麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

痩蝶月旦:第7回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ にんげんも顔がいのちの推しとく


 じつは杉浦ボッ樹が自分よりも年下だったことに気がついて、あいた口もふさがらない夏──みなさま、ごきげんいかが? ひとの顔はまさに万華鏡、ハゲかたも威厳のつきかたも老けこみかたも病みかたも千差万別、てんでばらばらな百花繚乱:「きみは薔薇薔薇あかい薔薇」などが口をついてでたら、ハートはもう棺桶♬<六枚道場>でも拝読中にたいてい書き手の顔をかってにイメージしているが、かろうじてnoteのアイコンでお顔の特徴がつかめそうな中野真氏はこんな感じ、ハギワラ氏もこれ、紙文氏これ or それ… たぶん真実からは何万光年もとおざかっているのだろうし、ひとの想像力はその限界をたやすく露呈してしまうものなのでしょうか? 『ヴォツェック』にもとづく長篇から抜粋した6枚をこのたび発表しようとおもったが、「きまぐれ」Grillen なる標題がしめすとおり先月のシューマンの音符をおのれの白紙のなかで言語化する作業がぞんがい愉悦にみちて、つづく2作もおなじ手法で脱稿──わたくしが本サークルで過去に発表した3作:「散髪」「饗宴」「挽歌」は原稿用紙6枚からそれを凌駕したスケールをたちあげるべく室内管弦楽の編成でのぞんだものだが、あらたな3作のほうはもとより6枚のその実寸にあわせた器楽曲… とはいえ3作めでやはり幻想小曲集 Phantasiestüke op.12 から、グランド・ソナタ Große Sonate op.14 の大作志向にそれは転じているし、「きまぐれ」Grillen はつまり経過句というか駄作にすぎない。つぎの作品こそがわれながら最高のしあがりになったと確信しているから、ぜひとも8月はグループAにはいりたい!!!! おねがいします紙文さま、お中元は土佐の小夏か夢栗でよいでしょうか? はたして本サークルの管理人もアルコールをたしなむのだろうかといぶかりつつ夜空をふりあおいで、こんやは志村けんをしのびながら、モンタルチーノあじわうことにする…

 

 

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 さて先月とおなじく第7回の全作品が発表されるまえに上掲のはしがきをしあげて、グラスをかたむけつつ本サークルのサイトにアクセスすると、なんと今回がグループA!!!! う~む微妙…

 

 

 

ღ グループB

「雨は半分やんでいる」中野真氏

 

 ことわっておくが、なにも毎回ルーティンで中野氏の作品をとりあげているわけではない。どうしたって言及せずにはいられない情焰を、このかたの文章はやどしている… つかのまの序奏をへて、レチタティーヴォをきかせる1ページ3行めからの叙述:「やかんに火をかけ」からすなわち2ページ4行めまでは、いつにもまして端正な筆づかいにうなる。ここまでの精妙さがまさに生命線なのだということを読者もじきに気がつかされるが、「半分ほんとで、半分は、ほんとだったらいいなって気持ち」から頻出するアンビヴァレンツな表現のかずかずはそのまま後述の精神科につながるばかりでなく、イディオムのその隠微な熔解がワグネリアンの和声の崩壊のきざしをはらんだロマンティシズムによる2声の進行をもイメージさせるし、きりつめられた文体がいわば書き手による意識/無意識からの要請ではなく、ほかでもないロマンティシズムがその陶酔によって止揚する内的なリズムできざまれているように確信させられるところからも、わたくしのような読者はいきおい二重のニュアンスで本作にひきつけられる。きりつめられた文体が車の走行とともにスピードアップするほど文体はむしろ瞬間ごとの念写力をつよめて、ことばたらずのまま緻密さをはらむようなぐあいに冒頭の叙述とはべつのところから丹念な描写はたもたれてゆくことだろうし、「僕」をとりまく厖大な物象はそれによって作中にやきつけられてゆくことにもなる。みずからの創作をドライヴしうる境界からスリップして、グリサンドの尖端でくだけちるガラスの破片のような狂気の音響をまちうけながら、オクターヴ内というかオクタゴン・リングのぎりぎりのところで勝負をきめる文字どおりロープぎわのマジシャン… 「雨に欲情するのはおわり」のむすびまで場外乱闘めいた欺瞞やなれあいの文章も、やっつけ仕事にちかい放埓や逸脱の表現も、ここにはいっさいない。たぐいまれなロマンの情焰を、これからもご自身でたやさないようにしていただきたい。

 

 

 

ღ グループC

亜音速ガール」小林猫太氏
「散弾」6◯5氏
「di‐vision」澪標あわい氏

 

ギャラクティカ拉麵」の夢をもういちどと渇望する読者のために賢明な書き手は、けっして桶狭間の奇勝を再現しようとはしないものだし、にどとルビコン川をわたってみせることもないだろう。おのれの快作の亜種をうまない作者にたいして読者はさみしさをつのらせながら、いっぽうでは鑽仰と敬愛とをおしまない。ともあれ今回の作品は、わたくしのような読者にとってうれしいものだった。やはり上述作のように文体がその語意にさきがけて疾駈しつづけながら、アリアを氾濫させている。ちなみに初見のさいにそれが音符でうめつくされた文字どおりスコアにみえたほどで、よみすすめながらテクステュアをなおかつ自分ですこしつづ書きかえてゆくというか正確には近似するところに移調しつづけてゆくような二重情景 doppelszenen をたのしむことができた。それは再読時にけっしてブラウザからたちあがらない幻景だった。バキは強敵とリングでまみえるまえに、リアル・シャドウをおこなう。おなじ相手とつまり幻想のなかで一戦まじえて、からだじゅうから実戦とかわらない血の量をふきながしているわけだが、<六枚道場>を拝読する意味はわたくしにとってこのシャドウをたのしむこと以外にはない。かりに書き手がまだ自身の才能の30%しか作中でひきだすことができていないにしても、シャドウのなかでは全開した潜在能力のすさまじい破壊力でおしよせてくる。いくたりかの書き手のかたにも、シャドウのなかのご本人像をみせてさしあげたくなる。うれしいことに本作はもとより想像でその破壊力をひきあげるまでもなく、ひときわ高次のファイトをたのしませていただいた。さらに余人がうんぬんするまでもなく、いっさいは奔放かつ錬達の抑制がきいた名文でえがきつくされている。とどめに愚地克巳の真マッハ突きによる絶景がひらかれただけに、ラストで平凡なおにゃのこにもどる予感がさみしい… もっとも作者のそれはやさしさなのかもしれないし、あとひとふんばりの邪悪なゾーンに帰結させることができた巨凶範馬の血をわがものにしうる権利を、みずから抛棄したゆえんかもしれない。

 

「混乱こそわが墓碑銘」Confusion will be my epitaph はごぞんじ抒情詩人ピート・シンフィールドによるキング・クリムゾンの誕生をつげた聖句:「散弾」は6◯5氏の初発表作ではないが、どことなく書き手のやはり開闢がつげられているけはいがする… あさぬま氏との近似性のようなものを1ページめから感じたが、たんなる気のせいだろう。レヴィ゠ストロースにうといぶん内容にふみこめない弱点をこちらは克服しえなかったし、くだんのシャドウではつまり書き手から3ページ2行めにいたるまで一方的にボコられる状態がつづいたが、こちらがようやく反撃に転じうる弱点をみつけて、マウントから左右をぶちこみつづけたのが3~4ページか? 「窓から眺めた交差点に人だかりができていた」のところでレフェリーがわれわれを左右にへだてて、スタンディングからふたたび激突:「古いフォークソングがなっていたと思う」でハイ・キックがこちらの後頭部をとらえると、とおのく意識のなかでこの書き手にわが最愛のゴンブロヴィチをよませてみたいとかんがえた。

 

 これまで澪標氏の作品を読了したことがない。ひじょうに文章はうまく、ときとして描写はマクロの表層からミクロに潜航して、わたくしの嗜好とことのほか合致する瞬間もたちあらわれるが、たちあらわれたとたん多数決でこれは高評価がくだされる作品だから、おれがとちゅうでほうりだしたところでかまうまい? うまいんだから、べつにそれでよくね? じつのところ澪標氏ひとりではなく、おなじ感慨からギヴ・アップする作品はすくなくないが、ほうりだすタイミングはひとりひとり微妙にちがってくるような気もするから、なぜかをつきつめるためにはやはり作品をよみとおすしかなく、よみおえてわかったのは澪標氏のばあい作中にえがかれる対象のひとつひとつにたいして作者が愛情をもつことと、えがかれる対象のそれらが愛のきらめきによって光暈(かさ)をひろげる焦点のぼやされかたに抵抗があることとがわかって、あまつさえ後述するTakeman氏の作品がそれを本質的なところで総括してくれた。ほかのひとは評価するから、おれが手をつけるまでもない。おもえば世界はそんなニュアンスのものでみちあふれていて、おなじ感慨から当方がいままで体験しようとさえしなかったものを列挙するなら、ビートルズ夏目漱石寺山修司ヴァージニア・ウルフ甲州わいん、押切もえ、文芸誌全般、『ドラゴンボール』や亀頭なんたらガンダムというかアニメ全般にJ‐POPやK‐POPやTikTokがくたばろうが破産しようが、いかなる痛痒もおぼえることはない。

 

 

 

ღ グループD

「すでに失われてしまった物語」Takeman氏
「金のなる木」大道寺轟天
「夢の中の男女」伊予夏樹氏

 

 みづがきやわが世のはじめ契りおきし後鳥羽院のにたび筆すさびたまえる僥倖無窮にて往昔(そのかみ)の廃帝いまの噺家たる流転のことはりなれど夏山のしげみにはへる青つゞら蝉時雨のごと神籤のすゞしき顫動から御門Takeman氏伊予氏がここに凝集:「寓話」Fabel クラスタが、はからずも形成された。まずTakeman氏がうまい。うますぎて悪意がこちらの意識から奔出すると、やっぱ2人称でなおかつ<ですます>調なら実体よりも文章はうまくみえるものなのさなどと毒づいて、はたと澪標氏のそれにたいする疑問もここで氷解した。どんなにうまくても美的でも評価されうるものでも、すくなくとも自分にかぎっては澪標氏やこのたびのTakeman氏の作品はあらかじめ筆をとるまえに却下している題材なのだと気がつかされた。もっとも当方がそれを棄却したからといって余人がそれをするべき必要性やいわれは寸毫もなく、めいめいが取捨選択すればよい… いにしへの千世のふる道年へても呉竹の葉ずゑかたよりふる雨:「昔々のお話です」かしこくも玉音をたまはりて、みごとな噺家のかたりくちだと僭越ながら舌をまいたものだし、「めでたし、めでたし」のむすびまで須臾の間とみゆるほど轟天作品をこのたび賞翫させていただいた。さいごの伊予氏はこれまで言及したい言及したいとおもいながら、わたくしのばあい決定的な作品とまだ邂逅していないおもいがつよい。すくなくとも140文字の小説をふたつは書きあげることを日課にしているらしいヴァイタリティには舌をまくしかなく、なんつーか畏怖しつつ敬遠しているというのが正直なところだし、「天空分離について」につづく読者の認識のおよばない高所でかろうじて均衡をたもっているようなファンタジィを個人的には熱望しているが、「天空大陸フラナリーの年代記」の標題がつけられたnote記事にはばたけば瞬時にそんな熱望もみたされるのかもしれない。このたびの発表作もうまいが、みんなが評価するだろうから自分ひとりくらい言及しなくてもいいだろうの地点からやはり現実世界にきびすをかえしていた。

 

 

 

ღ グループE
「試験問題(わたし)」紙文氏

 

<六枚道場>が紙文氏の本領だという儼然たる真理を、あらためて実感させられた。われわれ参加者はいわば領国のめぐりに点在する附城にすぎない。そして本丸および支城網でかたちづくられる文字どおりサークルのその布陣でもって一大ムーヴメントをおこすべく外界にうってでようとするのか、もしくは文学的にたまさか無菌無私をほこっているユートピアの小空間を、むしろ腐蝕せんとする外界からの防禦として本丸をめぐりつつ捧持される本サークルの作品群か? いずれにしろメール本文にコピイ&ペイストされるかたちで伝送されるデータは、ひとしなみに紙文氏の文書フォーマットで作品化されるわけだし、ことばのその配列がうつくしく映じるように先月からわたしはこれと同一の25文字×20行であらかじめ作品をつづって、ダッシュの位置に気をくばったり、なるべく促音や拗音が文末/文頭にこないようにも工夫したりしているが、「試験問題(わたし)」の視覚美にはおよぶべくもない。うつくしい、ただうつくしい… 「ねえ、ビールは冷えてる?」の1行なんて横に棒をふりたくてしかたがなかった書き手のリビドーがびんびんにつたわってくる。もはや内容をうんぬんする気もおこらない。うつくしい、ただうつくしい… 「A」(テキストでは長方形にA)はレガートみたいで感心しきりだが、ひょっとすると書き手自身はわたくしが感じとった企図など寸毫もおもいえがいていないのかもしれない。ただ後述の宮月氏の作品とともに小説のあらたな可能性を、わたくし個人はここにみるということにすぎない。それというのも無形式表現たる小説を、ながいあいだ書くことにうんざりしつづけてきたからだし、うんざりしつづけるあまり書くこともやめていた。それだけに形式上でこのうえない精緻なうつくしさをほこる音楽に、わたくしは魅せられてきた。まぼろしでも文学がおなじ形式や技法をまとうことができたら…

 

<六枚道場>が存在しなかったら、かかる表現上の可能性のために小説を書くこともなかったかとおもわれる。いかなる執筆依頼、版元の意向、名声慾や野心、売上や原稿料などの制限からも自由でいられて、おのれが書きたいものを書いて、さらに書いたさきには読者がまちうけてくれているなどという理想的な空間は、なかなかに存在しうるものではない… すみません、なみだぐんでしまって、とうてい作品の感想をこのまま書くことも… うっうっうぅぅ、ぐぅぅぅ… てか紙文さんて女性? 「わたしをこの世のすべてから遠ざけていく」なみだにむせびつつ作品をよみすすめて、ジェンダーな疑問をいだいたが、これこそがもしや作者による陥穽か!? ちかごろ書き手のジェンダーは問わないだとか他人の容姿はうんぬんしないだとかのSNSの風潮はやりきれなくて、へきえきしておりまぁぁぁ~す!!!! かりにフルトヴェングラークナッパーツブッシュの演奏にたましいをうばわれたとしたら、フルトヴェングラークナッパーツブッシュがどんな外貌をしているか熱烈にみてとりたくなるし、みたとたん両者がその演奏にひとしい魅力的な外貌のもちぬしだと気がつくにちがいない。にんげんも顔がいのちの推しとく… かつて三島由紀夫堀辰雄やその読者のことを微温的集団だといって弾劾した。わたくしからみたら作品のネオン看板(イメージ)にくらべて三島本人のエゴもそうとう薄味で微温的だとおもうが、「男女を問わない」「容姿をあげつらわない」風潮もまさに微温的とはいえないか? おなじ微温的にみえる点でわたくしが嫌悪するタレントとして、マツコ・デラックスがあげられる。マツコがきらいなひとなんてあんまいないよというかもしれないが、そこがまさにそれ… きらわれないあんばいの毒舌も、ほどよいジョークも、ひとをたてる謙譲もやさしさも、やつにはエゴをおしとおすほどの自信も才能もありはしないところからきている… うんぬんかんぬんで紙文氏の本作からおもいきり逸脱してしまったが、「月旦」などと面識のない書き手のみなさんの人物評をうそぶいているから必然的にこんなふうになってしまう。 だんだんと文字数制限がせまってきたので、あらたな小説の形式的な可能性については、ひきつづき宮月氏のところで言及したい。

 

 

 

ღ グループF

「回転硝と得難い閃光」ハギワラシンジ氏
ピアノソナタ第8番 「悲愴」 第二楽章」ケイシア・ナカザワ氏
「卵焼きと想い出と音楽と猫」今村広樹氏

 

「Médaille d'or, アジシン!!」はじめの数行をよんだだけで<第7回>チャンピオンは、ハギ神にきめていた。フランス語でHは発音しないから、アジシンになってしまったが、このひとの作品にどことなくバルベックの薫風をおぼえるのは、わたくしだけだろうか? じつのところ純血種なのだろう。ご本人さえも気がつかないあいだに文学の英才教育をうけてきたにちがいない。いまだに運動する文体というものが、わずかな書き手のあいだで命脈をたもっていることにうれしさを感じた。リーダビリティから乖離しながら、じつのところ流行作家とのあいだの距離をたくましく確実につめようとしているのが、ハギワラ氏のようにも感じられる。リーダビリティがリーダーになる素質の意味ではないことに気がついたのはつい最近のことだが、よみやすさだって不変のものであろうはずがない。つねにだれかによって定義があらたに呈示されて、みんながそれに気がついたときのそれがそれ… 「硝」の字がタイトルにつかわれているからか? 「回転」はなんとなく弾道のそれのようにも感じられる。そして作中にえがかれた村落のたいせつな生活や営為にまつわるものではなく、たんに筆者にとっての小説作法ごときに譬喩をしぼるなら、リアルな正攻法の小説(横回転)の書きかたを、ハギワラ氏は早期から英才教育でまなんでいたので、オートグラフの小説(縦回転)をこころざすことができたのかもしれない。カンマ/ピリオドは横書きのものだが、むりやり縦書きでつかわされているんだぜぇぇといいたげな筆者の後頭部に、わたくしがピーナツをぶつけたくなったとしてもむりはないではないか!? さいごに筆者のこの縦回転がじっさいの出版界をまきこんで、こなごなに破壊しつくしたうえに世にもうつくしい前衛文学を、ほかでもない回転そのものの美やスピードで再構築してくれないものかと夢想する…

 

 ひとの嗜好から影響をうけることができるのは、しあわせなことだとおもう。ケイシア氏からはランズデールのすばらしさをおしえられたが、ちかごろ同氏の過去の発表作のタイトルから興味をもって聴いたところ偏愛しはじめたものに "I Will Say Goodbye" があげられる。ビル・エヴァンスなど聴く趣味はもちあわせていなかったが、もうイントロから陶酔感がたまらない… かねてより偏愛するアルバン・ベルクピアノ・ソナタ作品1の冒頭 につうじるところがあるからか? ちがうのはベルクのほうが貴腐ワインの芳醇と頽廃とをはらんで、ビル・エヴァンスのほうはもっと直截的なバーボンの琥珀色のしずくのようなものだという主観をのべたところで、ケイシア氏がスコッチを月光のかげんでバーボンに変容させようとした1ページめの文章から、このたびの発表作にふれる。ベージュの月がみえるまで作品はゆるやかに耽美をまとってゆく。そして月光が、つぎのシーンを照射:「これは私が自宅から見上げる最後の満月となるだろう」の1文に1オクターヴ上昇のリピートが凝縮されて、ベートーヴェンのスコアどおり短調のエピソードがはじまると書いたら、うがちすぎだろうか? なくなった氏の親友のことが、がんのシーンにも反映されているのか? 「恵まれなかった幼少期についての夢を見るようになっていた」たまに堀辰雄を媒介するかたちで、かすかな精神上の血縁のようなものを氏の作品にたいして感じることもある。わたくしはそこから松本隆のながれをくんで、ケイシア氏はケイシア氏でべつの先達から薫陶をうけたにちがいない。おしむらくは今回の発表作は大幅なチョーカーだったらしい。そして作品は5ページめで急速におわっている。ハギワラ氏の作品とともに密度のたかさを感じたから、どちらも6枚でおわらなくてもよいのにと感じさせられた。さざなみのようなコーダの結尾が、ばっさりと削除されてしまっているのではないかと危惧される… なき親友とクサヴィエ・ドランの映画とを照応させながら、すぐれたエッセイも氏は1ヵ月まえに発表している。チャイエスのくだりの赤裸々なリークが、わたくし個人のつよく印象にのこる部分だった。

 

 このたびの今村氏の作品もすばらしかったので、それだったら第5回作品:「秋月国史談『矜持』」だってナイスだったぞと再読したくなる… わずか6行の土岐頼芸がつまり近江の六角領に逗留して、おのれを追放して国をうばった美濃のまむしを憎悪しているやつだが、なぜ秋月だと今回の作品をよみつつも疑問をあらたにした。

 

 

 

ღ グループG

「赤頭巾」宮月中氏

 

 ながいあいだ無形式表現たる小説にうんざりして、わたくしは書く気もなくしていた。そして形式的な可能性をみるなら、このたびの紙文氏と宮月氏との発表作は、みのりがおおいものといえる。おなじように製図化された小品をそれこそ本サークルの参加者がこぞって書きあげたらおもしろいし、「世にも奇妙な小品(小説)」なるタイトルのオムニバスにしたてたら、ぞんがい売れないだろうか? みじかいものが、ちかごろでは売れるらしい。わたくし個人的にそれは悲歎すべき傾向におもわれるが、かつて存在しなかった形式を小説にまとわせる企図としては有益でないものともかぎらない… ともあれ宮月氏の本作をよみすすめながら、カセットを装填してプレイする昭和のファミコンの画素があらいRPGの牧歌的な情景をおもいえがいた。プレイヤーに旅のヒントをあたえてくれる村娘が、スピーチ・バルーンのなかの文章でしゃべっているようなふんいきだし、【祖母】【狼】の並列もそれっぽくないか? おとぎばなしに現代性や世相をにじませるやりかたも、たんなる地の文だけだったら読者はあざとさを禁じえないが、ひなびたRPGふうの情景がそんなマイナス面も埋没させている。まことに小説というものは、わずかなあんばいでニュアンスを生かしもすれば殺しもするナイーヴなものだなと実感させられる… さいごにパパさんは、フーゾクやリフレのようなところにいたの? え、ちがう? わたくしは左利きだからか大半の読者がよみとるオチも、まるで気がつかなかったりするばあいがおおい。さいごにパパさんがどこにいたのかご教示をねがいたい。インセストなものではと邪推もして、オチから正解をひきだせなかったが、「世にも奇妙な小品(小説)」にこんなものが100篇もあつまったら、ベストセラーはまちがいないという気はする。