麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

略人疏註 :第9回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ はじめに

 

「月旦」をうそぶいて本サークルの発表作のみならず書き手にふかく言及する月ごとの稿をかさねてきたのは、そこで論じた諸氏のなかからいずれ表現世界の未踏の曠野をきりひらく旗手があらわれ(てほしい)るだろうという願望/予測にもとづいてのことばかりでなく、いうもはばかられる私利私慾があってのことかもしれないが、さすがに手間がかかりすぎた。やすみの日をそれにあてて疲労はつのるばかりだったし、よほどに心血をそそいで書いても周囲のいくばくかの無理解やご不興がはねかえってくるばかりだとするなら、つづける意味もうせようというもの… されば骨折損のくたびれもうけな長文を、おおいに簡略化せんとこころみたのが本稿:「疏註」はつまり俎上にのせたい作品のために余人がおもにSNS上の140文字でつづるだろう感想のかずかずを土台にして、さらにそこから解釈をあらたにしてゆくもので、かんたんにいうと紙文氏などのそれにのっかる。ハッシュタグで該当作の本質をみぬいた烱眼や卓見にめぐりあえるとしたら、まったくの無から筆をおこすよりもはるかに労はすくないだろうとおもわれるし、「略人」はわたくしのような種族にうってつけの二文字だというばかりでなく、いままでとちがって書き手そのものの詳述はさける方向性のニュアンスもつたわりそうで便利なものとみた。あとで修整するかもしれないが、「第9回」前半作品がおおやけにされた翌朝のこの時点ではともかくもグループのアルファベット順ではなく、ランダムに以下3作を論じる。

  

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ღ グループC

「未踏の日常」6〇5氏

 

「セオリィ゠フィクション」とよばれるものらしい。さきほど作者ご自身のtweetからおしえられて、たまたま第1回ことばと新人賞なるものの応募作のリンクも眼にしたから、そちらも拝読してうんぬんかんぬんと書きすすめたら、あいもかわらず冗長(文)化するのでやめておく。スペキュラティヴ・リアリスムともよばれるらしく、ニック・ランドさんがどうのと上掲のジャンルについてはググッたさきに詳述されていたしだいだが、『特性のない男』全6巻さえあれば手にとる必要もなさそうなものだなと傲岸不遜にもかんがえる。ともあれ個々の小説がまちうける運命はそうとうに苛酷なもので、いったいどれだけの数の作品が月ごとに雑誌やらで発表されて刊行されるにしても、ムージルのそのさきに到達しているものなどはゼロなのだから、むなしいかぎりだと韜晦せざるをえない… あたらしさといったら、せいぜい刊行年月日゠賞味期限のタグのようなそれにつきるというのも、あぢきなしというよりほかはない。シェーンベルク一派が呈示した難解さをのりこえられないまま破綻したクラシック音楽さながら文学も書き手のひとりひとりが、ムージルのきびしくも蠱惑的な鉱脈からおめおめと後退もしくは眼をそむけて、なまぬるい商業圏内でいまなお因襲的な情念やファンタジィの主題とたわむれているばかりなのは、かえって空疎をとおりこして唾棄すべきものにもおもわれる。

 

 膝から下を切り落とさないと行けない塩の湖が(中略)薄紫の表紙、痛い蝶番。

 あなたが吐いた息は、わたしが誰よりも多く吸った。

 

 はじめに肉感からセオリィの筆をおこすのは、アルバン・ベルクの後期ロマン派的になやましい12音技法のようで魅せられるが、"Well-being" の横文字をみて平均律 well-tempered を想起した読者はどれだけいるだろうか? 「普遍的公正さは」からの数行はまさに社会経済的な平均律にまつわる歴史描写におもわれるし、「歴史は何よりもまず平均人の歴史である(中略)天才と愚鈍、英雄性と無気力など、一切をひっくるめて考えれば、人間の歴史とは、要するに平均人が四方から受け入れ四方に分配する、数知れぬ衝動や抵抗や、特性、決意、準備、情熱、認識、錯誤のそれにほかならないのだから。平均人の中でも歴史の中でも、同じ要素がまじり合っているのだ。この意味において人間の歴史は平凡さの歴史と言ってもよかろうし、見方によっては数知れぬ歴史の平均だと言うこともできよう。そしてもし歴史が永遠に凡庸さをめぐってゆれ動かねばならぬものならば、平凡なものにその平凡さを非難するほど無意味なことがあるだろうか」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)とつづったムージルを、やまびことして行間にあてたくもなる。

 

あらゆる法則は誰かがいつか「発見」しなければならないが、その「発見」を得ると法則は時間的、空間的制約から解放される。 

 

 「というのも彼の意見では、道徳とは人間によって作られ人間とともに変化するものではなく、啓示されるもの、時間空間の中に展開するもの、文字どおり発見されうるものだったのだから。季節はずれでもあり時宜を得てもいたこの考えの中に表れていたのは、道徳も道徳を持たねばならないという要求、あるいは、道徳がたとえ人に知られぬ形にせよみずからの道徳を持ってほしいという期待、崩壊に到るまで旋回をつづける遊星の上にあるのが、空しく自転するゴシップばかりであってはほしくないという願いにほかならなかった」(同上訳)ここでも舞台裏のバンダとして行間からなりひびかせたいのは、ロベルト・ムージルそのひと… 「書きつくされた」世界でなお筆をとろうとする21世紀の小説家たちの苛酷な航海をとびまわるセイレンのつばさが、めまいがするほどの覚醒のなかに影をおとさないだろうか? ”came for you” は天啓/ことづて/法悦:「主観性は、まさに客観性と同じようにわれわれの内的本質に背を向ける(中略)たとえそれを言語で言い表わすことができないとしても、われわれの間にある一切のことは、厳密な法則に支配されているのだ。主観性と客観性との境界は、われわれがそれに触れないでその傍を動いている境界を横切る」(同上訳)お気づきだろうか? わたくしは本作を、ハッシュタグにみられる余人の感想ではなく、ムージル先生の土台から疏註したつもりになっている… ここで65氏の文章もつぎつぎに転写したら労力はたいへんなものになるので断念するが、「快楽は何も埋めない」からはじまる1文であきらかなように本作はセオリィよりも寸鉄詩集にちかいものにみえるし、「祈って跪け」のコーダに呼応させたいものも、ボードレールの以下の詩句: "dors ton sommeil de brute."(けだもののねむりをねむれ)

 

 

 

ღ グループD

「All mine」ケイシー・ブルック氏

 

「はじめからずっと狂気じみてて特に『見たことのない男』と思ってるところが怖かった」わたくしにはハッシュタグでみかけた中野真氏のこの感想の意味がつかめていないし、「一瞬、最初の段落との整合性が」の賢者げんなり氏のことばにも理解がとどかなかったが、「花びらが満開とかもう六枚道場で読めて最高」はよくわかる。わかりすぎるほどわかる。ほんとは満開じゃなく回転♡って書けよっておもってますよねとゲスのかんぐりも、おくればせながら推参: "All mine" の原曲のほうは、これまた作者ご自身のtweetでおしえられた。ポンちゃんの写真がおがめてよかった。ミカド劇場をおもいだした。いまはどうかわからないが、わたくしが高校生のころは2, 500円の入場料をおさめれば1日じゅう客席でねばっていたって文句はいわれなかった。おばあさんといったほうがよいお齢ごろの女優が、ランウェイというか小屋の舞台のうえをチンパンジィのように跳梁して、さっぱり観客はもりあがらないから逆ギレして、とんねるずのガラガラヘビにあわせて強制的にずっと拍手させるのは悪夢以外のなにものでもなかった。それにくらべて浅草ロック座は、ビートたけしがはたらいていたころなんかとはちがって洗煉されていた。テコンドーの道場のあとで何回かご利用… げんなり師匠もご来駕されておりましたでしょうか? あ、そっちじゃなくて馬場の老舗サテンドールとか? たけしや松村もかよってたんですよね、イーヒッヒッヒッ(by 山田拓美@三田二郎

 

 おっと風俗放浪記ではなかった。ていうかケイシー氏の本作はさすがに6枚でおわらせたら、だめな中・長篇タイプじゃんよー。キャラをたてたらケツの穴まで読者にみせろといったのは板垣恵介だったとおもうが、ここで寸どめはゆるすまじだから、ことのしだいを来月も書きつづけてほしいし、「キミ」もひらがなで書きなおしてほしいと読者のかってな要望をぶつけてみるのだー!! "Peeping Tom" は普遍的なテーマです。ストーカーじゃなく、おのれの性癖にからみついてゆく毒蛇のような窃視。エルロイみたいに主人公は刑事の捜査キットとかもちだして、わが家のように女の部屋にしのびこんでほしい。ホストはチェインソーでやられるヴァージョン。ポッキー責めも可。そのかわり女には、まだまだ非゠接触。あまりに変態性慾がつよいやつは、かえって迂回をこよなく愛して、コンドルのように上空をぐるぐると旋回したすえに慾望にたどりつこうとする。ホストを宦官にしたあとも、ろくでもない男にたぶらかされつづける(ばか)女を、のぞき魔トムはうらみつつも慾望増幅マシンとして尊崇しまくって、たぶらかそうとする男をひとりずつ抹殺しながら、なおかつ死後もゲロゲ~ロの拷問にかけるような展開をおまちもうしあげております☆

 

 

 

ღ グループB

「群」吉美駿一郎氏

 

火の鳥』のように書きつがれてゆく続篇を、あくる月もあてにしてよいということか? はたして男の人魚は、ブーツ船長か? あとから部屋にやってくる友だちのひとりが、それとも船長か? ひとの世の千変万化を、もしくは不変の名もなき人魚群像のかげに書きついでゆこうという連作の企図か? いずれにしろ冒頭からその冷徹な筆致にむしろ過剰なまでのパッションと狂気とがつめこまれて、クレンペラーが指揮するベルリオーズのあの手でつかめそうな音のかたまりが、こちらの双肩にのしかかってきそうな臨場感にみまわれたし、「建物を水で囲まれる新世界」はそもそも現実的な点でわたくしを不安にさせて、タワーの土台から腐蝕して瓦解してゆくじゃんかよーとおもわせたりもしたものだが、「巨木の根のようにコンクリートが枝分かれして海底をしっかりと掴んでいる」という過不足がない1文によるシーンでまさに万全の安定感がわたくしの意識をやおら根柢からささえてくれた。タワーにすまう身なので、たてものの一部になるイメージもよくわかる。しかし作品がここまで稠密につづられていたら、あとは読者がうんぬんする余地ものこされていない。ハッシュタグをわざわざ参照するまでもない… 「おもしろかった」の素朴な感慨をもらすつもりがない偏屈のわたくしは、よくもまあこんな作品をつぎつぎに書けるものだとおもって舌をまきながら、くやしがるよりほかはない。そして上掲の2作よりも言及についやした文字数がすくないからといって、それらよりも感興がうすかったわけでもないことはいうまでもないといって擱筆する。

 

 

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 ひつじやさん1年ぶりでしたね… ああそうかいといって、どんなひとも横に存続させておいてあげるのがいちばんです。ブロックとかしちゃだめ。みたいものしかみえないお花ばたけでの創作なんて書き手をちっちゃくするだけだし、どうせならSNS自体をみないくらいのほうが書き手をむしろタフ&ワイルドにするんじゃなかろうか? あっさりとしたことばで自作をほめてくるやつのほうを、むしろ刺客ではないかと警戒/自誡したい感じかも… まあそれはよいとして、げんなり師匠のこのたびの作品で、わたくしは書く機能はおろか読者としてのそれも破壊されてしまって、ほかの3作にたいする言及がそれこそ社交辞令的にあっさりとしたものに終始した。ちなみにその3作は、げんなり作品にさきがけて眼をとおしたもので、わたくしが未読のなかになお秀逸なものはいくらもありそうだったが、しばらく原稿用紙6枚の小説そのものを吟味することがむずかしくなってしまった委細も、あわせて爾余にしるす。そして後半もアルファベット順でなく、ランダムにまいります。

 

 

 

ღ グループH

「筆を失くした記述者たち」ミガキ氏

 

 えたいがしれない書き手だな、やっぱり… まだまだ奥がふかい。まだ実像をあらわにしていない。ほほえみのかげに毒牙をかくした天使のまがまがしさが、むきあっただけでつたわる。こちらがうっかり渾身の一撃でもくりだそうものなら、きばをむいて片腕1本もかみちぎられちゃうかも☆『刃牙』のピクル? かねてより天使は獣性からうまれたのではないかという夢想をすてきれないが、「獣人種」なんて耽美でぞくぞくする。ついでに信仰がないのもよい。わたくしは本作にそっくりなものを過去にひもといた記憶があるのに、しかとはおもいだせない。なんだか夢のなかで記憶をさぐるようなデジャ・ヴュと、ミガキ氏がつづる1行1行によって眼前にくりひろげられる世界の進行を、いっさいの疑念をはさまないまま眼でおうような文字どおり意識は霧がかった催眠状態… しかとおもいだせない。マンディアルグ生田耕作訳)ではなかったとおもう。ほんとうに記憶があいまいだが、『東方綺譚』『火』(多田智満子訳)のいずれかにユルスナールがつづったものではなかったか? 「柳生武芸帳外伝」と銘うたれた五味康祐の名品もおもいだす。それこそ越前の秘境にあるといわれる雲上の原始的なアルカディアに父宗矩の密命をおびた十兵衛三巌がしのびこむというもの… まあなんだってよいわけだが、はたしてミガキ氏はいままでどこでなにをしてきたのかという興味をあらたにした。

 

 

 

ღ グループF

「ひかりひかるひかれ」中野真氏

 

 たばこと車とは、もとより中野氏の世界をかたちづくる必須の衣裳/舞台のようなもので、エゴと自己閉塞とのその小劇場から内面の無限におりてゆくような様式美も、そろそろ完成の域にさしかかった気がする。とりつくしまがない無気力や倦怠のなかで口にされたはずの1本のたばこの尖端があかあかともえたつと、おもてむきは無気力や倦怠のまま作品世界も、はげしく燃焼しはじめる。リアルと、くるおしい抒情と… たった6枚のなかで、なにかがシームレスの山脈のダイナミズムをきずきあげている。なにかを、わたくしはまだ解明しえていない。ともあれ作中の祖父もまた文人だったのか信仰者だったのか遺言の執筆者だったのかのいずれの本姿もうかびあがらせることはなく、たばこを話者はなお世界とのたった1本のかぼそいきずなのように口ですいよせる。たばこは話者にことばを禁じて、せみしぐれに作中はとける…

 

 

 

ღ グループI

「墓場軌道」至乙矢氏

 

 うまい。このかたもひとしれず研鑽をつんできた書き手なのだろう。ひとの世も宇宙も無意味な輪廻でそれこそ意味゠任務がもたらされないまま運動しつづけるのかとおもったら気がめいって、いっぽうではその壮大さにわらいがこみあげてくるが、『大佐に手紙は来ない』というガルシア゠マルケスの短篇も、なぜか一時的におもいだされた。ともあれマクロにおける窮極の無意味が、うつくしさをはらんでいる。しかし意味をたえず開鑿しようとする人智のこまごまとした道具だての描写も、たのもしい。いっぽうで寿命がつきる衛星のつぎつぎと墓場軌道にとびうつってゆく無常のさだめは、ミクロの量子飛躍(クォンタム・ジャンプ)にみられるカラフルな詩情をむしろ喚起するし、「量子振動」なるコーダのことばがまさに感情や情念をこえた文学の未踏の領域にさそってくれそうな愉悦もかきたてた。

 

 

 

ღ グループG

「彼女のあそこが眩しくて」一徳元就氏

 

 いきなり人称の混在。しかし問題はない。まちうけていたもののように読者はそれを消化して、つぎの1行にすすむ。ことばのオナホ、ときおり文字どおり “挿入” される耽美ないいまわし、おそいくる粘液の火の粉… あれ、もう別作品? 「成木サトル」の語意をしばらく熟考したが、お手あげだった。このひとの講釈によって作中の秘密が、つぎつぎに解明というか牽強付会:「照美」がアマテラス、「佐野」がスサノオ、名なしの兄がツクヨミ、「まず」が冒頭に4度もきていることまで親切におしえられるが、「成木サトル」の名まえにもやはり神代からの機縁があるのか? わからない。ただ作品のおわりの地点にたちつくして、ぼうぜんとした。これまで本サークルでさまざまな書き手がさまざまな実験をこころみてきたことをあらためて反芻しながら、いっぽうでこれからはどんな奇術をみせつけられても、もはや驚歎することはないだろうということを確信させられた。ぶっちゃけ原稿用紙6枚の小説を、よみすぎてしまったのだ。よみすぎて感覚は鈍磨した。おどろきも新鮮さも、すりきれた。エロ動画をぶっつづけで1週間みまくったら、はだかの女性も着衣のそれとかわりがなくなって、ショウ・ウィンドウごしにエロをみるばかりで、エロの実体にけっして手はふれることができないにちがいない… もともと小説をあまり手にとることもない生活をおくってきたのに、ことしにはいってから本サークルで多読の度がすぎた。わたくしは本作のあとにべつの6枚をよみたいとは、どうしても慾望することができなくなった。まさに読者殺しの1作だった。

 

 ※アマテラスの実体が鸕野皇后なら、スサノオはその夫の天武すなわち新羅王族の金多遂、ツクヨミは天武の兄たる天智すなわち百済の亡命王子豊璋だと理解して、わたくしは記紀をながらく手にとってきた。もとは金官伽倻などからながれてきて、それぞれに都城や巨大墳墓をきずいた代々の首長たちが、わが国でも半島でも百済新羅にほろぼされて、さらに白村江でその百済のほうも亡国… いったんは金多遂が天皇を号したことで半島の覇者たる新羅王朝がわが国をGHQさながらに統治したが、ほどなくして鸕野皇后が持統として天武のあとをおそうと、ふたたび百済の残党がみやこを支配する。これを糊塗するための万世一系が、くるしまぎれにぬらぬらと記紀でとぐろをまいているわけだが、げんなり師匠がラシーヌのごとく神話的政治闘争をエロスの舞台として表出したのは烱眼というよりほかはない。