麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

弄翰蝶喋:10月刊 <Avvisi>

 

 

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「惑星と口笛ブックス」より拙作をば刊行していただくはこびと相成申候。アルバン・ベルクの文字どおり “完成された” オペラ(※未完のやつもあるからね)3幕15場の形式/技法にもとづく3部15章の長篇にて候ハゝ “完成された” ロマンだぜぇぇとスギちゃんばりの豪語でもって品質保証はいたしかねるし、「架空のオペラღ」un opéra fabuleux だなんてランボオ流のはったりをかますのも気がひけようというもの… だいいち本作は、ほんとうに脱稿していない。およそ10年のあいだ総譜化の作業をつづけながら、やっとこさ15章中13章がしあがったところだから、まじで未完:『速報』Avvisi もこのたびの刊行のためにでっちあげた仮題でござろうが、かんがえてみたら完成していないものを刊行していただけるなんて、グレイトすぎないか!? 「グレイトだろぉぉ?」「グレイトだぜぇぇ」べつにスギちゃんふうに自問自答したかったわけでは寸毫もないが、<六枚道場>でそういえば鬼滅のなんちゃらにあやかった痰痔瘻と揚饅子とが攻守交代しながら、くんずほぐれつな小品:「きめせくのばいぶ」を投稿することができなかったのはざんねんだし、「すし職人伝説☆すかっとスカとろ」「恋して皇子になりました(恋プリ)」なども深部小脳核のあたりではほぼ完成していた。おしいサークルをなくした。

 

「グレイト」die große から、シューベルトのもうひとつの神品:「未完成」交響曲にあやかりつつ自家中毒したかったわけでもない。ようするに完成していない小説なんて版元および読者から、ほんらい鼻にもかけられないしろものだということを明示したかった。ノワールの魔犬エルロイだろうが押切もえほどの文豪だろうが現存する書き手が、ついうっかり完成していない原稿をもちだそうものなら、ストローでいまさらタピオカをすすることにひたむきな編輯者はふんと鼻をならして、うけとった原稿をそのままウェイターの後頭部にむかってパワフルになげつけるにきまっている。そんなものは商品にならない、ようするに書きはじめたら書きあげることだ、きみが商品をつむぐことで出版業界ひいては文学にかかわろうとするなら…

 

 わたくしごとをみなさまの問題として転嫁しつつ大上段にかまえたくなったのも、むりはないところ… そっくりそのままのフレイズを、むかし文藝誌の編輯長からちょうだいいたしました。わたくしは18歳~21歳のあいだ間歇的に某探偵作家Aの弟子だったが、『す○る』編輯長を紹介してやるから自信作を用意しておけと弟子になったとたんA師からいわれた。ほいきたッッッッとばかりに40枚ばかりの原稿を持参して、バキよりも高速のランニングで編輯長のもとに遅参:「短篇?」もちこみ原稿をぺらぺらとめくりつつ編輯長がたずねてきたので、うんにゃ長篇ですだ完成したあかつきには上下巻になりそうな一大ロマンでげす、ご高覧にあずかってるのは冒頭のその第1章だでと天衣無縫にさえずる19歳をにらみつけた編輯長:「きみねぇぇ~完成してないと意味がないんだよ」

 

 

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『海豚座に捧ぐ百一発の砲声』上下巻河出書房新社を刊行するころにはA師からも勘当されて、おつむがよわい大学生はすこぶる陰険な27歳のマーシャル・アーティストに変容していた。しあがってもいない小説を、もうにどと版元にもちこむこともなかったのだ、もうにどと… にどと… もうにどと? 「惑星と口笛ブックス」より拙作をば刊行していただくはこびと相成申候。やっとこさ15章中13章がしあがったところだから、まじで未完:『速報』Avvisi もこのたびの刊行のためにでっちあげた仮題でござろうが、かんがえてみたら完成していないものを刊行していただけるなんて、グレイトすぎないか!? 「グレイトだろぉぉ?」 ここまで眼をとおしていただいた知的マイノリティのみなさまは、コピペのこの主題回帰が、ソナタ形式にせまる効果をあげていることにも気がつくだろう。ともあれ西崎憲氏のその寛仁大度は、なまじの編輯者のおよぶところではなかった。こちらが刊行のご検討をおねがいするさいに未完の長篇なんですけどねといいそえたところで、とりたてて難色もしめさない。さらに全3部から1章ずつをぬきだしたダイジェストもダイジェストのダイジェスティヴ・ビスケットなやつで、インド映画の予告編のほうがまだしもエキサイティングなくらいでござろうと白状したところで、へぇぇ~そりゃまたなんともといいながら、びくともしない。これだよ諸君、この感性そして野性…

 

ヴォツェック』はもとより当方のながらく偏愛してやまないオペラだが、はなはだ不満な箇所があるとするなら、ラストの1場がそれにあたる。さまよえるクラおた連中はあのボーイ・ソプラノにあわせた8分音符の無窮動がすてきやんと島田紳助ふうにブラヴォしまくるが、わたくしからみたら同ラストがオペラを因循姑息なものにかえてしまっている… つじつまあわせというかパトスの帳尻あわせや収支決算めいた矮小さが、すけてみえてしかたがない。ここで対蹠的にもちだしたくなるのは、なき柴田南雄マーラー評:「つまり、音楽的想念としての着想の天才ぶりと、これら、言葉による(標題などの)着想の幼稚さ、平俗さ(バナリテ)の間の乖離は、ほとんど常識では理解できない」ほどだったマーラーのまさにオーストリア゠ハンガリア二重帝国そのもののように肥大化した窮極のアンビヴァレンツが狂瀾する音響゠文学コンプレックスにくらべたら、シェーンベルク一派による無調のスコアのほうがまだしも常識的で家父長的ではないかという柴田のあまのじゃくな逆説⇒マーラーバロック的対位法の金襴と後期ロマン派の爛熟とのごった煮グラーシュにくらべると、もとは銀行員だったシェーンベルクや病弱なニートにちかい弟子ベルクの音楽理論/作曲技法はなるほど前衛的で尖鋭だが、かんじんの感性はウィーン宮廷歌劇場の楽長マーラーのほうがはるかに天将奔烈でなおかつ不確定性にみちて、あたらしいものではなかったか? 『ヴォツェック』のラストこそベルクの因襲的で家父長的な感性が、もろにでてしまっているような気がしてならない。ラストだけは新時代をひらいたものではなく、かえって旧世紀の圏内でとじられたようにも感じられる。

 

 わたくしのスコアは、いまだに長篇(グランド・オペラ)のフィナーレに到達しえない。つまり完成させることができないのも、こんにち小説にピリオドをうつことが可能なのかどうかの懐疑を、おのが孤影のごとく21世紀の生活上でひきずってきたからにほかならない。プルーストムージルの回収不可能なほど膨張しまくる前世紀の大長篇も、とうぜんながら未完だった。ニュートン古典力学の世界なら、おしなべて小説家はめいめいの作品をしあげることができた。あるいは上述したとおり商品だとわりきるなら、いまもなお小説は完成しうる。ただし量子論のミクロから、かぞえきれないほどに分岐する現実:「多゠世界」many-worlds 解釈のなかで生活上のフィジカルな主題Aになおかつネット上の主題Bもからみあう現代人のはてしなく拡大されたソナタ形式の日常において小説ひいては文学が、はたして完成させられるものなのかどうか?  <六枚道場>のたわむれのゾーンでなら可能にみえた完成も、かならずや未来の文学においてはアナログの幼稚な概念のひとつとみなされるにちがいない。ムージルのあたらしい鉱脈をめざすものなら、おぼろげにもそれは予見しうる。

 

「惑星と口笛ブックス」より拙作をば刊行していただくはこびと相成申候。やっとこさ15章中13章がしあがったところだから、まじで未完:『速報』Avvisi もこのたびの刊行のためにでっちあげた仮題でござろうが、かんがえてみたら完成していないものを刊行していただけるなんて、グレイトすぎないか!? 「グレイトだろぉぉ?」「グレイトだぜぇぇ」べつにスギちゃんふうに自問自答したかったわけでは寸毫もないが、たびかさなるコピペのこの主題回帰が、あなたのまえでいま新時代のドアをひらく… さいごに未完成品の出版を、まよいもなく決行してくださった西崎憲氏の感性と野性とにたいする最大限の敬意ならびに感謝も、あらためてここにしるす。ありがとうございました。ダ・ヴィンチがそのむかし太陽光をそのままボトルにつめこんだようなと讃美したトスカーナのノービレ(高貴)なプルニョーロ・ジェンティーレで、かどでの祝杯をあげます。インターネットで本作は、まもなく試撃行をはじめます。

 

 

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※<Avvisi>なるエア・ブックは、フィクションです。エア・ブックはつまり拙者がおもいついた電子書籍のニックネイムでござるが、「今月刊行予定のair books」だなんてe-bookよりもよほどファニィではないか? <Avvisi>はとにかくフィクションで、いかなる実在の人物/団体とも無関係:「K」なる既婚のキャラクターは、おれのこと? 「アキラ」も、あのひと? むむむむ? 「グラーヴェ」変奏曲にでてくるのは、わたしの離婚した両親? よりによって聖職者も、ドイツ文学科教授も、ゲイバーのじゅんちゃんも元気? なつかしいぃぃ~夕張めろんちゃんなどなど約20名のレイディス&ジェントルメン&カトゥーイズが、ご一読後にそんな猜疑や瞋恚にもえたつとしたら、かんちがいもはなはだしいです。こたえは、ノン(byセリーヌの墓碑)です。あなたがたのことが、エア・ブックに書かれているはずもありません。あまりにそれは自意識過剰のうたがいや忿怒です、デューク東郷更家失調のとまどいや殺意です。ご安心ください、あなたがたのことなんて書いておりませんから… うかつに訴訟をおこしてやろうだなんて短慮もひかえていただいて、あけはなたれた窓からさしこむ初秋の陽ざしなり、ひばりのさえずりなり、おおぶりのグラスにそそがれたシャンボール゠ミュジニィのばら色なり木いちごのような薫香なりに陶酔しながら、でもでも第Ⅱ部のあのキャラクターは、ぜったいに彼女 or わたしだなんて疑念がきえなかったとしたら、リアルから自在にはばたくこともできなさそうな小説家のその菲才をあわれんでみてはいかがでしょうか? <Avvisi>なるエア・ブックは、フィクションです。ヴィーノ・ノービレ・ディ・モンテプルチァーノでみたされた外道小説家のボルドー型グラスと、あなたのそのブルゴーニュ型グラスとを、ながらくの音信不通も、わだかまりも、いさかいも、こんにち太平洋や鶏林八道や幽顕さえまたいだ彼我のへだたりもこえて、ピアニシモでぶつけあいましょう。シェーンベルクやベルクがBGMだなんて気がめいるでしょうから、おニャン子クラブのかの西崎憲氏が作曲した名品にひととき耳をかたむることにいたしましょう♬