、まわりをゆたかにする──あかの他人のわたくしでさえ氏にいくばくかを無心したら、ひらひらと紙幣が眼前におどるような奇蹟にありつきそうな気がするし、ともあれ本作にふれられたこと自体がまさに一攫千金:「口唇期固着って知ってる?」よけいなことに思念をめぐらせるあいだも未羽はことばをつづけて、よりいっそう作中にひきこみながら、いっぽうではこちらの余念をますます拡散させる… かねてよりハギワラシンジ氏もこのマジシャンに愛着をいだいているが、せつなさやイノセンス以上に中野真という書き手がじつは口唇愛の対象──あかんぼうにとってのおしゃぶりのごときものが、ハギワラ氏にとっての中野氏ではないのか!? 「乳離れが早いとね、その時期の欲求にこだわることがあるんだって。爪を噛んだり、キス魔だったり、煙草を」(これをうけた次行:「そうかもって?」だけが奇妙というかテクストの数語の歇後をイメージさせる)喫煙はつねにその一端を口にふくんでいたくなる自意識の──ふくみつつもつねにそれを紫煙にかえて無化したくなる話者の幻滅めいたものか? かりに未羽が作中からとびだして、ラーメン屋にかけこむハギワラ氏を眼にしたら、ピーナツでも後頭部にぶつけたくなるにちがいない。「こいつが麵をすするのも口唇期固着」

 

  

 いまだに食後はさして美味だという気がしない。しかし一定期間をおくたびに異常な常習性というか饑餓にさいなまれて、くだんの神保町や三田本店の長蛇の列にまいもどりながら、ここにみられるのは口唇愛のなおかつ性欲のフーゾクの常習性にとりつかれた亡者のむれだと痛感させられる… わずか600~700円で二郎はふつうのチェーン店の3倍のヴォリューム(カロリー)を饗するが、ぜいたくな食材をつかった料理ではないことはいうまでもない。ソープランドの2万円でうけられるサーヴィスをじつに4千円ほどで提供する非合法の本サロにちかくて、ナイナイ岡村が夢みるランクをそこで眼に(口に)しえないのはいうまでもないが、「ろくなのいねーじぇねーか!!」などと毒づこうものなら、かえって心外そうな表情をうかべるボーイがただちに拇指以外の4本をこちらの眼前につきだしながら、てか4Kっすよお客さんと論駁するだろうし、「あ~あ、なにやってんだろ」と文字どおりフーゾク後のむなしすぎる飽食をかかえながら、こちらは三田から西麻布にさまよいでて、こんりんざい二郎はやめだと決心するものの1ヵ月後にはチャリでふたたび飯田橋から神保町にむかっていたりする…

 

「うちでは絶対吸わないでね。一緒に暮らしてもだよ」いかに口唇愛がこのばあい話者に根づいたもので同居予定者だった未羽にうとましさをつのらせるものかが、ジロリアンtweetからもつたわるだろうか? ところで喫煙とはべつに話者がオナニーにふけるとしたら、いずれの手をもちいるのか? 「僕は左手になりたかった。左手は生まれた時からずっと、僕になりたかったと言った」こちらの余念もついにその1文でたちきられて、おとずれる奇蹟との邂逅:「生まれた時から」が主体の話者゠僕のかわりに左手にかかっている点がすばらしく、かえって僕と左手とが等化することで無調のうつくしい霧が… ひとことでいって無調音楽のめざすものがメロディからの解放なら、おなじ無調の小説がめざすのもストーリーからの脱却。メロディ゠ストーリーをかたちづくる主音(主役)も属音(わき役)もなくなって、アンシァン・レジーム(階級的序列)を内包する全音階的な重力からオクターヴは解放されると、スコアやページの上空にただよう。だいいち本作は導音から主音に進行して安直な解決をはかるようなストーリー展開もなく、ふいに未羽がきえたとたん本作をえがきだす作者゠脳とその作業にしたがう肉体゠手との従属関係の重力もきえうせて、わたくしはたぶん後半の3ページがすべて3文字の無窮動:「ち○ぽち○ぽち○ぽち○ぽち○ぽ」でうめつくされていたとしても、ブラヴォの拍手をおしむことはなかっただろうが、「未羽のゴーシュ」などの別タイトルを読後にあてはめたくなった誘惑からはのがれきれていない。ゴーシュはフランス語で左をあらわすとともに不器用をあらわすことから、セロ弾きのなんたらにもつかわれたらしい… さいごに本作とは関係がないが、なぜ毎回グループAとFやGあたりとでは投票数にかなりの差がうまれてしまうのか? たいていAにはいる和泉氏などがうらやましい。

 

※かかる乱文をつらねながら、ハギワラ氏に書いてほしい長篇のアウトラインもおもいえがいた。マーラーの終楽章のように長大な序奏/呈示部/展開部/再現部によるソナタ形式:「ケトラルカ」がさらに拡大するかたちで序奏からひきつがれた呈示部の第1主題は、これでもかというほど言語の解体をうつくしく乱舞させるが、「お前はまだ自我を持たない」あたりから徐々にきこえてくる理性的な第2主題:「朱色ジュピター」や今回の発表作にもとづくそれは言語的意味をむしろ凝縮゠ストーリー化しながら、エンタテインメント小説にかぎりなく肉迫して読者をひきつける。そしてクライマックスにちかづいた段階で、ふたたび文章は解体のニュアンスをおびてゆく──いや自動筆記よりもジェイムズ・エルロイが前掲『ホワイト・ジャズ』以降にもちいた電文調のみじかいセンテンスにひとまずは分解されてゆくのが効果的ではあるまいか? 「ケトラルカ」のうちあげ花火による第1主題は、そこからようやく回帰──つづく第2主題もますます読者を夢中にさせるサスペンスふうのスリルをはらんだ展開部をかたちづくると、ついに対立していた言語の解体゠第1主題/凝縮゠第2主題はおなじ調性(空間)のもとに融合して、ポリフォニックな再現部になだれこむ。きわめて革新的な長篇だから既存の作品になぞらえるのも気がひけるが、『シティズ・オヴ・レッド・ナイト』のころのバロウズを規範にあおいでみたくもなる… わがままな長篇のリクェストで恐縮ですが、はれてハギワラ氏がこれで文学賞をものにしたあかつきには、わたくしも強欲ではないので印税の1%で手をうちます。

 

 


ღ グループH
「有毒植物詩」草野理恵子氏
「最近の僕らは」あさぬま氏
「「いつまでもそばにいられたらよかったのに。」」阿瀬みち氏
「ゆーとぴあ」野村日魚子氏

 

 とおりいっぺんの記述ですみません。そして以下のことを書くような人間には、おそらくM*A*S*H氏からほぼ1ヵ月にわたって脅迫のリプライがとどくにちがいない。これまで詩のグループは、フォト・リーディングですませてきた。おまけ同然といったら身もふたもないが、『酒場放浪記』で吉田類さんが街の駄菓子屋や職人の工房を見学する冒頭のあの2、3分間のおまけ感にちかいものとみなしてきた。わたくしは小説の各グループをめぐりながら、つまり対岸の火事として詩のそれをながめてきた。ただし今回はその紅焰のゆらめくさまが、やけに熾烈にうつくしくみえた。

 

 ゆるいファンタジィがつかのま善意にみちた読者のやさしさにふれて、ゆるい共感や讃辞の屍衣にくるまれながら、ひと月またひと月と忘却の河にながされてゆく空間のぽえむ♬部門ということなら気がめいるが、「#17 トウアズキ」から口火をきる草野氏の詩句はけっしてそんな空疎でゆるいものではなく、かえってナイフがえぐった皮膚の血の文字でつづられたように凄絶だった。さいごに附記される毒花の各註釈がそれらを現実にしっかりと固着させて、なおかつ現実はこのばあい額縁にもばけると、そこから顔をのぞかせた花びらはよりいっそう耽美をにおいたたせる… 「温室」のあさぬま氏がおなじ薫香をまといながら、ワグナーのほぼ同名の歌曲:「温室にて」Im Treibhaus の繊麗なオーケストラにひきこんでくれる。できれば耽美をさらに敷衍させてほしかったが、「わかってないよなぁぁ」といって氏から逆にこちらのそんな停滞した感性はあざわらわれるかもしれない。ことばの運動はかたときも停滞することなく、かたちもさだまることはなく、うずをまいて旋廻しながら、ブラックホールからはさらに歌声がひろがる…

 

 ひらがなの1行と漢字まじりの1行との連禱による阿瀬氏の作品はことのほか初見から眼をひいて、ピアノの白鍵と黒鍵との半音階のなやましさから、まぶたをひらいた双眸がみる現像/幻像と、まぶたをとじたさいの残像との交錯が、ラメントにくるめく。もとより詩人はそれが最善だと信じて表記するので、こちらがそれに反する嗜好をつたえたところで無意味だが、「ぷらずまくらすたー」だけはピンボケ感があるし、「きみをつめたる」の文語調もこそばゆい。てめえの嗜好なんぞファック・オフだわといって宮月氏とともに阿瀬氏からも顔にフック・キックをたたきこまれそうだが、いちおう書いておく。さいごに野村氏の10行もばつぐんだった。ただし唎酒師としてそれをことばにする気力や体力が、もはや当方にのこされていない…