麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

痩蝶月旦:第8回 <六枚道場>


 

 

 

✍ ささやかな祝辞

 

「かぐやSF」なるものに応募された小林猫太氏、中野真氏、一徳元就氏などの諸作にあたって、はたして当サークルの毎月の作品だけでこれらの書き手たちを評してよいものかという疑念にかられた。むろん前者は応募作品だけあって気魄がちがうわけだし、<六枚道場>は書き手たちの休戦時における文字どおり試撃(スパーリング)とみればよいのか? う~ん、さめてしまうな。ガチのセメントがみたい。もっともSFそのものには1㎜たりとも興味がないので本戦出場作は手つかずじまいだが、<六枚道場>の作品をこのまま論じていてよいのか? わからない。あくる月から言及がとだえたとしたらそれが結論だろうとおもいつつ阿波しらさぎ賞応募の諸作にもあたってみようとすると、わたくし個人的にこちらはいただけない。テキストから文芸誌にのっているような既存作のイメージが反照してくるばかりだった。おのれがそこの出身にもかかわらず日本の文芸誌にのっている作品や受賞作は、はじめの数ページでほうりだすことがおおい。アニメとTVドラマとが混濁したようなイメージがきまって脳裡にひろがって、がまんがならなくなる… がまんして読了したとしても、よみとおしたという事実がのこるばかりだし、『文藝』を手にとったこともないようなガキの応募作をよくぞ出版したものだと約30年後のいまもわれながら版元のおもわくをいぶかしくおもう… とまあ文芸誌がすきになれないからこそ本サークルがあるのだという根幹を、あらためて自己認識:<道場>なかまの数名が、いずれにしろ阿波しらさぎ賞にエントリーされたことはよろこばしいかぎりだから、バローロでこんやは祝杯をあげよう…

 

 

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ღ グループA

「四月四日」草野理恵子氏
「うたかた」星野いのり氏
「百合八景」伊予夏樹氏
「みそひとづくし、あるいは割引券くらいもらえるかもしれないと思う。」一徳元就氏

 

 ざんねんながら当ジャンルはSFよりも興味がもてないから、いっそ言及しないほうがましだろうくらいの杉村太蔵流のうすくちでまいる。あ~あ草野氏と一徳氏とは、たねあかしをもうすこしあとにしてほしかったな。もっとも一徳氏のほうは明瞭だった。このかたはやはり詩でも小説でもそれ自体をつくりあげること以上にそれらの枠内であそびたおすことが天性だから、そこが文学賞やらなにやらの現世的なものとマッチした瞬間のなんとも不可解でうつくしいシーンをまのあたりにしてみたいと冀願してやまないが、「かぐやSF」のほうは本稿でがまんして言及しないことにする… 「四月四日」がなにをさすのかは詩人にたねあかししてもらわないと、とこしえにわからなかったにちがいない。わたくしにとってそれはなによりも “おかまの日” でなおかつロートレアモン伯爵の誕生日にあたります。そして草野氏には日本語ではなく、イジドール・デュカスやレオポルト・アンドリアンとおなじ言語をだきかかえながら、この世にうまれてきてほしかったなと無責任にもつくづくと感じざるをえません。ヘラジカといったらマロイだぜとおもいつつ澹美と魔性とを直射した3作のあとの(ナナカマド)はドレッサーと窓ガラスとのあわせ鏡をほうふつとさせて、ことのほかシックでした。

 

「焔」の題字が前回はすきになれなかった。わたくし個人的にはやっぱり “焰” でなくちゃどうにもならない。てめえの文字嗜好などファック・オフだわといって星野(凜さまのほうじゃなく)いのり氏からフック・キックをほうりこまれそうだが、「寒涛」もきらいだと当方は鼻血まみれで絶叫しつづける。ここはどうしたって “寒濤” じゃなくちゃいけない… え、それだけ!? すみません、きょうはそれだけを星野氏につたえたくて… ったくもう伊予どののせいでござるよといいつつ顔をむりやり同氏のほうに転じながら、こんどはだまりこむ。むこうもだまっている。ややあって口をひらくのは当方だが、「だいじょうぶですよ、こんな詩も毎日のようにTLでうたいつづけていてごらんなさい… おそかれはやかれ世界はあなたにくみするでしょうから」 いぜんとして伊予氏はだまっているので、こちらもよけいなことをくちばしる。「あなた日ごろ古文書をとりあつかっていらっしゃいますよね? ひとつ彫琢のかぎりをつくした美麗な文語調で、ペダントリィにみちたコント・クリュエルをつづってはいただけませんかね?」いぜんとして伊予氏はだまっている。みればご本尊に生きうつしの蠟人形… とまあ以上がグループAについての感想ですが、てめえ作品をほんとに目視したのか? ほんと皮相でうすくちだなといわれたら、テヘ♥顔をするしかないモンモンモコモコの入道雲の夏なんです…

 

 

 

ღ グループC

「おもいかえせるかぎりでは」宮月中氏

 

「かぐやSF」に応募された宮月氏の作品をよみすすめていたら、ファンカデリックの “Cosmic Slop” が脳裡にながれた。もしや同氏は★★★★☆のカスタマーレヴューを創作したかっただけなんじゃないかとも邪推されて、これってSFなんか? どうなんか? 「そこに愛はあるんか?」ひとから愛されることもなく、ぐるぐると無重力をグルーヴ(輪廻)するグラヴィタス(ペド)フィリアは、それにしたってファンキィでゆるゆるでいいよねぇ… とっかえひっかえされるモードにちかい地上のつかのまの<正義>めいた価値観でめくらにされている連中のほうが、むしろ憐愍されるべき存在じゃないんか? 「なう」の至近距離のそれしか眼にはいらなくて、じつのところ歴史上のことがらも解読できそうにない人種はSNSにごまんといるんじゃないんか???? 「かぐやSF」の応募作はどれも闘志や気魄がたぎっていたのに、ひとり宮月氏のそれだけは異質のゆるゆるで、グルーヴしていた。もっとも本人はゆるゆるで書いているつもりもなかろうが、<六枚道場>のこのたびの作品のほうは '70年代のジャケットのイメージも異界の風のように撩乱して、ロキシィ・ミュージックの “Love Is The Drug” をくちずさみたくなる… たぶん本作にはたくさんの反響がよせられているだろうから、わたくしが多言するまでもあるまい? 「いろいろ」「いろいろかー」の会話がとりわけ秀逸:「青色に光った」のはなんの反応? もしや生殖反応!? かつて宮月氏はみずからの睡眠とのあいだに良好な関係をきずくことができない苦境をつづっておられたように記憶しているし、やすらかにおやすみなさい(不吉)またしても言及しないほうがましだろうというほどの皮相なうすくち感想でおわってしまって、ほんとうにすみません。

 

 

 

ღ グループE

「最後の光学」洸村静樹氏

 

 いくつかの時空が乱反射するロザリオの破片… ぜひとも今後の歴史小説は、かかる複眼でつづられなければならない。わたくしも10代のころ信長嗣子の秋田城介信忠、レオン蒲生氏郷天正遣欧使節団の時代がだいすきで、ランボオ散文詩にもとづくパスティシュの訓練として戦国と現代とが交錯しつづける断片を、いくらも書いた記憶がある。いっぽうで鋳型から量産されるような日本の商業小説を軽侮しつづけて、いったい世間はなんのために津本陽だとか宮城谷昌光だとかの単純な叙述にこぞって眼をとおしたがるのか? とりわけ低劣だとおもわれた津本の作品を、まだ大学をでたばかりのころ数人のまえで痛罵していると、あれオレ(が担当したやつ)なんだよねと同席する角川の編集者が、おずおずと苦笑まじりに告白したため二の句がつげなかったこともある… ひとり歴史小説のみならず文芸書でもTVドラマでもタレントでも邦画でもミュージック・シーンでも、なぜ凡庸なものを世間はもとめつづけるのか? われわれの日常や人生だけで、そんなものはじゅうぶんではないか? 『翔ぶがごとく』が司馬遼太郎の最高傑作だとするなら、そこには彼の出世作のいくつかに悲惨なまでの低俗でぬりこめられている漫画じみた冒険活躍譚も、ストーリーのよけいな起伏も、リーダビリティとやらにもとづく日本特有のガラパゴス的に平易で一面的な文章も、ドタバタ劇も、ラヴ・ロマンスもみられない。みられるのは作中の厖大な人物にたいする批評ばかりだが、いっさいの空疎なドラマを黙殺する人物評が、くもの巣でそれこそポリフォニィをおりあげているような奇蹟を、はたして衆愚のいかばかりが感じとれるものか? けだし凡庸な感性は、もっとも強大な<正義>にほかならない。ささやかでなおかつ奇矯にもみえる真実は、ことごとく時代をこえないまま狂瀾のその汚穢にのみつくされるだろうし、「現代のものを支配するために、人はそれを荒廃させ、浅薄化する」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)とつづられたムージルの未完の長篇はまさにそんな凡俗のあずかりしらない隠微な真理でうめつくされている。ともあれ凡庸な感性にすいあげられたベストセラーも、いっさいは荒廃した浅薄な凡庸のおなじ第2波/第3波についえるのはいうまでもない…

 

「最後の光学」はおなじ標題の韻文が、みれば作者のnoteにのこされていた。おなじ1行がこのたびの散文の書きだしに転用されているが、「考えない①」も拝読しつつ “音のないカノン” はまさに狂瀾──このたびの散文の “現代” も、たぶんに震災津波の瓦礫からの投射:「第二波」の敵襲のまえで複数の時空は、したがって乱反射するのではなく、いまさらながら住民意識にこの街のいしずえとして仙台黄門政宗とその覇府とが、もはや存在しない天主(閣)から屹立して、せまりくる猛威のまえに石垣も城下の河川も聖観音も、はては21世紀のコンクリートもマンションも、けっして乱反射しない──ほろぶまいとして複数の時空はむしろ身をよせあいながら、まぼろしの天主(閣)の隆起のなかに凝縮しようとする…

 

高山右近』『安土往還記』の2冊をむかし手にとって、どちらも数ページでほうりなげた記憶がある。えたいがしれない嫌悪感は、まさに江藤淳がこの両作者を “フォニイ” とよんだところに由来するものだった。わたくしが2度ほど駿河山の上ホテルで相対した江藤はじつに毒々しいほど気力充溢して、なき妻に殉ずる自決をとげたことをきかされたときにも、でかしたジイさんとよびかけたくなるほどの奔騰がむしろ感じられたものだった。ともあれ加賀や辻だけでなく、ソナタ形式で書かれたという福永武彦の作品をよんだときも “フォニイ” の嫌悪におそわれた。それは小説ではなく、なにか小説のおままごとにつきあわされている感覚だった。ほんらい詩人(気質)がつづる散文を、わたくしは愛さない。それはひたすら無重力の無反省のまま打鍵されてゆく清澄な音をイメージさせるし、『特性のない男』のなかでムージルが “ある詩人” のことばとして自身の中篇小説の文章を引用するような不逞さや強靭な批判精神をひきあいにだすと、ますます詩人そのものが脆弱なものにみえてしかたがないが、「第二波」の敵襲にわたくし自身の懐疑もくわえて、よみおえたばかりの洸村氏のこの空間も、じつに重力で圧してしまいたいという欲望をおぼえなかったといったら、うそになる。レオン氏郷との確執などからみえる仙台黄門のローカルな悪虐と城下のバテレンの信仰とは、いっぽうでは無反省と清澄さとのとりあわせによる眼もあてられないほど戯画めいた史実で、ローマ゠カトリックおよびイスパニアからの伝教貿易はつまり欺瞞や毒牙をひたかくしにしながら、アジアを盲目にせんものとした放射能/熾烈なコロナ(光)さながらの汚染でもあったのだから…

 

 

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 ものすごいやつらが、バトル・ロワイヤル後半戦でなだれをおこしている。ジャングルを火の海にかえる獣姦爆撃めいた奇観… とうてい前半の洸村氏を論じたようにF~Iの諸作を、ひとつずつ詳述してゆくことはできない。あるグループの3作中2作だけをひろう(1作をおとす)のは無礼だとおもって、グループ全体にそんなばあいはこれまで言及をひろげるようにしてきたが、かぎられた余暇のなかで遊興の時間をけずってまで他者にそんな配慮もしたくない。てか感想書きは、ハード・ワークにて御座候。うすくちの拙速な筆致でかけぬけるので、ご容赦のほどを…

 


ღ グループF

「THE REAL END OF EVANGELION」小林猫太氏
「ハリー・ライムのテーマ」ケイシア・ナカザワ氏

 

ドラゴンボール』や亀頭戦士ガンダムなどを、コミックスやTVでまともに眼にしことはない。アニメはとりわけ当方にとって認識の抛棄とイコールでむずばれた侮蔑の対象で、みずからの精神がそんなものに接触することを小学生のころから当節のコロナのごとく厭忌していた。エヴァンゲリオンうんぬんは、したがって一顧もしない。しないにもかかわらず猫太文学のすばらしさは、じゅうぶんにつたわる。けだし先月の作品のごとく書き手のそれはひとえに鍛錬のすえの抑制がきいた名文によるもの… 『ボトムズ』『ダークライン』の両作をせめて10年間は手をつけないで、おたのしみとして積読しておこうとおもっていたランズデールのにわかファンのわたくしが、がまんができなくなって後者をむさぼるように読了したのは2ヵ月まえのことだが、「両親は敬虔なクリスチャンだった。だから父親は毎日天に赦しを乞うた後で母親を殴った」からのくだりはまさにランズデール流のふるきよき(?)テキサス風味:「神は死んだ」の常套句をふいちょうするKやアニメDVDではなく、だからこそ情念はそのままノスタルジック゠ヴァイオレンスに舵をきって、かけおちした彼女の妊娠だとか生活苦だとか、いっさいからにげだした卑劣な男だとか細菌テロリズムだとかの地獄行にむしろ本作はながれてほしかったな… どうもすみません、かってにそんなことを感じざるをえません☆あばれるくんでした。

ピアノソナタ 第八番『悲愴』第二楽章」の原典版が、ケイシア氏のnoteに掲載されていた。やや唐突にみえた在宅療養にきりかわる経緯もオリジナルでは精密にえがかれていたし、「薄い黄色ともベージュとも形容しがたい月」の多調的な表現も6枚ver. では無慚にニュアンスがそぎおとされていることがわかった。つまり原典版のほうが、ふくいくとした名作だった。けずらなくてもよかったのにとおもうが、<六枚道場>のリングにのせなかったら原典版をわれわれが手にとることもないかもしれないことをおもうと、むずかしい問題だとおもう… さて今回の作品にもハート(シンゾウ)のような符牒がひそんでいるのかとおもって、ダウやウッズやトシなどの名まえから推察するが、お手あげです。ウィーンがだいすきなこともあって、オーソン・ウェルズの映画をみたのもこれまでに10回や20回ではすまないだろうが、かんじんの楽都がうまく撮れていないように感じられて、あらすじもほとんど記憶になく、ケイシア氏の本作との照応もむずかしい。ツィターじゃなく、カール・シャイトのリュートが映画のBGMにつかわれていたらよかったのに… てかハワイじゃなく、ウィーンがえがかれていたらと本作にたいしても註文をつけたくなるが、きっとワイキキになにかがあるんじゃ? 「センテンス・スプリング」はおれだってわかるぜ、それは文章情報の売春窟にして他人の下半身をかぎまわるゲシュタポ!? 「ハリー・ライムのテーマ」はいずれにしろスマートな作品にしあがっていた。さいごにケイシア猊下… わたくしは感想文ライターの身からもセミ゠リタイアメントします。つづけるにしろ次回からはショバをかえて、もっと簡素で穏便なものにするとおもわれます。

 

 


ღ グループG

「ブーツを食べた男と冷たい人魚」吉美駿一郎氏
「二週間目の暗黒固茹で卵」Takeman氏

 

「天狗の質的研究」をかつて拝読しながら、このひとは小栗虫太郎のうまれかわりではないかと感じたものだった。およそ人間とはことなる顔相および骨伝導による天狗独特の声質を考察した尖鋭なペダントリィから、われわれはあの文芸的労作「白蟻」のなかで畸形の顔貌にいたる経緯をなぞるさいのような小栗の筆致をおもいだすわけだし、「かぐやSF」応募の2作でも吉美氏のペダントリィのひらめきや恠異のシーンは健在:「これから三冊の本を紹介します」のラストで先生があわてふためくのは、アキが地球の平面を信じてうたがわないからなのでしょうか? よみすすめつつ浅学な読者はそのつどググらざるをえないシーンが頻発するが、「ブーツを食べた男と冷たい人魚」はひとえに芸術性を信じて、ググらないまま一気によみすすめた。したがって当方の知識が作品においついていない箇所もおおく、いきおい言及するほど無智をさらけだすばかりだろうが、「アークティックチャー」は作中の道具だてよりもイマージュの音響として重要:「ときおり猿のような顔に鱗だらけの胴体」からのくだりは作者のじっさいの女性観/同居観/恋愛観からの流露かなどと調子こいて書くと、ちげーよバカと一喝されるかもしれないから、ここで筆をおく。

 

「第8回」チャンピオンTakeman!!!!!!!! あくまでもわたくし個人のそれは嗜好だが、ここには6枚小説の理想型がみられる。わたくしがそこでまずなによりも必要だとかんがえるのは、いんちきな設定… ちいさな劇場の急ごしらえでつくられた舞台セット感がでていたら、もはや神秘的な成功は約束されたにひとしい。わずか数小節の序曲につづいて幕がひらくと、このたびのTakeman作品はもう絶景すぎて、いうべきことばもない… くそくらえ、リアリズム!! いんちきな設定であればあるほど舞台はむしろ厳粛さにみちる。じっさいに作中人物はここでシェイクスピア史劇のそれにせまっているように感じられる。われわれの神経症ぎみな頭脳が、プランタジネット朝の獣性にみちた胴体にそのまま接続されたような眩惑におそわれる。ラシーヌやジュネもすけてみえる… すばらしい、ブラヴォ!! おしみない拍手をおくろう。いっさいの真実はつまり劇中の闇黒にしずみながら、よごれた卵がいっぽうでは熾烈な照明にばけて、いっさいをあかるみにする。アレグロ・バルバロの話法はふざけて傍若無人でありつつも貞淑な隠喩にみちて、もはや神がかり… すばらしい、ブラヴォ!! けだかいコント・クリュエルがここにある。こんやの吟醸酒も、あなたにささげよう。

 

 


ღ グループH

「カミツキ」ミガキ氏
「王国の母」紙文氏

 

「カミツキ」の作者は、いったいなにものか!? まさに超新星☆誕生:「王国の母」よりもむしろ本作のほうが、アンジェリスムのにおいは濃厚にたちこめている。シャガールがえがいた古雅でなおかつ未来的な天使、うつくしい肉食系の天衣無縫、こどもの老成… えたいがしれない書き手があらわれたものだという感慨はつきない。

 

 いっぽうで紙文氏も、まけてはいない。くわしくは来週にもういちど時間をとって、ゆっくり書こうとおもう。ひとことだけ言及するなら、ざんねんなことに肩胛骨の手術痕のくだりでお説教くさいニュアンスがにじんでいる気がしてならないことなのだー!! お説教くささを払拭しようとおもったら、ほかでもない該当のその手術痕をむしろ悪趣味なまでの執拗さでマニエリスムふうに詳述しなければならなかった気がする。コンドームと陰毛とのくだりにひきつがれるタッチで… そうそう、マニエリスム… まる1日のあいだ本稿からとおざかりつつもランニング中にまたぞろ肩胛骨の描写がおもいだされて、キックやクロールのメニューをこなすこともなく、キイボードをたたきはじめていたが、「まるで木から枝をもぎ取ったかのような痛々しい」手術痕でそれはすまされてよいものか? <天使派>をながらく自任している身からすると、ここは作者もいったん筆をとめて、ふかい考察をこの霊性にささげるべきではなかったか? はたして天使にも血管や神経があるのか? きよらかな肉がたとえ乱暴な手術をほどこされたからといって、かかる恥辱にみちた痕跡をわが身にとどめておくものだろうか? つばさはむしろ痛みも抵抗もないまま枯葉が枝からはなれるように剥離したり、かりにオペをほどこされたにしろ人類にその愚劣な罪業をおもいしらせるべく聖痕はそこで永劫のくるしみをうたいつづけたりしているのではないか? 「王子君」の肩胛骨のうごきから、かえって話者の眼にうしなわれた双翼がうかびあがってみえるのではないか? 「翼が生えてたんだ。宗教画の天使みたいに」の1行が、お説教くさい根幹か? お説教くささをまぬがれるにはやはり偏執的な描写のマニエリスムが必要で、イメージ上のながいルフトパウゼが、かかる描写とせりふとのあいだに存在しなければならないという思考のなお堂々めぐりはつづく… 「天狗の質的研究」でくだんの人間とはちがう骨伝導による音声を、あたうかぎりの想像/智識をもちいつつ考察した吉美氏のようなパッションが必要なところではないか? ためしに公園におもむいて、すずめや鳩の双翼をもいでみるのもよい。いたましい対象の痙攣のさまから、なにかの着想がうかぶかもしれない。てっとりばやくググってみたサイトでは人体構造的に肩胛骨のつばさが飛翔力を有するためには極端な鳩胸になって左右の乳房もはなれて、ひとなみの文字どおり人体をたもつことは不可能だとみている… まあ天使も小説もフィクションで、リアリティをここだけに要求するのは、フェアではないかもしれない。だいいち上掲のTakeman作品にたいする言及で、きさまはリアリズムを罵倒していたじゃないかと指摘されたら返答につまるしかないし、<天使派>のわたくしとしては審美上の理由から本作にそれをぜひとも要求したいのだと口をすぼめながら、くるしまぎれの屁理窟をこねるよりほかはない。リアリティではなく、ロマンの幻視のために… おりからTakeman氏の作品がつごうよく想起されたわけだが、「宗教画の天使みたいに」でアカデミックにのがれるタッチがいやだったのかもしれない。アニメやラノベ的なアカデミックの転用にみえる。アニメやラノベで攻めたかったのだと筆者にいわれたら、ただちにこちらは土下座するしかない。しかしTakeman氏のように下品に下品をかさねて聖性をうばいにゆく攻めかたのほうが、よりいっそう気品があって愛らしい… 「王子君」はなるほど堕天使として邪悪で、うすよごれていなければならない。テロルや嗜虐などの人倫の価値の顚倒から、やがて復権する聖域がみてみたい。わたくしはジャン・ジュネに魅せられているから、ギリシア神話のヴィナスがもともと獰猛でみだらな海獣のイメージを起源にもつような醱酵のなされかたで、メロヴィング朝あたりから醞醸された王国の男性権力/教会の男性権威の象徴たる天使のイメージの発祥も、わかい農婦がおのれを輪姦する金髪のならずものたちの卑劣でうつくしい顔という顔をやきつけた脳裡にゆきつくのではないかという夢想をすてきれない…

 

「あんた、そんなんで生きてて楽しいわけ?」のせりふからは本作をたのしく拝読したが、さいごに感じたことは天使にとってリビドーやエロスがいかなる意義をもちうるのか? おもえばアポロンは太陽神として古代アテナイ市民を外護/祝福しながら、おなじ市民たちを疫癘や饑餓のるつぼにたたきこんで死者を量産する戦慄すべき神格としても祭祀されていたわけだし、「王国の母」がうつくしい天使にみちびかれながら、おなじように人類にたいする無慈悲な復讐の悪胤をやどしてゆくということならおもしろい… おもしろいといったら、こうして感想を書かせていただくのも、けっきょくのところ刺戟的でおもしろい。かならずしも拙文がその作者および読者にとって快適なものになるとはかぎらない。むしろ不快になる要素マシマシで脱線につぐ脱線ではないかと自粛警察がうごきださないともかぎらないが、<六枚道場>でこれまで8回中6回もわたくしは参加者としてお世話になって、せめて返礼の一片なりとも本稿が、サークル管理人にたいする感謝をはこんでくれているものにならんことを、いのるよりほかはない… さいごに紙文氏という書き手は、ほんらい古典文学にふかく依拠するタイプのはずではないか? こんにち出版される商業小説など文学史上の偉大な傑作群にくらべたら、ものの数ではないという当方とおなじ態度にでるようなタイプにふくまれそうだが、<なう>とリーダビリティとにしっかり照準をさだめて書いているところが、すこぶる稀有でおもしろい。さらにその照準のさだめかたが、しゃにむに商業作家をめざすための道程にあるようにもみえないところが、ユニークにみえる。むしろ戦略上のその照準のさだめかたや価値を、なかば書き手みずからが信じていないようにも感じられるところが、よけいに興味ぶかいのだーと僭越ながら推察しつつ擱筆いたします。ありがとう、Je vous remercie à tous…

 

✍ 13‐Août‐2020


「王国の母」を再読する。そして話者がふと鶏にみあやまりそうな翼の木乃伊のくだりから、あらためて作中のその前後をみわたすと、わたくしの前述とはことなる眺望がひらかれそうにもみえる… ひょっとすると作者は天使もその聖性も、ことさら信用していないのではないか? 「乾いたへその緒」とともに白木の箱におさめられた木乃伊は文字どおりのものでなく、ここでは骨盤の1対の寛骨あたりをイメージさせそうな気もするし、いっぽうでそこから静物画とむきあったさいのような省察にもひきこまれるが、「乾いたへその緒」とともに秘蔵されたものが生来のふつごうなものして切除される──ほんらい常人には賦与されえないものだということを加味するなら、ふたりの作中人物をこえて行間から、はたしてそれはLGBTにまつわるようなものを──いや作者さえ認識しないまま声なき声で、かかる生殖の無効性をうったえているといったら、うがちすぎだろうか? 「あらゆる静物画は、創造第六日の世界をえがいているのだね」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)みずからの死のすんぜんまでムージルが心血をそそいでいた未完の長篇の絶筆:「夏の日の息吹き」の前章でつづられている落想(アペルシュ)は、はからずもこの天使をあつかった紙文作品の読者が、おおむね無意識下にのぞきこむ作中の深度もいいあてているようにおもわれる。「だから、静物が、人間の心に喚びおこすのは、恐らく嫉妬の感情と、神秘的な好奇心と苦悩なのだろうね!」(訳同上)

 

 さいごに一転して下世話きわまることを書くなら、けっきょく作中のふたりは数年のあいだ同一の異性がつねにセックス゠パートナーであることに不満をおぼえないものだろうか? おぼえないとしたら、やはり霊的な意味あいをおびた行為なのか? 「第一志望だった東京の大学」「紛失した定規」「教授」の3つしか話者がかかわる圏外のことがらはみえてこないわけだし、「王子君」なる天使がほんらい有するはずもないリビドーと、リビドーにもとづく(両者の)あきることがない生殖行為と、かくあらねばならぬという未来像のためのその生殖との3つが示唆するものは、はたしていかなるものかという問いをここにのこして、これからも紙文氏にはたくさんの天使小説 Geisterroman をつづっていただくことをねがいながら、ふたたび擱筆:「いつだか病気で床についたときに、天使たちと話をかわしたものだ。あのとき天使たちは彼女と寝床のまわりに立ち、その翼からは、それを動かすともなく、かぼそくて高い音が響き出て、あたりの物たちを削(そ)ぎ抜いた。すると物たちは廃鉱石のようにこなごなに砕け、世界全体が鋭い貝殻状の破片とともに横たわり、彼女一人だけが小さくひとつにまとまった」(ムージル『静かなヴェロニカの誘惑』古井由吉訳)