麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

辛丑但去 :第12回 <六枚道場>

 

 

 

 

 

<六枚道場>が今月でおわるらしい。たまたまtwitterでその告知をみた余人からきかされたばかりで、おわりにする理由もさだかでないが、わたくしにとってはすくなくとも昨秋あたりから原稿用紙6枚の作品は興味のうすいものにかわっていた。どれだけ回をかさねても、ことばは既知の観念連合からのがれることができない… かなしくもWEB上はついに文学の未来をうみだすグラン・クリュ(特級畑)の土壌たりえぬものではないか? けだし20世紀後半は文学が未知の領域にはばたこうとする意思も、ばけものじみた貨幣経済からたえず<商品>の枠内というかレッテルにおしもどされる泥沼にはまりこんでいたようにみえるが、どのみち21世紀のインターネットも貨幣とおなじで非゠日常にむかおうとする文学を、たえず日常の単純話法と生活のなまぬるい皮膚感覚とにおしもどそうとする因襲の逆波でしかないのかもしれぬ。

 

<六枚道場>にとって当初はそれが推進力におもわれたSNSとの連動も、けっきょくは因襲の逆波にすぎなかったのではないか? こいつに拘束されるかぎり原稿用紙6枚の作品はたえず文学性をはぎとられつづけて、ゆるい140文字のつぶやきの日常のおしゃべりの延長からのがれることができない。めいめいの広報機能をべつにしたら、わたくしはSNSに以下の3つの唾棄すべきものしかみることがない──あってもなくてもよさそうなジョーク、自己憐愍、ポピュリズム──いや瘴気にちかいネット上の喧噪を、あれこれとぼやいてみたところではじまらない。なにごとにも、おわりはめぐってくる。ありがとうさようなら、また問うことなく白雲はつきるときなし、「担(ただ)(され)」のひとことがのこる口腔のにがにがしさを、ヴォーヌ゠ロマネ村からとどいたキャピキャピしたピノ・ノワールであらいながす。やかましいことのいっさいを意識から霧消させる花ざかりな薫香が、リヴィングのこの瞬間にたちこめる。

 

 

 

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ღ グループA

 

「青い燈台」のテキスト上に意識をさまよわせて、ただひとつの句:<大客船深きに生る黒あげは>をのみくだしながら、カオールの Vin noir(黒ワイン)ひとしずくの陶酔にひたるが、「部屋」は全読して鍵盤の階調をたんのう♬「死んでいる場合か」はつぎの1首:<凍蝶をつれた仔猫よ>にひきこまれつつも “今いずこ” を自分なりに書きかえてみたい欲求が大爆発!!!! 「読みかけのディケンズ」は既知的で古朴。ちなみに数ヵ月まえから、もはや投票機能にはかかわっていない。

 

 

 

ღ グループB

 

「黒い靴のままで」をなぞりながら、こちらの感性はいつしか中原中也がだいきらいと公言してはばからない宮本浩次の反俗におりかさなってゆかなかったか? 「読みかけのディケンズ」のドードーのリフレインのほうは、すなおにうけいれていた。たぐいまれなる詩人なのだろう。マダム草野、いままでありがとう。

 

 

 

ღ グループC

 

「マグロ大王殺し」はことばが未知の観念連合をめざしていながら、わたくし個人としては上述したSNSのジョークからのがれきれていないような不審もぬぐいされなかったが、「劫火の終わりに摂氏世界を孵化させる、再生と順接の神、環化su蛾花」はそれとは正反対にことばの錬金術がいつにもまして様式美をほこって、ひときわ妖艶に完成されつくしたものにみえたし、「読みかけのディケンズ」もいままで以上にリラックスした筆致でほおぉぉと感心させられる精緻がさりげなく、ここちよい。ともあれ当グループの諸兄も、いままでありがとう。

  

 

 

ღ グループI

「読みかけのディケンズ」Takeman氏

「読みかけのディケンズ」成鬼諭氏 

ღ グループJ

「宇宙作家ディケンズ」小林猫太氏

 

 さいごにこうやって3賢人の玉稿をたてつづけに拝読すると、なにやら小説とむきあうよりも寄席でふんぞりかえっているような気さえしてくるが、「本を読まない僕でも知っている」の前口上とはうらはらに、フー・ダ・ニット形式によるディケンズ作品:“The Mystery of Edwin Drood” から興趣をひいたTakeman作品は、しかしながら3賢者タイム中でもっとも文学的でなおかつ本サークルの有終をかざるにふさわしい清新やせつなさをたたえていた。モーツァルトのKV. 595のロンドからきかれるような愉悦/哀感:然り、揺らぎ」における異星の神が、はたして作中でいかなる意味をもつものか? 「異星の神は既存の宗教をリセットさせるための手段」なる答酬をいつぞや作者Takeman氏ご本人からいただいてうれしかったが、「二週間目の暗黒茹で卵」「prey and pray」をはじめとして、いやぁぁ~もう毎月たのしませていただいた。このたびもラストの2行は、スタンダールのそれに比したくなるものでした。いままでありがとうございました。

 

 

 

 

彼女のあそこが眩しくて(一徳元就師)なる神代煽情文学®から不感症にさせられて、ついに恢復のみこみはなかったが、おもえば原稿用紙6枚作品の──これがやはり極北だったのではないか!?  「6枚」とは小劇場のようなもので、ストリップ小屋にもなれば口からでまかせの寄席や浅草ロック座にもなる──いや不屈の不退転のかくごがあれば反゠文学をつらぬくこともできるのだと元就師匠からおしえられた<道場>ならぬ6枚劇場:「読みかけのディケンズはまさにそんな口からでまかせの韜晦のすごみが、もろにでていた。それかあらぬか高座からは反゠文学的(アンティ゠ディレッタント噺家のそれではなく、ペトリュス・ボレルのごとき半狂乱の眼光のむしろ詩美にもえたつ火箭がふりそそいできて、わたくしは威伏しつつも愉悦にはずんだしだいだった。じつに元就師父からは、おしえられることがおおかった。いままでありがとうございました。

 

※「げんなりボール」「猫太侍」などの小道具をもちいた6枚作品を、わたくしは旧年中にはやくも脳裡でしあげておりましたが、<六枚道場>管理人はプライヴァシィ上の危険性でこれをとうてい掲載してくれないだろうとの憶測から、ついに脳裡からひきだすこともなくおわりました。いつか私家版として献呈させていただけたら、さいわいでございます。

 

 さいごはその猫太侍じゃなく小林猫太氏のお作品で、およそ1年のあいだ運営がつづいた本サークルのための拙文をしめくくる。ジャッキー・チェンの映画にでてくるクンフー・マスターのような鍛達の筆致が、つねに躍動していた。このたびも文章はすばらしかった。わたくしは毎日文章を書くトレーニングをつんでいない。それどころか書くのは月にせいぜい数時間だろう。しかし毎日のトレーニングをつまないことには、かかる猫太氏のような筆致はとうてい身につくことはない。あとはその達意が、おおいなる主題をとらえたときだ。まっている。ネットからとおざかった当方のような人間の耳にも、きこえてくるくらいの大爆発:『少林サッカー』のごとき巨篇のうぶごえが猫太氏のペンからあがって、すめらきの島国をその爆音でゆるがす日がくることを、たのしみにまちつづけております。いままでありがとうございました。

 

  かかる3賢者タイムとあわせて、さいごに紙文氏、宮月氏、ケイシア氏、中野真氏、いのり氏などのお作品にふれられなかったのはさびしいかぎりだが、しかたがあるまい… なにごとにも、おわりはめぐってくる。ありがとうさようなら、また問うことなく白雲はつきるときなし、「担(ただ)(され)」のひとことがのこる口腔のにがにがしさを、ボルゲリからとどいた奇蹟のしずくでうるおす。さるにても本サークルがなくなってしまうと、みなさまのお作品にふれる機会もなくなってしまう気がしてならないが、いずれ巨大な跫音がきこえてくる日をたのしみにまっております… Je vous remercie tous, et BON COURAGE!!!!

 

 

 

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略人疏註 :第11回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ はじめに

 

『ブルグント公女イヴォナ』刊行をもって7、8年におよぶ当方のゴンブロヴィチ欲はほぼコンプされたしだいだが、『結婚』ほどの衝撃はなかったにしろ本戯曲もドリフみたいで大満足:『コスモス』あたりも同版元があらためて刊行してくれないだろうか? 『ウェルギリウスの死』だとかハインリヒ・フォン・クライストの絢爛たる騎士劇だとか図書館のふるい全集の1巻としてしか手にとれない傑作が、ほかにもたくさんあるので、ぜひともよろしくおねがいします。

 

 

 

 

 

 

ღ グループC

「太閤黄金伝」乙野二郎氏

 

『妖説太閤記山田風太郎が関白秀吉を、もっともよく活写しているとおもう。およそ一般的イメージの磊落な “猿” ではなく、ぞっとするほど陰険で邪悪… まずしい百姓あがりではなく、ゆびが6本はえ山窩だったという稗史のささやきにもうなずきたくなるが、わたくしは本能寺(1582年)にもやはり “猿” というかハゲネズミがふかく関与していたのだろうという疑惑をぬぐいきれない。というのも右府信長の最晩年にアヴィス朝ポルトガルはスペイン併合(1580年)で、いったんは亡国。ポルトガルとちがって、スペインが貿易とともに精神のアヘンともいうべきキリスト教によって日本を内面から毒して植民地化しようとする奸計をひめていることに気がついた信長は、だんじて交渉を拒否。ポルトガル人宣教師フロイスは信長が一統後に大艦隊をひきいて中国大陸の征服にのりだして、むすこたちに領地を分割支配させるつもりだと書翰にしたためたが、じつにこれは信長よりもスペイン&キリスト教の野望… かりに羽柴筑前守秀吉が本能寺の変にかかわって、スペインがこのクーデタのうしろだてになっていたとしたなら、のちに豊臣政権が2度の朝鮮侵寇軍をおこさざるをえなかったのも、むべなるかな… えげつないスペイン&イエズス会の大東亜教化゠属国化計画をみぬいた家康も烱眼だったから、スペインみたく交易と布教とをコミコミ・プランにしないオランダおよびイングランドと手をくんだのだろうし、もののみえない仙台黄門のごとき東北の総会屋と駿府久能山の大御所とではもとより品格がちがう。さらに教皇の植民地になるよりも鎖国はまだしも日本にさいわいしたのかもしれないが、いったん植民地化されて勇猛なる士族がそこから100年間におよぶレジスタンスおよび解放戦争をくりひろげていたとしたら、こんにちのSNSまでもが百姓根性や貧乏くさいポピュリズムから毒された島国とはことなるジパングができあがったかもしれないぞとおもうと、そぞろ血がわいて肉もおどる…

 

 ところで乙野作品でも石田三成(テキストでは光成)関ヶ原の首謀者だったとは明記されていない。じつのところ三成は家康とわりあい連繋しつつ豊太閤なきあとの事後処理をすすめて、おもてだった敵対関係はみえないようだし、「たぬきおやじ」のイメージとはうらはらに家康が実直すぎるほど織豊政権をささえていたふしもみられる気がするが、どさくさまぎれの騒擾をみこんだのは上掲のいなか武将政宗大阪城に陣どって使嗾した安芸中納言輝元のたぐいではなかったか? 「いちゃもんじみたやりとりと、こずるい策謀」がはたして巷談のイメージそのままのものだったのか? ひきつづきスペインが秀頼の代まで大阪城にたたって、キリスト教で日本を毒そうとする野望をすてていなかったとしたら、なんとしても家康はこれを覆滅しなければならなかったはずだと本作をよみながら、しばし島国のこしかたゆくすえを、ネットユーザの農村的ポピュリズムと硬直した政権とでひきさかれそうなコロナ禍の祖国のありようを、かんがえる正月のよすがにもなりました。

 

 

 

ღ グループF

「然り、揺らぎ」Takeman氏

 

  よいタイトル。ドイツ゠オーストリア表現主義的なカンタータのそれのようにも感じられる。はっきりと書かれてはいないが、なかば都市伝説的な古代ユダヤ&伊勢神宮/キリスト&戸来などのニュアンスが感じられたが、「破れ」というテキスト中に散見される表記はこのままでよいのだろうか? もともとの神々の支配圏がやぶられたということか? はたして異星の神とはなにか? 「奇跡」はわたくしが全身にあびている奇蹟とはべつのものか? 「奇跡」がなにひとつとして身におこらないことこそが真の奇蹟:“Kryie eleison” (あわれみたまえ主よ)ではなく、<お許しください>のひとことに “揺らぎ” をみるべきか? いきおいコロナやらワクチンやらともむすびつけて、きりあげようとしながら、ゾロアスター(火祆)教をあがめていた倭国にとっては天孫族も仏教もネストリウス派景教も、もとは異境から飛来して疫病のように伝播したものだったんじゃ? 「玉砂利が敷かれた境内」のように人生をふみしめてきたTakeman氏ご自身を、なかんずく作中にちかごろは実生活のいかなる狂気や懊悩や絶望がひそんでいるかという観点から、ズームするようにもなってきた。

 

 

 

ღ グループA

「迎春奉祝能「清経」」元阿弥

 

「清経」は世阿弥陀仏が複式夢幻能を確立するまえに創作した修羅能。そもそも能と狂言とを総称しての能楽(散楽)だから、ファルス的な要素もぶちこんで、わるいはずがない。こんにち刊行されるスタイルよりも謡曲の原典は、ずっと散文にちかいものにみえる。アルバン・ベルクの3幕15場のオペラにもとづく長篇をおよそ10年のあいだ書きつづけて、ラシーヌや能の劇的小空間にむしろ魅せられるようになった。みやこで隠栖する清経の妻のもとに淡津三郎がとどける遺髪は、スヴェンソンにかえてみた。かみは世阿弥の原典でも宇佐の神で、ありし日のエロティックな閨房のいとなみもイメージさせる髪… ねむったまま妻が耳にすることになる原典のサシシテ:「聖人に夢なし」に照応させるかたちで本作:「死人に口なし」がことあげになるわけだが、「やえのしおじのうらなみ、ここのえに」のここのえは帝都。だんな(落武者)は死後に海(〽やえのしおじのうらのなみ)をわたって奥さんがいる東京にもどってきたことになる。オリジナル落武者の平清経は源氏の追撃におびえて、おびえるあまり正気をたもっていられなくなって、うさ(宇佐)からのがれるべく入水自殺… こじつけにすぎないもののデリヘル愛欲濃厚接触な光(コロナ)源氏からおいつめられて、だんなは縊死しましたといったら、ご愛嬌:「ふぇらちゅ~る」は地謡にて有之候段、だんなが奈落にありつつも仏果をえて昇天するすがたは、まずもってめでたしめでたしの蜻蛉日記の筆者も眉をひそめそうな散楽事(さんがうごと゠ジョーク)でございます。 

 

 

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略人疏註 :第10回 <六枚道場>


 

 

 

🎤 カラオケバトル

 

<六枚道場>は年1回のいわば一過性のイヴェントとちがって、たえず原稿用紙6枚の言語表現が有効かどうかの自問自答もつづけてゆかなければならない… たんなるサークルだぜ、だれが自問自答するかよ? あっちが年1回ならこっちは月1のイヴェントさと鼻でわらう筆者/読者もいるかもしれないが、はやくも年の瀬がちかづいたことだし、ひとつ根本から原稿用紙6枚の表現をみなおすことにして結論からさきにのべるとするなら、コロナ世界よろしく展望はあかるくなさそうにみえる。

 

「均質性」「既視感」などの表現を、およそ1ヵ月まえに本家ブンゲイ(どうにもこうにもやはり “ブンゲイ” のカタカナやBFCの3文字は苦手でどぎまぎしちゃうから、つぎから同名称を “本家” の2文字であらわすことにする)作品群にたいしてM*A*S*H氏や紙文氏は、ひと月ほどまえにそれらの表現をもちいながら、サイレント読者のおもいを代弁しておられなかったか? 「均質性」はそこに撰者が介在するからというばかりでなく、ぞんがい原稿用紙6枚の表現と密接にからんでいるように推察される。いうまでもなく6枚は、みじかい。みじかすぎる。ぶっちゃけ書くのも読了するのも、たやすい。たやすさはときとして他人のイディオムで水をながすような安直さにもつながって、つづられている文章は書き手の半径30㎝から手づかみにされてきた横着なものにみえることもしばしばだし、「既視感」はおのずからそこにそなわるもの… ささっと名刺がわりに書けもすれば一読もできる利便性になおかつWEB上公開+SNS連動ゆえの反響の即効性もあいまって、わたくしが現時点でたくさんの書き手とつながることができたのも “本家” の原稿用紙6枚のインヴェンションというかイノヴェイションのたまものだということは、どれだけここで感謝しても感謝したりないほどの事実なのです… ありがとうございますと明言しておかなかったとしたら、フェアではあるまい。ありがとうございます。めぐりあえたしあわせは、ひとえに原稿用紙6枚および惑星と口笛ブックスのおかげです。ただし利便性によって喪失/剝奪されるものは、かならずや存在するはずだということも明記して、つぎにすすむ。

 

 はじめに原稿用紙6枚の表現のファイトときいて、もろこしの武術の百家争鳴のようなものをイメージしたひともすくなくないにちがいない。そこには南船北馬よろしく戳脚翻子拳もあれば燕青拳もあれば回教心意六合拳もあって、トンファもあれば棍術も刀術も黄飛鴻の無影脚も極真カラテも西欧わたりのコマンドサンボ、サヴァト、ルタ・リブレもみられるかもしれない。つまり小説、詩、戯曲、都都逸、まんがなどが、ぶつかりあうエキサイト… ふたをあけてみたら、そんな絵そらごととは無縁の散文空間:「均質性」はたしかに昨年よりも顕著だったが、わたくしはそこに原稿用紙6枚の表現の根幹や限界をみたような気がした。カンフーのごとく小説や詩や戯曲がわかれて独立した身で、ファイトするのではない。それらのジャンルというか要素は、ひとつひとつの作品のなかに融合されている… みじかさは小説を書くばあい一面では困難さにもつうじる。そして原稿用紙6枚の小説はその困難さからのがれるために詩にあまえる。いっぽうで詩にとって6枚はひろびろとした空間だと錯誤するなら、そこには小説にあまえた寓話や散文詩になりがちな危険性もかいまみえる。わたくしは五味康祐のあの凝縮された傑作「喪神」が原稿用紙6枚でつづれるなら、すこしはその枚数の可能性をみなおすかもしれない。しかし6枚でそれは、ぜったいに書けない。つまり6枚は凝縮させるためにさえ不十分な分量だし、もとより作品をカタルシスにみちびくことはなおさら不可能な枚数といえる。

 

 さても原稿用紙6枚がおちつくところは、おおむね小説未満でなおかつ詩以上のいわば東武ワールドスクウェアのごときミニテュア・パークか? ひとつの作品のなかに小説や詩や戯曲が融合された新機軸といったら耳ざわりがよいが、どっちつかずのしろものの大量展示といったら蝗害にちかいイメージがうかぶ。つまり無自覚なものにとって危険きわまる死角から、ジャンルが溶解する。ジャンルが他ジャンルや他人の書法にあまえて、くだんの名刺がわりにうってつけなコンパクト性や(既視的なイディオムの)通気性のよさをアピールして、ピリオドのさきまで空気をよんでくれそうな読者にあまえる… 「愚者たち」によせるM*A*S*H氏や紙文氏のコメントにそそられて、さきほど作品そのものを一読してみた。うまい。まちがいない。ただし讃辞だけですまそうという気にもならない。どうも原稿用紙6枚の小説のうまさというものは、カメオのレリーフっぽい浅薄さとほとんど致命的につながる気がしてなりませんやとぼやきたくなる。そして勝ちまけをきめるイヴェントの応募作でまじめに書きすぎですよ、やぼですぜと野次をとばしたい気分にもなってきた。

 

 われわれの身になじみはじめた原稿用紙6枚の勝負ごとは、カラオケバトルにちかい。たまにTVでそのたぐいの番組をみて、なんでこんなのばっかりが勝つんだ!? <六枚道場>のあの投票結果などをみるにつけても狭量なわたくしはそんな反撥でいきどおってきたことが、はっきりといまになって想起されました。ひとの楽曲をひとの歌唱法で、コンピュータの採点に気をくばりながら、やけに真剣にうたいあげるバトル… 「均質性」「既視感」しかり原稿用紙6枚で書いて、ファイトすることはいまやオリジナルの殺傷力をぶつけあうことではなく、むしろ既存のフォーマット(仮面)にいったん自分をおしこんで、どれだけ闊達にどれだけ声量たっぷりに表現しうるかを、スコアでせりあう行為にちかいんじゃないか? なんで新妻聖子とかいうのばっかが勝つんだよ、みんな耳がおかしいんじゃないか!? ながい小説をアップするよりも現状はこの界隈で原稿用紙6枚の小説を投稿したほうが、おおぜいの読者にめぐまれるかもしれない。しかしミュージシャンがステージではなく、カラオケでうたうところばかりを聴かれて、いったいどれほどの意味があるのだろうか? <六枚道場>はだんだん巨大化していって、かえって存続する意味がなくなってゆくんじゃないでしょうか? およそ半年ほどまえにそれを問うてみたら、ぼくはむしろ継続するごとに作者というものの存在意義がどんどん稀薄になって、おびただしい作品群がおたがいに近似しあって巨大なひとつの表現にかわるような未来をこの眼でみてみたいとおっしゃられた紙文氏:<道場>の書き手はなるほど自他の作風の垣根もこえて、おたがいの領分を浸蝕しあいながら、ボーダレスに溶解しているようにもみえるではないか!? 「既視感」の重量がわたくしの両肩にのしかかってくるばかりなのは、ネット上にいまや厖大な6枚小説が公開されていることと無関係ではあるまいし、<道場>第10回作品群をよんで蚊がなくような寸評しか口からもれでてこないのも、ほかならぬ大量アップ下の眼精疲労がひきおこすデジャ・ヴにさいなまれたすえのことだろう。

 

 

  

 

 

 

ღ グループA

「ことば」星野いのり氏

 

 せみしぐれから、わたくしの脳裡にまさに殺陣のスリルがひろがる。ことばではなく、こと刃とつづりたくなる… 「こわい男よ」うしろすがたを遠眼でながめただけで、どれほどの剣をつかうかがわかる。みごとな凝縮が、ここにある… こと刃はまだ鞘におさまっている。しずかにおさまっている。ひらめいたとたん読者は斬りはらわれて血けむりをふくような居合の殺気が、ここからゆらいでいる。わたくしは俳句にたいして文盲なので、この余は言及することができない。ただし厖大な6枚小説から圧迫された意識には、みごとさはよけいにきわだって映じるので、ひとこと本作について書きそえずにはいられなかった。

 

 

 

ღ グループB

「ノン(ノン)フィクション」紙文氏

 

死に神の夢」も拝読した。わたくしにとって本作とともにそれが興味ぶかいものになるのは、とりもなおさず人類にむかって死刑のらっぱ Tuba mirum をふきならす天使のむれの “王国” のものがたりとして両作が1冊の書物におさめられるべきときにほかならない。ベストセラー作家の筆名も万事終了の音につうじそうで、すがすがしいほど逆説的なユートピアにふさわしい。いっぽうでアイドルが演じるTVドラマのくそ芝居のようなリアクションをくりかえす話者には、ラオウの天将奔烈やケンシロウの夢精転生をあびせたくなる。それにしても書けば書くほど紙文作品がどんどん闊達になっていって、カラオケなら高得点につながりそうなクォリティをほこっているのはまちがいない。そろそろ圧倒的に不利なネタのもとで潜在能力をしぼりだすような作品を、うたえないキイでうたうような逆にご自身がやぶりすてたくなるほど不自由な作品を、しどろもどろで書いていただきたいともおもう。アンダーフロウな世界にうってつけの書き手だときめつけて、つぎの至乙矢氏につなげる。

 

 

 

ღ グループD

「オーバーフロー/A」至乙矢氏

 

「墓場軌道」から注目している。このたびも、うまい。いつか至乙矢氏の博識が、わたくしの既視感をうわまわった作品をしあげてくださるような気がする… したり顔でAはアキオくんだろうなどといったら、さむいだけかもしれないのに書かずにはいられなかった。

 

 

 

ღ グループE

「prey and pray」Takeman氏

 

 よみごたえは、いちばんだった。ただし一撃一撃のダメージや痛みとともに既視感が、こちらの意識におしよせてくる。むしろ本作は書き手が、みずからの精神にきざみつけようとした墓碑にちかい内声にみちたもののような気がしてならない。とびちる血しぶきは、ワイン… ひしゃげた顔の肉は、ステーキ… なぜかフィレンツェで肉汁がしたたるビステッカをほおばりながら、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノをかたむけたほどに甘美な読後感がある。ほどよい詩情が既視感からたちあがるのは、はたして本作の美点ゆえか弱点ゆえかとかんがえあぐねる…

 

 

 

ღ グループF

「クロージング・タイム」ケイシー・ブルック氏

 

 ちかごろ原稿用紙6枚の小説なら、ほぼ3分間でよみおわるようになった。はじめの数行でこれは無用なりと判断したものを除外しながら、したがって1時間もあれば全グループを完読できる。うわすべりしているほど饒舌なかたりくちのものがおおいなと今回はいささか閉口したが、さすがに自身の “声” をもつケイシー氏のそれは底光りしている… ひとめをひくだとか尖鋭だとか巧拙だとかとも、それはちがう次元の問題のような気がする。とどのつまり自分の “声” をもたぬかぎり書き手は、フォークナーの仮面をかぶろうがボルヘスのものまねをしようが押切もえになろうが、わざわざ小説をつづるべき用もないのだ。ネット上にそんな無用の星くずがちりばめられておるなと感じた師走の第1土曜日のひるさがりが、マンスリィ・イヴェントのわがクロージング・タイム…

 

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Gerstl_-_Die_Familie_Sch%C3%B6nberg.jpg

 

 

 

 

略人疏註 :第2回 <文藝擂賽>

 

 

  

 

✍ はじめに

 

彼女のあそこが眩しくて(一徳元就師)なる神代煽情文学®から原稿用紙6枚の小説にたいする不感症にさせられて、いまも恢復のみこみがない。なにがどんなふうに書かれていようが、ぜんぜんOK☆ぜんぜん感じませんの巻。ねらっていた女の子のなにげない表情から、とつぜん自分の父親とか弟とかに酷似したものがみえはじめて、いくにいけない懊悩にもつうじる E. D. 感☞「吉美駿一郎 vs ハギワラシンジ/レフェリー紙文」のおもむきで本稿をすすめたくても E. D. げんなり病のそんなこんなでパッションはわき勃たなくて、さなきだに未読の吉美作品は毎度のごとく大伽藍に比すべきものではあるまいか? 「幻の魚」は数日まえに読了して日本語につばさがはえた作品だとわかっているから、いっぽうは読者がことばをさしはさむ余地すらないかもしれない堅牢無比のしろものなら、もういっぽうは読者がことばをはさむのが不粋におもわれる作品というわけで、いずれにしろ難儀なものよと歎じつつも感想はのべさせていただくって約束しましたからね… 

 

全体を読んでもらえる筈という創作上の前提が、既にプロとしては甘い。自動的に先へ先へと進んでいく音楽や映像作品と違い、小説は受け手が読むことを面倒に感じた瞬間、いったん終了して、そこまでの作品となってしまう。

 

 ついさきほど紙文氏のRTで眼にした文章だが、ひるがえって自分がくりかえし賞翫して倦じない名品は逆になぜ自律的にすすんでゆく音響映写にちかづいて、なぜ美酒のように自然にうっとりとさせてくれるのか? わたくしにとっては五味康祐柳生諸篇などがその名品にあたる… まずはこのあたりを該当の名品から、いったんは対岸にもどって再考するなら、とりもなおさず初見の作品は未知のことばの羅列でなりたっている。それらを苦心惨憺のすえ咀嚼して解析して読了したあかつきにうかびあがる全体像から、なんだ過去にいままで何度もくりかえし表現されていたことが、ここにも書かれていただけじゃねーかという幻滅や徒労をあじわいつくしてきたことに気がつかされて、ひゃっぺんどころか千篇万篇のそんな徒労や幻滅にみちた読書体験からすくいあげられた稀有なものゆえ名品はおのずと音響映写にも美酒にもちかづいてみえるというもの…

 

 もっとも上掲のRT文章はおめーらの作品がつまらなけりゃ数行でほうりだしてしまうのが読者だぜ世間だぜといっているのだろうが、ほうりだされまいと1ページめから商品化につとめる作品もかえって底がわれて興ざめだし、「あたらしいことにガンガン挑戦していきたいです」というアイドルのせりふとおなじくらい<新作>にいまや猜疑のまなざしをむけるばかりな読者もすくなくないのではあるまいか? やぶれたらこまる下着やなくなってこまる惣菜などは量産しなければならないにしろ小説はわが家に10冊もあったらうんぬんかんぬんとつぶやく E. D. げんなり病の読者が、ともかくもそんなこんなで吉美作品をひもとく… さいごにブンゲイというカタカナやBFCの3文字は、なじもうとしても1年ごしながら肌になじまなくて、どぎまぎしちゃうから文藝擂賽なんて書きかえてしまって、ほんとうにすみません。 

 

 

 

 

「盗まれた碑文」吉美駿一郎氏

 

とりあえずマヤ文明に紙は無かったのではないかと思った」じつは本作をよむまえに紙文氏のRTで加藤晃生氏のさまざまな指弾をまのあたりにして、おそろしや加藤先生!!!! ならぶものなき博覧強記にいたく感心させられたが、「紙は無かった」の6文字をわたくしはうかつにも無文字文化というふうに誤読:「マヤ/聖典」の2語でGoogle先生におたずねするところまで未読の段階から別方向にめがけて驀進すると、ポポル・ブフなる聖典にたどりついた。あと2、3歩ふみこんだら真偽はさだかになるともおもったが、「どっちでもいいじゃん」という内心の声がそれと同時にこだましはじめた。アマゾンのジャングルの葉っぱの枚数だか蠅の翅の枚数だかまで都内下町の書斎でしらべあげたとうそぶく小栗虫太郎ふうの虚実ないまぜもゆかしきもの。スマートフォンでだれもが検証しうる現代において小栗流のはったり芸を、こんにちの書き手がそのまま継承してよいわけではないのはいうまでもない。しかしiPhoneをもっているだけで、たいていの読者はいちいち記述のその真偽をたしかめたりしない。たしかめないからよいわけでないのはもちろんだが、「どっちでもいいじゃん」の声にはとうてい抗しきれない… ここにいたってようやく本作をよみはじめた。そして未読時にいたく感心させられた加藤先生のご指摘が、なにやら見当はずれな数箇所をつきまくっていることに気がつかされた。

 

「石板と石碑がおなじものを指すのであれば」うんぬんの加藤先生のご指摘も一読後は石板に詩がきざまれたものが石碑なんだろうし、「怪異の仕業」によって佚文にもどされたものが石板なんじゃないの? 「何の説明もなく突然3枚めの左ページで石灰岩が出てきて、壁とかコの字とかいう話が展開する。これは不親切」のご指摘にはニヤリとさせられて、さこそあらめ小栗ならここで補足の挿画をもちだす段:『黒死館殺人事件』のそれをわたくしもいまや欣喜雀躍しながら、まってましたとばかりに青空文庫さまから拝借仕候。こんな見取図をみせられたって、ちっとも読者の理解はふかまらないのに披露するのが小栗流なのだった。

 

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 「同じ人物を指すのに『王』『月の火』を使い分ける必要は無い」のご指摘には作品の風味づけでしょうなあ… おなじ作品のなかで上杉謙信のことを不識庵とか大僧都とか荷風散人のことを金阜山人とか書きかえたくなっちゃいません? 「手をあげると翡翠の腕輪が鳴った」「黒髪の波間に、銀が現れては消え、現れては消えてゆく」「皮膚を貼った碑」なんて本文の描写はラストまでリアリスティックでなおかつロマンティックでみごとですよ。ただし第九代王としか情報があたえられていないのは不満ちゃー不満ですね。マヤ文明にも〇〇王朝だとかの時代があったんでしょうから、ぐだぐだとそこは起源や縁起のうんちくをつけくわえてほしかったですし、わが小栗ならかならずや月の火にもカタカナで強引なルビをふったはずですよ… ここで年代をさだかにしなかった作者はもしや寓話化したかったのでしょうか? わたくしは寓話なんぞという深窓の令嬢みたいなものはいやです。ましてやファイトするための応募作品なら、いっそう寓話性なんて排除してほしい。ところで先生はおのれの詩句にそんなすごい魔力があったら、マヤ王から詩人が殺されることもなかったのにというふうなことをおっしゃりましたが、「死」が幽憂する詩人にとって浮世よりも忌避すべき悪所だとはかぎりませんよ。だからこそ妻の髪をなでる詩中のシーンが、なぞめいて預言的にみえるのかもしれないざんすよ…

 

 かかる加藤先生との架空のやりとりをつづけながら、はずかしいことに再読・再々読しても自分がまたもや誤読していた箇所に気がついて赤面したしだいだが、いったいどうしてマヤ王月の火は処刑するまえに詩人の両腕をぶったぎったのか? ぶち殺すなら切断は不要じゃん? 「彫琢」の2文字がつまりは脳裡にやきついて、そっちは詩人じゃなくて彫刻家だったことにさえ気がつかなかったのだ。ひとさまの作品に言及することは、のろわれた所業だとおもいしらされた。そして所業におびえきった口から、まえもって結論づけるべく本作はみごとな幻想小説だと明言しておこう。

 

スカルラッティが "Già il sole dal Gange" でガンジス川を持ち出したような素朴なエキゾチシズム喚起の小道具という可能性も無いではないが、そんなオールドスクールな道具立ての作品がブンゲイファイトクラブという文学の」うんぬんは本作の未読時にことのほか刺戟をうけた加藤先生のおことばで、モーツァルト後宮とかをひきあいにださないところがよいよなとおもったし、「それどころか(舞台は)古代の日本列島のどこか、でも良いくらいなのだ」「現代のマヤ人への仁義をどう通すか」のくだりで本作にたいする先生の言及をば完全にわたくし自身のことと混同:「紙は無かった」を無文字文化とよみちがえたゆえんだった。それというのも無文字文化圏の西域わたりの蘇我氏記紀萬葉集をでっちあげた朝鮮わたりの天孫族とのアウトレイジが秘せられたまま現代日本人のDNAにつづられているというのが、わたくしの祖国観の根柢で、いつか加藤先生からおしえをこうてみたいという冀願もよびさましたわけだが、「紙は無かった」「現代のマヤ人への仁義」などはロマン主義のみごとな幻想小説たる本作にたいして見当はずれな指摘、要求、いちゃもんだということは一読後にもはや明白だった。くりかえすが、わたくしは本作をみごとな幻想小説だとおもっている。

 

<六枚道場>なら、ここで感想はおわっているかもしれない。ただし本作はファイトするための応募作品なのだし、わたくしも本作とセメントでやりあわなければならない!!!! 「現代のマヤ人への仁義」などの難癖もあずかりしらない高次でそれは静謐にみごとに完成されている作品だからこそリング上のはげしい要求をつきつけたくもなる。くりかえすが、みごとに完成された作品だとおもう。しかしファイトするなら、おつにすまして完成されてはいけないような気もするのだ。マヤのいつの時代とも現代ともふれあうことがなく、ロマンの香気のなかに本作はたゆたっている。ヴィリエ・ドゥ・リラダンのコント・クリュエルにおさまっていたとしても遜色がないようにみえるが、『サラムボオ』『聖アントワヌの誘惑』のフローベールなら空想からでっちあげた異常なまでに精密なリアリズム世界を、ロマンティシズムはおろか “現実” をつきやぶったさきの異次元にまで敷衍させるのではないか?「手をあげると翡翠の腕輪が鳴った」の1行にさらなる過剰にいかれた数ページの描写をつけくわえたような気がする。それで吉美作品も6枚におさまらなかったとしたら、すなおに破綻すればよい。まずは原稿用紙6枚の “現実” をふみつぶす。よくできたものがたりだということはまちがいないが、よくできたものがたりを書いているばあいじゃないぞ、ファイトするんだと発破をかけたくなる。ものがたりは自己をまことしやかに表現している輪郭線のすべてに猜疑の視線をくれながら、いっぽうで輪郭線たちもその本体の<真実味>にうたがいの眼をむけている… とうぜん作品は6枚のなかに視像をとどめることができなくて、ことばはぶれてよじれて支離滅裂になるだろう。わたくしはそんな地獄のバトルがみてみたい。ファイトする相手は他人じゃない。ほかの書き手のことなど知ったことではない。なによりもまっさきに自作が “現実” にぶつかって、ロマンの幻想のなかに退嬰するのではなく、ひしゃげて破綻して、よくできた幻想小説なんて19世紀の西欧人がそれこそ在庫過多なほど書いてるじゃないか!? 「現代のマヤ人への仁義」をだれからも要求されていないのに錯乱、暴虐、卑劣、嘲笑でおしとおすような破滅作をよんでみたいと切実におもうし、「天狗の質的研究」「群」などはもっと尖鋭で狂気にみちたものではなかったか? ねがわくばファイトするための全応募作品が “現実” をつきやぶるべく破綻して欠損して膨張して歪曲して諧謔して韜晦して卑下して、ふざけきって発狂して軽薄へらへらで自爆する作品だったらよいのに… わたくしも加藤先生とおなじくらい本作にいちゃもんをつけたかたちだが、だからこそ1文1文がその作中にけっして定着することはなく、つばさをひろげて上空にまいあがって、つねに作品をだいなしにしようとする衝動をはらんだハギワラシンジ氏を推したがるのかもしれない。なぜだか毎度のごとく猛スピードでつねに “現実” の壁にぶつかって、ひしゃげて、ひっくりかえった車輛をイメージさせるハギワラ作品は、いっぽうで自身のなきがらから天使のつばさをひらひらとさせて、こともなげに時代からはばたいてゆく。

 

 

 

「小指を見つめる」吉美駿一郎氏

 

  つづく本作は、テキストにずいぶんと私的な要素をふくんでいるような気がした。インターネットに敗北した小説家なる種族のことも、なかば無意識にとりあつかわれている心理的自伝… けさ4、5回ほどの黙読のすえに脳裡にうかんだ全体像は、ミステリ+幻想小説のなおかつ内実は散文詩というものだった。 おもてむきはローレンス・ブロックやJ. R. ランズデールにならったような輪郭:「広島県南部」の設定にもかかわらず貧乏白人をとりかこむ土壤をイメージさせるし、「一九八二年七月二十八日」が誕生日でありつつも実質は50年代うまれの主人公がふさわしい翻訳調のアナログな空気感につつまれている。メルセデス゠ベンツの男なんかもまさに恰幅がよい富裕層の白人をほうふつとさせるが、じつのところ作者はこれとて共政会幹部のすがたなどをあてはめて書いたというようなこともありうるのか? 「小指をつめる」稼業のはなしといったらジョークがすぎるが、「アメリカの媒体に聖書研究についての文章を発表、原稿料で糊口をしのいだ」「それらのエッセイが彼の手による翻訳で収録された」などの説明から罪人はともかくも英語にたんのうで日本語のほうも一定水準の文章力のもちぬしだとみられる。「五人兄弟の長男で、そこそこ明るい少年時代を過ごした」

 

「彼の人生に陰りが生じるのは」うんぬんから彼はまさにその人生のスタート・ダッシュをきることになるが、「弟が死んだのに何も感じない」おのれの空洞性をまわりに転嫁しながら、まわりにもその空洞性をおしひろげてゆくしかなかったのは、そもそも宗教売文業のこの男がことさら空疎な25年の半生をすごしてきたせいではないか? 「ベンツの持ち主、弁護士、弟の同級生三人」はみんな弟がそこで蹂躙されて、もがきながら、とびおり自殺でのがれさった生き地獄にかかわる連中といってよい。もっと端的にいうなら弟の生死のなかに包有される人間たちだった。まちがっても兄たる彼の人生からとびだしてきた連中ではない。さらに両親にしたって弟の自殺とともに弟の人生が所有するものにかわっていたから、あやめたのかもしれない。アメリカの媒体での寄稿をなりわいにしてきた男は広島のどこかで自己をむなしくしながら、よその国のことばで稼業をこなしつづけるライティング・マシンにすぎなかった。

 

 およそ信仰者は紀元前から無限に四季をくりかえしてきた循環型時間と、イエス゠キリストの磔刑から信仰者みずからの “現在” まで運命的にのびてくる直線的な時間とを、ふたつながら同時に生きていることになるが、「本当の私と尾道秋をつなげているのはただの偶然です。わかってもらいたいんだけど、本当の私を見つけたら永遠の生命を得られるんです(中略)たとえ肉体が滅んでも本当の私は生き続けることになる。つまり、永遠の生命を得るためには、本当の私を見つけなければならないってことです。私は私を見つけなければならないのにそれを盗む人がいる。だから私は、本当の私を盗んだやつらを殺しました」の告白によって彼は循環型時間を “偶然” とよびならわしながら、からっぽの自分に気がついたとたんイエスからのびる直線的な時間をさがした。そして火中からひろった栗のような信仰を永遠の生命だの精神だのと称揚しながら、むりやり直線的な時間のその軌道にとびのるために数人を殺害のやりかたで排除したことにもなるかもしれないし、「偶然のない世界はキリスト教でなければ生れなかったとする、黄金時代のミステリ論。第二次大戦後、偶然が存在するようになった世界で、それでも悲劇だけは偶然以上の力が働くのだと提示したロス・マクドナルド論」をこれまで空洞゠無信仰のいわばライティング・マシンとして書いていたにすぎなかった男が、たまさか弟の自殺でようやく内部の空洞にいれるべき信仰をみいだしたというプロセスにもつうじないだろうか?  「弟が死んだのに何も感じないのは」ほんとうの自分がぬすまれたせいだといって連打する倚音のもとに弟にちなんだ人間たちを殺しながら、とどのつまり彼自身がなき弟の人生をぬすんで、イエスからつづく直線的な時間のその軌道にとびのったようなかたちとはいえないか? 「彼の頭はしびれた。ベンツを買う金などどこにもないというのに」

 

「投獄されて十二年目の夏」にみられる省略は、もとより枚数制限から要請されたものとはいえメリメの短篇のようなセンスが光る。ところで信仰の圏外で定義される精神は、おのれの肉体をかたちづくっている原子のエントロピーに反撥する無数の蜂の翅音やさざなみのようなものといえるかもしれない。そして世界にはやはり世界をかたづくる原子のさざなみがみちていて、ひとりの人間の死後はその精神も世界のさざなみのなかに還元されるだけのことだろうし、まちがっても死後に1個の精神がそこにのこるとはおもわれないが、「神」を信じる精神にかぎって残響しつづけるのか? 「延長コードは誰のもの」でひきあいにだされる萩原朔太郎散文詩には自己をくらいつくして消滅したあとも不可視の存在として生きる蛸がえがかれていた。それは精神よりもなにか妄執や怨念にちかいものだった。ところで罪人のこの短篇を所収しつつ上梓された書物の同総題には別してクェション・マークがつけられているところは芸がこまかいし、「死なない蛸」によって罪人をとりまく言語もようやく英語から日本語にうつった印象をうけるもののアメリカのローカルな空気感はきえていない。マット・スカダーの哀愁のままに幕をとじることができたらよいが、「尾道秋」は80年代のうまれで刑務所の “現在” もどうやら2020年らしい。オールド・ファッションのハードボイルドには似つかわしくないネット回線が、アナログのうしなわれた地平にも無粋な延長コードをのばしていた。

 

 こんにち読者の声がスピーディに書き手の耳にとどけられるSNSなどは利便性にみちたものだが、いっぽうではその利便性というか日常レヴェルの短絡的な結合によって書き手の機能をおそろしく退化させる宿命もはらんでいる… たえず端末画面をのぞきこんで、イヤフォンで耳をふさぎながら、ゆきかう雑踏のなかでも自分のちっぽけなエゴに閉塞する “現在” のひとびとをながめていると、うまれつきの機能とか触覚のひとつやふたつは退化させられているだろうと感じてしまう。つながろうとするまえから短絡的にネットで読者とつながっている書き手は、アナログだった時代のあの孤絶された個が生きたまま外界とつながろうとする書き手からはなたれた精神のエネルギーをうしなっているかもしれない。ネットの進化のぶんだけ小説そのものはむしろ退化したかもしれない。ネットに小説は敗北した。ネットは刑務所さえも孤絶させておかないで、そとの世界とむりやりコネクトさせてしまうだろう。だから小指をたべるという行為が、みずから外界とつながったアンテナをくいちぎる小説家というアナログの種族のいわば無意識における反骨のあがきのようにもみえて、すがすがしい。うまれつきの触覚をネットから退化させられて、うしなってしまうようすを小説家そのものが、あるいは被虐的にえがいた文字どおり精神的去勢゠最期… もっとも作者の吉美氏がまるきり意図していないどころか見当はずれもはなはだしいところからの感想かもしれないが、「歌声が消えてしまう間際。目覚める直前に忘れた夢。残照。それらに似た何かが」には作者の心理的自伝がぬりこめられた文字どおり散文詩のふんいきが濃密だし、「独房を通過すると、新人は己の小指を見つめる。もちろん毎日。一日も欠かさずに」の散文詩のおもたさから脱したような循環型時間の1行でしめくくられているところにも名匠のわざをみるおもいがする。そして名匠がつねに名匠のわざをみせる吉美作品から感じはじめた一読者のいらざる懸念については、あくる月にでも別稿で書きつぐことにしよう…

 

 

「幻の魚」ハギワラシンジ氏

 

 ここから眼をとおしはじめたハギワラ氏ご本人は、おそらく記述を理解しがたいとおもわれるので、お手数でも120行くらい手まえからなぞって、ここにもどってきてほしい。すると貴殿の小説のことばは不確定性にゆらめきつづけて、つねに失敗作におわるか空前絶後のしろものになるかの境界線でぶれているとみなす読者がいることに気がつくであろう。このたびの作品も、ことばのひとつひとつが蜃気楼だよね。しかし読者があまり作中にことばをさしはさもうとすると、かえって化学反応をおこして霧消してしまいそうな気がするので、ソーシァル・ディスタンシングですが、「竹みたいな甘い匂い」はいいよねえ… はなれぎわにアーネスト・ホーストのハイキックが、スコ~ンとこちらの後頭部にのびてきたような気がする。エスかっちはエスカルゴなんだろうなんて確認しちゃ不粋なんだろうし、「ワシ」かにカニかに? 「水死体から死だけ取り除いたみたいで」もばつぐんだな… いけにえからえぐりだされた心臓が、カニ神のための祭壇でぴくぴくと痙攣しているような作品だった。

 

 かつて日本の芸術表現にいちどとして前衛なんぞというものは存在しなかった。ものまねばかりだった。ダダにしたって日本のダダイストは、ダダっていってパリやベルリンでこれは芸術的にみとめられたものなんだよ的にカッフェーの女給をくどく目的でやってただけだろう、ば~かとゲスのかんぐりをしたくなる。だれもが小説を書きはじめるまえから商業主義やネットの劃一主義に屈服してしまっているような現状で、シュルレアリスムをおしとおせる人間はえらばれた書き手だとおもう。そしてハギワラ氏の自動筆記はむしろ長篇むきだと何度でも主張しよう。おもいつきの6枚じゃだめだ、パルテノン神殿のようなスケールのために自己のことばをふるいたまえ!! 「地下鉄はギリシアの神殿をめぐる帯状装飾(フリーズ)の精度と速度とではしりつづけた」Le métro filait avec la sûreté et la vitesse d'une frise autour d'un temple grec. わたくしはジャン・ジュネの長篇のかかる1文を、ハギワラ氏にささげたい。もしも吉美氏の構築的な作風が、ハギワラ氏の文章でつづられたら、ファンタスティックになるんじゃないかとも夢みるが、 おびただしい神殿の装飾が、ファザードや柱廊のなかに定着しないまま乱舞・繚乱しつづけるような奇観… 「ケトラルカ」がパルテノン級に巨大化した作品を、わたくしは待望する。ただし会社はやめないほうがいいような気がする。ストレスが貴殿をくるしめればくるしめるほど詩境もたかまってゆくとおもう。

 

 

 

「夜Vェ啼く無け、夜ル穢リ」ハギワラシンジ氏

 

 ことばそのものの楽劇のために、いっさいをなげうつ。なかなか一般の小説家は、ここまでおもいきれるものではない。パリ゠シャルル・ドゥ・ゴール空港の滑走路からフライトするさいの蜃気楼が、ことばからゆらいでいる。そして蜃気楼がつぎの瞬間には、アンダルシアのひまわりの丘にすがたをかえて、ひまわりはなおかつ視界のいちめんで炎上:「#恣意」のハッシュタグとはうらはらに火焰のその軍隊が、われわれのほうに理づめの布陣でせまってくる… めらめらともえたつ歩兵や金将によるAI将棋を、イメージさせるほど本作は精緻で構造的にめざましい進歩がみられる。はたしてそれはいかなる構造なりやと詰問されたら、こちらの脳裡にこだまする弦楽5部のハーモニーとは逆行した4管編成のオブリガートが、はらわたからこみあげてきそうなヤナーチェクふうのうんぬんかんぬんと適当ないいぐさでデクレシェンドするほかはなく、かわりにM*A*S*H氏にそのあたりを講釈していただこうとおもったら、ごらんのありさまで気絶させられそうな木曜日のあかつきだった。

 

 

 

 

「わたし せつなの 穢クレール」には、わが師たる松本隆の神韻:「わたし裸足のマーメイド」を呼応させたくもなる。のっけから、ひびきがたかい… ここには凛として時雨などというバンドの “音” もにじんでいるのか? わたくしに粘着したがるキャバ嬢が愛聴していて、いまだに鳥肌をたてずにこのバンド名を耳(眼)にすることができない… なみだいっぱいの両眼で、こっちの水で炊く米は内臓もはきだしたくなるほどゲロゲロだべとか、ひとの体臭はゲロゲロなのが9割でほおずりしたくなるのが1割ぜよとか、うなじの汗のにおいがベストでごわすとか、あんだれぱとかレズも同居したがる男がクサとか、やヴェーなくなけじゃけんとかリスカっちな手くびの鮫肌でさけびながら、わたくしの右手にいつも500円硬貨のおこづかいをにぎらせて、かしてやった刃牙はぜったいにかえそうとしないキャバ嬢からライターになった美女をおもいだすたびに凜として、ハギワラ氏のこのたびの作品の厳密さもひときわ身にしみるというもの…

 

 ことばそのものが、ことばを胚胎した瞬間を、ハギワラ作品はつねにその受胎告知を、うたいあげているような気もする。ことばは内臓から文脈をたちきられる。すると花の茎のように截断面はあらたな “音” をのばして、ひとびとが生きるための方便とはことなる文字どおり異次元にあらたな文脈というか音列をむすぼうとする… われわれの3次元とは隔絶したところに異次元があるわけではなく、われわれの世界とむしろ異次元はおりかさなって存在するものかもしれないし、それを知覚するためのシックス・センスとまさに新言語とがゆらめいている滑走路を、ハギワラ作品はつねに疾駈しているようにもおもわれる。そして作品があらたな文脈をかたちづくる異次元では、ことばから火焰の花のひらかれる瞬間が、ひときわ厳密な論理にもとづいていることも予感させられる。ちなみに前半#Amの韻文はゆっきーなうんぬんの姑息なたてよみになっていたら興ざめだなとおもったが、さすがにそれはなさそうだった。

 

 ひとの脳髄だとか感受性だとか想像力だとかは、ことばにとってAIの代用品にもならない。ことば自身がことばの誕生をうたいあげて、ものがたりをつむぐ。ことばの火焰が、ネットの石版にあらたな神託をきざむ。いたって厳密な語法で、はじまりの瞬間゠予感だけが記録される。おわることがなく、つねにはじまる。ハギワラ作品に刮眼させられたのは、おもえば1年まえのいまごろだった。よみなれない原稿用紙6枚の小説というものが、じつのところ既知のものがたりやぽゑむのエッセンス/コラージュばかりにみえて、いまいちだなと感じていたおりから破滅派でみつけたホーミタイうんぬんの短篇にうならされたことを記憶しているが、ことしの本イヴェント中もそんな感慨はかわらない… あとからふりかえってみると、ふしぎなことに重要な作品ほど選考からもれているばあいがおおい。マーラーもウィーン音楽院のベートーヴェン賞には落選した。ラヴェルバルトークなどの実験作/野心作のかわりに作曲コンクールがどれだけ凡庸な音楽に栄冠をさずけてきたかは後世の眼からみると不可解きわまるほどで、ウェーベルンやベルクに音楽教育をほどこす身になってからも、ベルリンの音楽雑誌のコンクールに応募しつづけていたシェーンベルクの作品にしたって毎回落選だった。もの書きでも○○賞受賞者のひたいにやきつけられるものは、およそ凡庸の烙印だけではないかと猜疑をふかめてしまう。プルーストも新聞の投稿マニアだった。コーヒーをのみながら朝刊をひらいて、また落選かよとこぼすのは長篇のなかの名物シーン。パリで気鋭の同時代人たちがつぎつぎに小説を書いて刊行して文名をあげてゆくなかで、プルーストだけはフォーブール・サン゠ジェルマンのながいながい無為(ひま)の生活のなかで小説とはいったいなにかを、ときにステマもまじえつつ黙考して探求しつづけていたのかもしれないが、あらたな価値をかかげる一派を、ハギワラ氏もいずれ自身でたちあげたほうがよいのではないかと作品を読むたびに感じる。そしてアンドレ・ブルトンⅡ世になったあかつきも、わたくしのことは教団から破門しないでくださいと哀訴しておく。

 

 

 

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「ナクシカク」紙文氏

 

「さっきから、ナンパのはなしばっかだね」

「ほかにしゃべることもないですから、ぼくなんて」

「すきな作家は?」

「ゴンブロヴィチ」

「じゃなくて、ほら最近の日本で」

「いるわけないじゃないですか」

「じゃあ作家としての目標は?」

「猿のオナニー」

「は?」

「死ぬまで、カク」むかし新聞文化欄の取材でそんな抱負をのべて、ぜんぜん記者が真顔だったことを、たまさか本作の一読後におもいだした。おはようございます、こんにちは、こんばんは、ただいまの日時10月31日(土)午前7時58分:「魚のいらない水槽」をよみすすめながら、いたく感心したのも、はや1年まえのこと… ふだんSNSでアニメ画像を眼にしただけで首のまわりにダニがはいまわるような突発性のかゆ~い忿怒にかられる類人猿のわたくしでも、あれはよい作品だとおもった。そして1年後の本イヴェントにもあの手のものをぶつけてくるんじゃ? いくらだって同列作はくりだせる書き手なんだろうともおもったが、「ナクシカク」のストレートな世界観できましたよ。でもストレートっていったら、いくぶん語弊はあるんだろうな…

 

 ぱっとみて、ウェル゠メイドとみまちがえる。いやいや、ウェル゠メイドなんてカタカナをもちださなくたってよい。とりわけ父親との公園でのやりとりは、プロの流儀。エコノミックな書法とそこから最大限にもれだす情報量とに集中するヌーヴェル・キュイジーヌの腕まえをみせながら、たばこの哀愁、「その話、ママにもしたのか?」の距離感、「詭弁」のニュアンス、「小山内」先生のその苗字にも思春期圏内のありようが暗示されているようにみえて、カクヨムとかアクセスしたことはないけど、いまどきはこんなふうに投稿者がこぞってプロ流なのか? 「定規の先端で河合さんの背中を、そっと、つついた」もエコノミックな性的譬喩:「定規」から天使の王子くんの時空にクォンタム・ジャンプしそうにもおもわれるが、「背中にこびりついた」スパームの冒頭の5行だけが河合さんの視点か? 「駅のくずかごにさっさと捨てた」のドライなふるまいと後段の彼女がなみだをながしていたらしいという伝聞とがちぐはぐしそうな気もするから、やっぱり1年まえに話者<僕>がうしろの変態男からスパームされたのか? <俺>がリビドーとともに自我からわきあがって、オスのむさくるしさが1年まえのその恥辱とともに中性でありたい王子くんを嫌悪させるのか? かってに王子くんにしちゃったよ。

 

 もてる技倆で腕によりをかけて彫琢された作品だとわかるから、ジャッジがどれほどの見識をほこるものかリング下でみとどけたかったな。そしてM*A*S*H氏とともに本期間中もめざましい活動をつづけていらっしゃる比良岡先生による6枚で昇華しきれていないというご意見には、ノンをつきつけておく… これ以上になにを書けというのだ!? 『コージ苑』収録4コマまんがの1作をおもいだす。ナイーヴそうな男子中学生が、おまえもオナニーしてんだろと教室で友だち数名からたずねられる。しないよと彼は首をふる。うそをつけ、しないわけないだろと友だちはいう。しないよ、ぜったいにしない、するもんか… さいごのコマの彼は自分の部屋でいつもどおりオナニーしながら、ああそうだよ、どうせオレはうそつきさと片手でスコスコやりつつ威風堂々とひらきなおっている。きっと紙文作品の<僕゠俺>も数ヵ月後にそんなふうになって、うすよごれて、ジェントルマンになってゆくんだろう。やっぱりストレートな作品だった。

 

 これまで紙文作品をよむと、きまって回転体がちかづいてくるイメージをいだいた。ちなみに上半分と下半分とが、べつべつに時計まわりと反゠時計まわりとで回転する球体兵器… こちらは上半分ばかりに集中して格闘していると、かならずや下半分の回転から邀撃される。アンビヴァレンツが、はなはだしい特徴の書き手。これこれが正義だ、ただしいのだーということは、ぜったいに主張しない。こんなストーリーが展開しているといいながら、べつの口がそんなことはいっていないと否定する。ジェンダーもはっきりしない。だいいち書き手がいまだに男性か女性かもさだかではないし、「顔をもたない」状況にここまで成功している書き手は、たとえネット上とはいえ稀少。あくる年にむかって氏の執筆活動に、それでも微妙な変化はみられそうな気がする。

 

<六枚道場>はさまざまな趣味趣向をもつ書き手がさまざまな趣味趣向の作品をもちよって、はじめの数行でひきつけられた読者はよみすすめて感想もつづって、はじめの数行でいやになったら逆にほうりだすのも自由だし、わたくしのばあいSNSの投票機能でとりわけ毎度のごとく自分の趣味性の大敗北をまのあたりにして呵々大笑することになるわけだが、さまざまな趣味趣向をよりあつめたとはいえ第9回までで日々匆々におなかいっぱいになってしまったきらいもある。かといってサイト上にそれぞれの作品を掲載する掲載しないの選定がはいったとしたら、こんどはそこに自分の趣味性とかぶる作品がゼロになる可能性もなくはない。やりたいほうだいのゆきつくさきが不感症なら、えらばれたものの陳列もまた冷感症の寝褥… よいものは万人の好悪をこえるというのは真実味がありながら、んなことたぁない(byタモリ)かもしれなくて、だいいち万人がその好悪をこえて感心しそうな上空の普遍地点がそもそも存在するのかどうか? ひとまずは1億作をふるいにかけて1作がのこる100年後の文学史の選定をまつしかあるまい。ノーベル賞作品もそこでは出版業界のバーゲン・セールにすぎなかったことが、おって判明するだろう。あくる年に氏の執筆とともに同サークルにも変化がみられるのかもしれないと意識しながら、さいごに以上の蛇足をつけくわえた。

 

 

 

ЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ」摩衆楼蘭

 

 さて紙文王国を隠密して、しばし蠢動のけはいもこれなしとみさだめながら、ふるさとの柳生庄にきびすをかえすため国境をまたいだあたりで袈裟がけに斬りかゝるものあり、あわてゝ身をひるがえせば当方のぶっさき羽織も藺笠もきりさかれて、みれば20人30人ばかり左右に必殺の衡軛陣形をかたちづくる摩衆の影ぞ曠野にあり… そもじ休日のひまをあかして、ひとが書いた小説をあゝだこうだとあげつらっておるが、どのみち鳩の糞ほどの文学的素養もないことは詩をおそれるあまり詩にちかよらずビゞりまくりに虚勢をはって詩や短歌に興味がないなどの公言をはゞからぬあたりに明白だわと摩衆の領袖楼蘭のいひけらく、ひとさしゆびの爪から弦のようなものをとばしてきた。こちらはそれを腰の長刀で斬りはらおうとするも斬れるものではなく、ぐるぐると刀からすぐさま胴体にまきついて身うごきもとれぬ仕儀となりはてぬ。はッはッはッはッ呪縛呪怨の暗殺陣よ、くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… さびた領袖の声とともに頭上のいちめんに毒ぐもの巣がはりめぐらされた。

 

 かねてより摩衆氏は小説がものごとをむだに饒舌にかたりすぎるので小説をきらうと公言されている。その段でゆくなら、ムージルプルーストなどの手あたりしだいに自分のまわりにある有形無形のものを言語化して散文化する大長篇は、とりわけ今後はますます不要なものとみておられることだろうし、『蜻蛉日記』『源氏物語』などとおなじくウィーン/パリ御両所のその無類に複雑な長文は、じつのところ当方もこのさき商業小説、ゲーム、アニメ、SNSの単純語法になじんだ若者が、おそらく賞翫することはおろか解読することさえ不可能になってゆくものだろうと危惧している。

 

 わたくしは現代日本語で詩は不可能だとみている。みじかい詩句を横にならべてもそれは文章を横につらねただけのこと、ボードレールマラルメソネットと同日の談ではない。アレクサンドラン、半諧音や畳韻法などの諧調、アレクサンドランにおける六音綴の擲置などというバロック音楽におけるフーガやパッサカリアにも匹敵する精緻な技法/形式で聴覚から視覚にうったえかけて、あまつさえ味覚にも陶酔をおよぼすような西欧の詩法や言語機能もそこにはないのに、のっぺらぼうで機能がとぼしい現代日本語にはそもそも不可能な大仕事… もっとも定家卿のころのそれなら、アクロバット技もなしえたかもしれない。しかし現代日本語には、つばさがはえていない。こんなものでつづれるのは童謡かアニソンくらいで、 せいぜい相田みつを潮田玲子にでも未来をたくすしかあるまい? およそ8年まえに以下の拙文でもとりあげた中村光夫による日本詩断罪が、わたくしにとっての鉄則にもなっている。

 

 

 

 

 どのみち日本人にも日本語にも前衛がなしうるはずがない。おっとりおだやかで、まんがやアニメの流儀でこのさきもゆくのだろう。つねに現実のもとに隷属・定着するアニメの人物画の輪郭線は、わたくしからみたら認識の抛棄以外のなにものでもない。アウシュヴィツ以降の<野蛮>発言をのこしたアドルノが、アルバン・ベルクの弟子だったことに注視しているひとがどれだけいるかはわからない。ツェムリンスキイや師ベルクの多調性および無調の音楽についての論考はそそられる。アドルノのその<野蛮>発言は、いろいろといいかえることができそうな気もする。ランボオロートレアモンシュルレアリスムの自動筆記によって詩の可能性はとことん追求されて、うちあげ花火のように詩はそれで消滅した。それ以降に詩を書くのは野蛮だ。そして自動筆記やバロウズのカット゠アップの範たるランボオのことばの錬金術を音化したロバート・フリップの黒魔術:「キング・クリムゾンの基本的な目標はアナーキーを組織化すること、カオスの潜在的なパワーを活用すること、さまざまにことなる影響を相互に作用させながら、それらが有する均衡を発見すること」が後期クリムゾンの実践をへて "RED" で破綻というか敗北したことを推理するなら、クリムゾン以降にロックをやるのも野蛮だ。ロバート・フリップが世界にあと10人くらい存在したら、ロックも21世紀をむかえるまえに12音技法的な破綻をむかえて、はやばやと消滅:「大量生産/大量遺棄」の侮蔑をフリップ卿がなげつけた現在のポップ・シーンのていたらくを眼にしなくてもすんだのではないかとおもうこともしばしば…

 

「かたりすぎる」小説をきらう摩衆氏も、しかしながら詩をきらう当方とおなじく内心ではじつのところ日本人や日本語機能にみきりをつけているのではあるまいか? くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… そんなこんなをかんがえているあいだにも毒ぐもの巣が頭上のいちめんにはりめぐらされた。わたくしに現代詩など解読できるはずがない。しかし解読というか黙読して毒性のことばの糸をほぐしてゆかないと、いのちはない。というか詩にいのちがあるものと現在のこの瞬間はみなさないと、ほかでもない摩衆詩にがんじがらめにされて、いのちをうばわれてしまうから、ふりかかる1語1語をひとつずつググってゆくが、まず詩の標題は曲名:「閃輝性暗点」はぎざぎざにみえるやつ… つぎのページは右にすすむか下におりるか? どちらでもよいところがゲーム感覚でおもしろいぞ、とりあえず右☞「ロバート・ジョンソン」も初耳だったし、「エイフェックス・ツイン面」ってやつは摩衆氏がtwitterで紙文氏をおどすときに行使するやつか?「グレイマルキンパドック」はマクベスゆえに綺麗即是蕪穢… 「D4」「E4」「C4」「C3」「G3」は音階? 「未知との遭遇」はみたことがないからわからないし、「諸星大二郎」は光GENJI!? なんだ、なにもわからない!!!! くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… くもの巣でがんじがらめにされて毒殺されるすんぜんに、しかしながら紙文王国から流星のような1本の聖剣がとんできて、またたくまに摩衆暗殺陣を斬りふせた。「わからないといえることは、すばらしい」

 

「見者のてがみ」を書いたランボオのように詩を書くひとびとは、そとにむかって積極的にどんどん自註自解してゆくべきだとおもった。あさぬま氏がかつてtwitterでおっしゃっていたような気がするが、つねに詩とその自解とを現代アートさながらセットで発表してもよいくらいだろう。もちろん解説からその詩を理解するような読者は、おなじ詩にけっして感動することはないかもしれない。わかることと感動することとはちがうが、すくなくとも美学的な欲求から詩人のその作品をこのさき必要とする人生をおくることにもなるかもしれない。それゆえ摩衆氏も本自由詩の自解をnoteに掲載していただけたら、つたない本稿にたいする返答はおろか過分な報奨にもなるところですし、うれしさを禁じえないところでもあります。

 

 

 

 

 ひきつづき本作品にたいする言及からはじまる日曜日の朝です。おはようございます、こんにちは、こんばんは… ただいまの日時11月8日(日)7時44分:「コロナ禍救済と深読み」はほんとうにそうだろうか? 「あなたの生命に そっとキスする」の冒頭句からさらに終結の反復:「あなたの生命に そっとキスする/コロナ・ウィルスに罹ってもいい」までコロナ禍がにじんでいることはあきらかだし、「HIV感染症エイズと呼ばれていた頃/はずかしいけれど あの頃は セックスが怖かった」にはとりわけ自身のキャンパス入学式をおもいだして共感させられた。というのも大学から配布された厖大な資料のなかにエイズについての小冊子があって、たいくつきわまる入学式のとちゅうでそのページをめくりつつ絶望:「あてはまりませんか?」の疑問形につづいて箇条書きにされた行為や筋肉痛うんぬんの症状がいくつも自分にあてはまるような気がして、エイズじゃんよーの絶望で希望にみちたキャンパス・ライフの幕あけも闇黒… なきじゃくりながら保健所に電話して、はなしをきいてくれたおばちゃんから平気よ平気、みんなそんなもんよ、かんたんにうつる病気じゃないのよと説得されるまで日常生活にもどることもできなかったわけだが、そんなこんなを本詩作品をよみながら追憶しましただなんて書いたところで意味があるまい? 「コロナ禍」にたいする言及やおのれの体験談をもちだして感想文をおわらせるのは、なんだか本詩作品とのつきあいを表層できりあげるワリキリ交際のようにおもわれて気がひけたしだいだが、「素晴らしかったです」という比良岡先生のひとことが衝撃的すぎて、いまさらそんなこんなもどうでもよくなってしまった。はなしがどんどん冗長になってきて、すみません…

 

  かくなるうえは身もふたもない本心を、とことん書かざるをえない。べつに本作をけなすとかそういうことじゃなく、つねづね本イヴェント周辺の書き手のみなさんにたいして自分がおぼえている違和感にまで言及しなければならないということだが、「素晴らしい」とおっしゃった比良岡先生はつまり詩を鑑賞することができた。たのしむことができた。しかしロック・ミュージックがうなりをあげて、アクション映画がスクリーンを鳴動させて、ゲームセンターやファミコンが電子音をポリフォニィさせはじめた時代のあとで、わたくしは詩作というアナログというかアナクロの行為が、つくるうえでも黙読するうえでも娯楽になるとは口がさけても表明することはできない。だったら音読したらアクティヴな娯楽になるのかというと、そんなはずもない。わたくしは本イヴェントの周辺のみなさんが朗読会やら読書会やらのアナログなイヴェントを嬉々として実施/実況(参加)されているさまを、いつも奇異の念でながめている… ほんとうにこんなものが、たのしいのか? わたくしも何度か都内のちいさな書店でひらかれる類似の集会に顔をだしたことがないわけではないが、「はやくおわってくれ」と念じるばかりだった。だから詩をよんで比良岡先生のように感動したり、みんなでそれをかこんで娯楽とみなしたりすることができる書き手のみなさんを、ふしぎなおもいでながめながら、あたまがおかしいんじゃないかとおもったことがいちどもないといったらうそになるし、かれらは世間からみたら趣味のマイノリティのなかのさらに小教団のようなものなのだという見地はすてちゃだめだろうし、まちがっても自分がその小教団にくわわってそれが世界だとおもいこんではいけないぞと自誡もしている。

  

 

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  もしもキーツシェリィ、ランボオロートレアモンブルトンなどが戦後にうまれかわったとしたら、ドアーズのジム・モリスンキング・クリムゾンのピート・シンフィールド、ジェネシスピーター・ゲイブリエル、ヴァン・ダー・グラフのピーター・ハミル、ロキシィ・ミュージックのイーノになりたがっても、テーブルに紙とペンとしか用意されていない詩作にもどりたいとは寸毫もおもわなかったような気がする。もっとも小説だっておなじだ。いまどきはそんなものを書くのも、しみったれた行為にほかならない。どちらにしたって、オワコン。ただしオワコンならオワコンとみなす見地からその創作に手をのばしたほうがよいとおもうし、「文学は死んだ」とニーチェのような狂人がいまこそ各国の憲法にひとこと書きそえてくれないと、なにもはじまらないような気もする。あたかも屍体を生きたものとみなして両腕であやしているのは、そいつを食扶持にしている出版業界だけだろう。まだ生きているものと夢みている書き手もいるだろう。クラシック音楽のように19世紀のそれらを骨董品やうつくしい宝飾品として愛玩している蒐集家(ビブリオマニア)もいるだろう。しかし生きたものとは、とうてい認定することはできない。ケンシロウのゆびさきが詩も小説も戯曲も短歌も俳句もゆびさしながら、おまえらはもう死んでいるといっている。そして死んだという儼然たる事実をまえにして逆にその表現の不可能性におのれの人生をかける摩衆楼蘭氏やそのほかの書き手がこれから雲霞のごとく輩出するとするなら、あたらしいものがうまれてこないともかぎらない… わたくしは詩を娯楽にすることができない。それを娯楽にできるマイノリティのみを対象にするのも、ひとつの手だろう。それを娯楽とは感じない世間にたいして詩を呈示するなら、たのむべきはやはり自註自解:「詩の四枚目は数式ではなく、意図的に文字化けさせた文章です。解読するとメッセージが浮かび上がります」などの作者によるそれはじつに興味ぶかくて、たのしみにできなくても美的欲求からそれをほしがらないともかぎらないわけで、けっきょく結論も先週とかわらなくて、おはずかしいかぎりです… さいごにご教示いただいたタイプライターでブルース・リーをえがく表現者は、ブルース・リーをえがくつもりでタイピングしているのでしょうか? だったら紙でえがこうがタイプでえがこうが結果はおなじということになりますが、もしもブルース・リーをかたちづくる1語1語がなおかつ深遠な文章をおりなしているということなら、けっきょくはそれを註釈することで世間の美的欲求もすこしは刺戟することができるのかもしれません。

 

 

略人疏註 :第9回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ はじめに

 

「月旦」をうそぶいて本サークルの発表作のみならず書き手にふかく言及する月ごとの稿をかさねてきたのは、そこで論じた諸氏のなかからいずれ表現世界の未踏の曠野をきりひらく旗手があらわれ(てほしい)るだろうという願望/予測にもとづいてのことばかりでなく、いうもはばかられる私利私慾があってのことかもしれないが、さすがに手間がかかりすぎた。やすみの日をそれにあてて疲労はつのるばかりだったし、よほどに心血をそそいで書いても周囲のいくばくかの無理解やご不興がはねかえってくるばかりだとするなら、つづける意味もうせようというもの… されば骨折損のくたびれもうけな長文を、おおいに簡略化せんとこころみたのが本稿:「疏註」はつまり俎上にのせたい作品のために余人がおもにSNS上の140文字でつづるだろう感想のかずかずを土台にして、さらにそこから解釈をあらたにしてゆくもので、かんたんにいうと紙文氏などのそれにのっかる。ハッシュタグで該当作の本質をみぬいた烱眼や卓見にめぐりあえるとしたら、まったくの無から筆をおこすよりもはるかに労はすくないだろうとおもわれるし、「略人」はわたくしのような種族にうってつけの二文字だというばかりでなく、いままでとちがって書き手そのものの詳述はさける方向性のニュアンスもつたわりそうで便利なものとみた。あとで修整するかもしれないが、「第9回」前半作品がおおやけにされた翌朝のこの時点ではともかくもグループのアルファベット順ではなく、ランダムに以下3作を論じる。

  

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ღ グループC

「未踏の日常」6〇5氏

 

「セオリィ゠フィクション」とよばれるものらしい。さきほど作者ご自身のtweetからおしえられて、たまたま第1回ことばと新人賞なるものの応募作のリンクも眼にしたから、そちらも拝読してうんぬんかんぬんと書きすすめたら、あいもかわらず冗長(文)化するのでやめておく。スペキュラティヴ・リアリスムともよばれるらしく、ニック・ランドさんがどうのと上掲のジャンルについてはググッたさきに詳述されていたしだいだが、『特性のない男』全6巻さえあれば手にとる必要もなさそうなものだなと傲岸不遜にもかんがえる。ともあれ個々の小説がまちうける運命はそうとうに苛酷なもので、いったいどれだけの数の作品が月ごとに雑誌やらで発表されて刊行されるにしても、ムージルのそのさきに到達しているものなどはゼロなのだから、むなしいかぎりだと韜晦せざるをえない… あたらしさといったら、せいぜい刊行年月日゠賞味期限のタグのようなそれにつきるというのも、あぢきなしというよりほかはない。シェーンベルク一派が呈示した難解さをのりこえられないまま破綻したクラシック音楽さながら文学も書き手のひとりひとりが、ムージルのきびしくも蠱惑的な鉱脈からおめおめと後退もしくは眼をそむけて、なまぬるい商業圏内でいまなお因襲的な情念やファンタジィの主題とたわむれているばかりなのは、かえって空疎をとおりこして唾棄すべきものにもおもわれる。

 

 膝から下を切り落とさないと行けない塩の湖が(中略)薄紫の表紙、痛い蝶番。

 あなたが吐いた息は、わたしが誰よりも多く吸った。

 

 はじめに肉感からセオリィの筆をおこすのは、アルバン・ベルクの後期ロマン派的になやましい12音技法のようで魅せられるが、"Well-being" の横文字をみて平均律 well-tempered を想起した読者はどれだけいるだろうか? 「普遍的公正さは」からの数行はまさに社会経済的な平均律にまつわる歴史描写におもわれるし、「歴史は何よりもまず平均人の歴史である(中略)天才と愚鈍、英雄性と無気力など、一切をひっくるめて考えれば、人間の歴史とは、要するに平均人が四方から受け入れ四方に分配する、数知れぬ衝動や抵抗や、特性、決意、準備、情熱、認識、錯誤のそれにほかならないのだから。平均人の中でも歴史の中でも、同じ要素がまじり合っているのだ。この意味において人間の歴史は平凡さの歴史と言ってもよかろうし、見方によっては数知れぬ歴史の平均だと言うこともできよう。そしてもし歴史が永遠に凡庸さをめぐってゆれ動かねばならぬものならば、平凡なものにその平凡さを非難するほど無意味なことがあるだろうか」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)とつづったムージルを、やまびことして行間にあてたくもなる。

 

あらゆる法則は誰かがいつか「発見」しなければならないが、その「発見」を得ると法則は時間的、空間的制約から解放される。 

 

 「というのも彼の意見では、道徳とは人間によって作られ人間とともに変化するものではなく、啓示されるもの、時間空間の中に展開するもの、文字どおり発見されうるものだったのだから。季節はずれでもあり時宜を得てもいたこの考えの中に表れていたのは、道徳も道徳を持たねばならないという要求、あるいは、道徳がたとえ人に知られぬ形にせよみずからの道徳を持ってほしいという期待、崩壊に到るまで旋回をつづける遊星の上にあるのが、空しく自転するゴシップばかりであってはほしくないという願いにほかならなかった」(同上訳)ここでも舞台裏のバンダとして行間からなりひびかせたいのは、ロベルト・ムージルそのひと… 「書きつくされた」世界でなお筆をとろうとする21世紀の小説家たちの苛酷な航海をとびまわるセイレンのつばさが、めまいがするほどの覚醒のなかに影をおとさないだろうか? ”came for you” は天啓/ことづて/法悦:「主観性は、まさに客観性と同じようにわれわれの内的本質に背を向ける(中略)たとえそれを言語で言い表わすことができないとしても、われわれの間にある一切のことは、厳密な法則に支配されているのだ。主観性と客観性との境界は、われわれがそれに触れないでその傍を動いている境界を横切る」(同上訳)お気づきだろうか? わたくしは本作を、ハッシュタグにみられる余人の感想ではなく、ムージル先生の土台から疏註したつもりになっている… ここで65氏の文章もつぎつぎに転写したら労力はたいへんなものになるので断念するが、「快楽は何も埋めない」からはじまる1文であきらかなように本作はセオリィよりも寸鉄詩集にちかいものにみえるし、「祈って跪け」のコーダに呼応させたいものも、ボードレールの以下の詩句: "dors ton sommeil de brute."(けだもののねむりをねむれ)

 

 

 

ღ グループD

「All mine」ケイシー・ブルック氏

 

「はじめからずっと狂気じみてて特に『見たことのない男』と思ってるところが怖かった」わたくしにはハッシュタグでみかけた中野真氏のこの感想の意味がつかめていないし、「一瞬、最初の段落との整合性が」の賢者げんなり氏のことばにも理解がとどかなかったが、「花びらが満開とかもう六枚道場で読めて最高」はよくわかる。わかりすぎるほどわかる。ほんとは満開じゃなく回転♡って書けよっておもってますよねとゲスのかんぐりも、おくればせながら推参: "All mine" の原曲のほうは、これまた作者ご自身のtweetでおしえられた。ポンちゃんの写真がおがめてよかった。ミカド劇場をおもいだした。いまはどうかわからないが、わたくしが高校生のころは2, 500円の入場料をおさめれば1日じゅう客席でねばっていたって文句はいわれなかった。おばあさんといったほうがよいお齢ごろの女優が、ランウェイというか小屋の舞台のうえをチンパンジィのように跳梁して、さっぱり観客はもりあがらないから逆ギレして、とんねるずのガラガラヘビにあわせて強制的にずっと拍手させるのは悪夢以外のなにものでもなかった。それにくらべて浅草ロック座は、ビートたけしがはたらいていたころなんかとはちがって洗煉されていた。テコンドーの道場のあとで何回かご利用… げんなり師匠もご来駕されておりましたでしょうか? あ、そっちじゃなくて馬場の老舗サテンドールとか? たけしや松村もかよってたんですよね、イーヒッヒッヒッ(by 山田拓美@三田二郎

 

 おっと風俗放浪記ではなかった。ていうかケイシー氏の本作はさすがに6枚でおわらせたら、だめな中・長篇タイプじゃんよー。キャラをたてたらケツの穴まで読者にみせろといったのは板垣恵介だったとおもうが、ここで寸どめはゆるすまじだから、ことのしだいを来月も書きつづけてほしいし、「キミ」もひらがなで書きなおしてほしいと読者のかってな要望をぶつけてみるのだー!! "Peeping Tom" は普遍的なテーマです。ストーカーじゃなく、おのれの性癖にからみついてゆく毒蛇のような窃視。エルロイみたいに主人公は刑事の捜査キットとかもちだして、わが家のように女の部屋にしのびこんでほしい。ホストはチェインソーでやられるヴァージョン。ポッキー責めも可。そのかわり女には、まだまだ非゠接触。あまりに変態性慾がつよいやつは、かえって迂回をこよなく愛して、コンドルのように上空をぐるぐると旋回したすえに慾望にたどりつこうとする。ホストを宦官にしたあとも、ろくでもない男にたぶらかされつづける(ばか)女を、のぞき魔トムはうらみつつも慾望増幅マシンとして尊崇しまくって、たぶらかそうとする男をひとりずつ抹殺しながら、なおかつ死後もゲロゲ~ロの拷問にかけるような展開をおまちもうしあげております☆

 

 

 

ღ グループB

「群」吉美駿一郎氏

 

火の鳥』のように書きつがれてゆく続篇を、あくる月もあてにしてよいということか? はたして男の人魚は、ブーツ船長か? あとから部屋にやってくる友だちのひとりが、それとも船長か? ひとの世の千変万化を、もしくは不変の名もなき人魚群像のかげに書きついでゆこうという連作の企図か? いずれにしろ冒頭からその冷徹な筆致にむしろ過剰なまでのパッションと狂気とがつめこまれて、クレンペラーが指揮するベルリオーズのあの手でつかめそうな音のかたまりが、こちらの双肩にのしかかってきそうな臨場感にみまわれたし、「建物を水で囲まれる新世界」はそもそも現実的な点でわたくしを不安にさせて、タワーの土台から腐蝕して瓦解してゆくじゃんかよーとおもわせたりもしたものだが、「巨木の根のようにコンクリートが枝分かれして海底をしっかりと掴んでいる」という過不足がない1文によるシーンでまさに万全の安定感がわたくしの意識をやおら根柢からささえてくれた。タワーにすまう身なので、たてものの一部になるイメージもよくわかる。しかし作品がここまで稠密につづられていたら、あとは読者がうんぬんする余地ものこされていない。ハッシュタグをわざわざ参照するまでもない… 「おもしろかった」の素朴な感慨をもらすつもりがない偏屈のわたくしは、よくもまあこんな作品をつぎつぎに書けるものだとおもって舌をまきながら、くやしがるよりほかはない。そして上掲の2作よりも言及についやした文字数がすくないからといって、それらよりも感興がうすかったわけでもないことはいうまでもないといって擱筆する。

 

 

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 ひつじやさん1年ぶりでしたね… ああそうかいといって、どんなひとも横に存続させておいてあげるのがいちばんです。ブロックとかしちゃだめ。みたいものしかみえないお花ばたけでの創作なんて書き手をちっちゃくするだけだし、どうせならSNS自体をみないくらいのほうが書き手をむしろタフ&ワイルドにするんじゃなかろうか? あっさりとしたことばで自作をほめてくるやつのほうを、むしろ刺客ではないかと警戒/自誡したい感じかも… まあそれはよいとして、げんなり師匠のこのたびの作品で、わたくしは書く機能はおろか読者としてのそれも破壊されてしまって、ほかの3作にたいする言及がそれこそ社交辞令的にあっさりとしたものに終始した。ちなみにその3作は、げんなり作品にさきがけて眼をとおしたもので、わたくしが未読のなかになお秀逸なものはいくらもありそうだったが、しばらく原稿用紙6枚の小説そのものを吟味することがむずかしくなってしまった委細も、あわせて爾余にしるす。そして後半もアルファベット順でなく、ランダムにまいります。

 

 

 

ღ グループH

「筆を失くした記述者たち」ミガキ氏

 

 えたいがしれない書き手だな、やっぱり… まだまだ奥がふかい。まだ実像をあらわにしていない。ほほえみのかげに毒牙をかくした天使のまがまがしさが、むきあっただけでつたわる。こちらがうっかり渾身の一撃でもくりだそうものなら、きばをむいて片腕1本もかみちぎられちゃうかも☆『刃牙』のピクル? かねてより天使は獣性からうまれたのではないかという夢想をすてきれないが、「獣人種」なんて耽美でぞくぞくする。ついでに信仰がないのもよい。わたくしは本作にそっくりなものを過去にひもといた記憶があるのに、しかとはおもいだせない。なんだか夢のなかで記憶をさぐるようなデジャ・ヴュと、ミガキ氏がつづる1行1行によって眼前にくりひろげられる世界の進行を、いっさいの疑念をはさまないまま眼でおうような文字どおり意識は霧がかった催眠状態… しかとおもいだせない。マンディアルグ生田耕作訳)ではなかったとおもう。ほんとうに記憶があいまいだが、『東方綺譚』『火』(多田智満子訳)のいずれかにユルスナールがつづったものではなかったか? 「柳生武芸帳外伝」と銘うたれた五味康祐の名品もおもいだす。それこそ越前の秘境にあるといわれる雲上の原始的なアルカディアに父宗矩の密命をおびた十兵衛三巌がしのびこむというもの… まあなんだってよいわけだが、はたしてミガキ氏はいままでどこでなにをしてきたのかという興味をあらたにした。

 

 

 

ღ グループF

「ひかりひかるひかれ」中野真氏

 

 たばこと車とは、もとより中野氏の世界をかたちづくる必須の衣裳/舞台のようなもので、エゴと自己閉塞とのその小劇場から内面の無限におりてゆくような様式美も、そろそろ完成の域にさしかかった気がする。とりつくしまがない無気力や倦怠のなかで口にされたはずの1本のたばこの尖端があかあかともえたつと、おもてむきは無気力や倦怠のまま作品世界も、はげしく燃焼しはじめる。リアルと、くるおしい抒情と… たった6枚のなかで、なにかがシームレスの山脈のダイナミズムをきずきあげている。なにかを、わたくしはまだ解明しえていない。ともあれ作中の祖父もまた文人だったのか信仰者だったのか遺言の執筆者だったのかのいずれの本姿もうかびあがらせることはなく、たばこを話者はなお世界とのたった1本のかぼそいきずなのように口ですいよせる。たばこは話者にことばを禁じて、せみしぐれに作中はとける…

 

 

 

ღ グループI

「墓場軌道」至乙矢氏

 

 うまい。このかたもひとしれず研鑽をつんできた書き手なのだろう。ひとの世も宇宙も無意味な輪廻でそれこそ意味゠任務がもたらされないまま運動しつづけるのかとおもったら気がめいって、いっぽうではその壮大さにわらいがこみあげてくるが、『大佐に手紙は来ない』というガルシア゠マルケスの短篇も、なぜか一時的におもいだされた。ともあれマクロにおける窮極の無意味が、うつくしさをはらんでいる。しかし意味をたえず開鑿しようとする人智のこまごまとした道具だての描写も、たのもしい。いっぽうで寿命がつきる衛星のつぎつぎと墓場軌道にとびうつってゆく無常のさだめは、ミクロの量子飛躍(クォンタム・ジャンプ)にみられるカラフルな詩情をむしろ喚起するし、「量子振動」なるコーダのことばがまさに感情や情念をこえた文学の未踏の領域にさそってくれそうな愉悦もかきたてた。

 

 

 

ღ グループG

「彼女のあそこが眩しくて」一徳元就氏

 

 いきなり人称の混在。しかし問題はない。まちうけていたもののように読者はそれを消化して、つぎの1行にすすむ。ことばのオナホ、ときおり文字どおり “挿入” される耽美ないいまわし、おそいくる粘液の火の粉… あれ、もう別作品? 「成木サトル」の語意をしばらく熟考したが、お手あげだった。このひとの講釈によって作中の秘密が、つぎつぎに解明というか牽強付会:「照美」がアマテラス、「佐野」がスサノオ、名なしの兄がツクヨミ、「まず」が冒頭に4度もきていることまで親切におしえられるが、「成木サトル」の名まえにもやはり神代からの機縁があるのか? わからない。ただ作品のおわりの地点にたちつくして、ぼうぜんとした。これまで本サークルでさまざまな書き手がさまざまな実験をこころみてきたことをあらためて反芻しながら、いっぽうでこれからはどんな奇術をみせつけられても、もはや驚歎することはないだろうということを確信させられた。ぶっちゃけ原稿用紙6枚の小説を、よみすぎてしまったのだ。よみすぎて感覚は鈍磨した。おどろきも新鮮さも、すりきれた。エロ動画をぶっつづけで1週間みまくったら、はだかの女性も着衣のそれとかわりがなくなって、ショウ・ウィンドウごしにエロをみるばかりで、エロの実体にけっして手はふれることができないにちがいない… もともと小説をあまり手にとることもない生活をおくってきたのに、ことしにはいってから本サークルで多読の度がすぎた。わたくしは本作のあとにべつの6枚をよみたいとは、どうしても慾望することができなくなった。まさに読者殺しの1作だった。

 

 ※アマテラスの実体が鸕野皇后なら、スサノオはその夫の天武すなわち新羅王族の金多遂、ツクヨミは天武の兄たる天智すなわち百済の亡命王子豊璋だと理解して、わたくしは記紀をながらく手にとってきた。もとは金官伽倻などからながれてきて、それぞれに都城や巨大墳墓をきずいた代々の首長たちが、わが国でも半島でも百済新羅にほろぼされて、さらに白村江でその百済のほうも亡国… いったんは金多遂が天皇を号したことで半島の覇者たる新羅王朝がわが国をGHQさながらに統治したが、ほどなくして鸕野皇后が持統として天武のあとをおそうと、ふたたび百済の残党がみやこを支配する。これを糊塗するための万世一系が、くるしまぎれにぬらぬらと記紀でとぐろをまいているわけだが、げんなり師匠がラシーヌのごとく神話的政治闘争をエロスの舞台として表出したのは烱眼というよりほかはない。

痩蝶月旦:第8回 <六枚道場>


 

 

 

✍ ささやかな祝辞

 

「かぐやSF」なるものに応募された小林猫太氏、中野真氏、一徳元就氏などの諸作にあたって、はたして当サークルの毎月の作品だけでこれらの書き手たちを評してよいものかという疑念にかられた。むろん前者は応募作品だけあって気魄がちがうわけだし、<六枚道場>は書き手たちの休戦時における文字どおり試撃(スパーリング)とみればよいのか? う~ん、さめてしまうな。ガチのセメントがみたい。もっともSFそのものには1㎜たりとも興味がないので本戦出場作は手つかずじまいだが、<六枚道場>の作品をこのまま論じていてよいのか? わからない。あくる月から言及がとだえたとしたらそれが結論だろうとおもいつつ阿波しらさぎ賞応募の諸作にもあたってみようとすると、わたくし個人的にこちらはいただけない。テキストから文芸誌にのっているような既存作のイメージが反照してくるばかりだった。おのれがそこの出身にもかかわらず日本の文芸誌にのっている作品や受賞作は、はじめの数ページでほうりだすことがおおい。アニメとTVドラマとが混濁したようなイメージがきまって脳裡にひろがって、がまんがならなくなる… がまんして読了したとしても、よみとおしたという事実がのこるばかりだし、『文藝』を手にとったこともないようなガキの応募作をよくぞ出版したものだと約30年後のいまもわれながら版元のおもわくをいぶかしくおもう… とまあ文芸誌がすきになれないからこそ本サークルがあるのだという根幹を、あらためて自己認識:<道場>なかまの数名が、いずれにしろ阿波しらさぎ賞にエントリーされたことはよろこばしいかぎりだから、バローロでこんやは祝杯をあげよう…

 

 

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ღ グループA

「四月四日」草野理恵子氏
「うたかた」星野いのり氏
「百合八景」伊予夏樹氏
「みそひとづくし、あるいは割引券くらいもらえるかもしれないと思う。」一徳元就氏

 

 ざんねんながら当ジャンルはSFよりも興味がもてないから、いっそ言及しないほうがましだろうくらいの杉村太蔵流のうすくちでまいる。あ~あ草野氏と一徳氏とは、たねあかしをもうすこしあとにしてほしかったな。もっとも一徳氏のほうは明瞭だった。このかたはやはり詩でも小説でもそれ自体をつくりあげること以上にそれらの枠内であそびたおすことが天性だから、そこが文学賞やらなにやらの現世的なものとマッチした瞬間のなんとも不可解でうつくしいシーンをまのあたりにしてみたいと冀願してやまないが、「かぐやSF」のほうは本稿でがまんして言及しないことにする… 「四月四日」がなにをさすのかは詩人にたねあかししてもらわないと、とこしえにわからなかったにちがいない。わたくしにとってそれはなによりも “おかまの日” でなおかつロートレアモン伯爵の誕生日にあたります。そして草野氏には日本語ではなく、イジドール・デュカスやレオポルト・アンドリアンとおなじ言語をだきかかえながら、この世にうまれてきてほしかったなと無責任にもつくづくと感じざるをえません。ヘラジカといったらマロイだぜとおもいつつ澹美と魔性とを直射した3作のあとの(ナナカマド)はドレッサーと窓ガラスとのあわせ鏡をほうふつとさせて、ことのほかシックでした。

 

「焔」の題字が前回はすきになれなかった。わたくし個人的にはやっぱり “焰” でなくちゃどうにもならない。てめえの文字嗜好などファック・オフだわといって星野(凜さまのほうじゃなく)いのり氏からフック・キックをほうりこまれそうだが、「寒涛」もきらいだと当方は鼻血まみれで絶叫しつづける。ここはどうしたって “寒濤” じゃなくちゃいけない… え、それだけ!? すみません、きょうはそれだけを星野氏につたえたくて… ったくもう伊予どののせいでござるよといいつつ顔をむりやり同氏のほうに転じながら、こんどはだまりこむ。むこうもだまっている。ややあって口をひらくのは当方だが、「だいじょうぶですよ、こんな詩も毎日のようにTLでうたいつづけていてごらんなさい… おそかれはやかれ世界はあなたにくみするでしょうから」 いぜんとして伊予氏はだまっているので、こちらもよけいなことをくちばしる。「あなた日ごろ古文書をとりあつかっていらっしゃいますよね? ひとつ彫琢のかぎりをつくした美麗な文語調で、ペダントリィにみちたコント・クリュエルをつづってはいただけませんかね?」いぜんとして伊予氏はだまっている。みればご本尊に生きうつしの蠟人形… とまあ以上がグループAについての感想ですが、てめえ作品をほんとに目視したのか? ほんと皮相でうすくちだなといわれたら、テヘ♥顔をするしかないモンモンモコモコの入道雲の夏なんです…

 

 

 

ღ グループC

「おもいかえせるかぎりでは」宮月中氏

 

「かぐやSF」に応募された宮月氏の作品をよみすすめていたら、ファンカデリックの “Cosmic Slop” が脳裡にながれた。もしや同氏は★★★★☆のカスタマーレヴューを創作したかっただけなんじゃないかとも邪推されて、これってSFなんか? どうなんか? 「そこに愛はあるんか?」ひとから愛されることもなく、ぐるぐると無重力をグルーヴ(輪廻)するグラヴィタス(ペド)フィリアは、それにしたってファンキィでゆるゆるでいいよねぇ… とっかえひっかえされるモードにちかい地上のつかのまの<正義>めいた価値観でめくらにされている連中のほうが、むしろ憐愍されるべき存在じゃないんか? 「なう」の至近距離のそれしか眼にはいらなくて、じつのところ歴史上のことがらも解読できそうにない人種はSNSにごまんといるんじゃないんか???? 「かぐやSF」の応募作はどれも闘志や気魄がたぎっていたのに、ひとり宮月氏のそれだけは異質のゆるゆるで、グルーヴしていた。もっとも本人はゆるゆるで書いているつもりもなかろうが、<六枚道場>のこのたびの作品のほうは '70年代のジャケットのイメージも異界の風のように撩乱して、ロキシィ・ミュージックの “Love Is The Drug” をくちずさみたくなる… たぶん本作にはたくさんの反響がよせられているだろうから、わたくしが多言するまでもあるまい? 「いろいろ」「いろいろかー」の会話がとりわけ秀逸:「青色に光った」のはなんの反応? もしや生殖反応!? かつて宮月氏はみずからの睡眠とのあいだに良好な関係をきずくことができない苦境をつづっておられたように記憶しているし、やすらかにおやすみなさい(不吉)またしても言及しないほうがましだろうというほどの皮相なうすくち感想でおわってしまって、ほんとうにすみません。

 

 

 

ღ グループE

「最後の光学」洸村静樹氏

 

 いくつかの時空が乱反射するロザリオの破片… ぜひとも今後の歴史小説は、かかる複眼でつづられなければならない。わたくしも10代のころ信長嗣子の秋田城介信忠、レオン蒲生氏郷天正遣欧使節団の時代がだいすきで、ランボオ散文詩にもとづくパスティシュの訓練として戦国と現代とが交錯しつづける断片を、いくらも書いた記憶がある。いっぽうで鋳型から量産されるような日本の商業小説を軽侮しつづけて、いったい世間はなんのために津本陽だとか宮城谷昌光だとかの単純な叙述にこぞって眼をとおしたがるのか? とりわけ低劣だとおもわれた津本の作品を、まだ大学をでたばかりのころ数人のまえで痛罵していると、あれオレ(が担当したやつ)なんだよねと同席する角川の編集者が、おずおずと苦笑まじりに告白したため二の句がつげなかったこともある… ひとり歴史小説のみならず文芸書でもTVドラマでもタレントでも邦画でもミュージック・シーンでも、なぜ凡庸なものを世間はもとめつづけるのか? われわれの日常や人生だけで、そんなものはじゅうぶんではないか? 『翔ぶがごとく』が司馬遼太郎の最高傑作だとするなら、そこには彼の出世作のいくつかに悲惨なまでの低俗でぬりこめられている漫画じみた冒険活躍譚も、ストーリーのよけいな起伏も、リーダビリティとやらにもとづく日本特有のガラパゴス的に平易で一面的な文章も、ドタバタ劇も、ラヴ・ロマンスもみられない。みられるのは作中の厖大な人物にたいする批評ばかりだが、いっさいの空疎なドラマを黙殺する人物評が、くもの巣でそれこそポリフォニィをおりあげているような奇蹟を、はたして衆愚のいかばかりが感じとれるものか? けだし凡庸な感性は、もっとも強大な<正義>にほかならない。ささやかでなおかつ奇矯にもみえる真実は、ことごとく時代をこえないまま狂瀾のその汚穢にのみつくされるだろうし、「現代のものを支配するために、人はそれを荒廃させ、浅薄化する」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)とつづられたムージルの未完の長篇はまさにそんな凡俗のあずかりしらない隠微な真理でうめつくされている。ともあれ凡庸な感性にすいあげられたベストセラーも、いっさいは荒廃した浅薄な凡庸のおなじ第2波/第3波についえるのはいうまでもない…

 

「最後の光学」はおなじ標題の韻文が、みれば作者のnoteにのこされていた。おなじ1行がこのたびの散文の書きだしに転用されているが、「考えない①」も拝読しつつ “音のないカノン” はまさに狂瀾──このたびの散文の “現代” も、たぶんに震災津波の瓦礫からの投射:「第二波」の敵襲のまえで複数の時空は、したがって乱反射するのではなく、いまさらながら住民意識にこの街のいしずえとして仙台黄門政宗とその覇府とが、もはや存在しない天主(閣)から屹立して、せまりくる猛威のまえに石垣も城下の河川も聖観音も、はては21世紀のコンクリートもマンションも、けっして乱反射しない──ほろぶまいとして複数の時空はむしろ身をよせあいながら、まぼろしの天主(閣)の隆起のなかに凝縮しようとする…

 

高山右近』『安土往還記』の2冊をむかし手にとって、どちらも数ページでほうりなげた記憶がある。えたいがしれない嫌悪感は、まさに江藤淳がこの両作者を “フォニイ” とよんだところに由来するものだった。わたくしが2度ほど駿河山の上ホテルで相対した江藤はじつに毒々しいほど気力充溢して、なき妻に殉ずる自決をとげたことをきかされたときにも、でかしたジイさんとよびかけたくなるほどの奔騰がむしろ感じられたものだった。ともあれ加賀や辻だけでなく、ソナタ形式で書かれたという福永武彦の作品をよんだときも “フォニイ” の嫌悪におそわれた。それは小説ではなく、なにか小説のおままごとにつきあわされている感覚だった。ほんらい詩人(気質)がつづる散文を、わたくしは愛さない。それはひたすら無重力の無反省のまま打鍵されてゆく清澄な音をイメージさせるし、『特性のない男』のなかでムージルが “ある詩人” のことばとして自身の中篇小説の文章を引用するような不逞さや強靭な批判精神をひきあいにだすと、ますます詩人そのものが脆弱なものにみえてしかたがないが、「第二波」の敵襲にわたくし自身の懐疑もくわえて、よみおえたばかりの洸村氏のこの空間も、じつに重力で圧してしまいたいという欲望をおぼえなかったといったら、うそになる。レオン氏郷との確執などからみえる仙台黄門のローカルな悪虐と城下のバテレンの信仰とは、いっぽうでは無反省と清澄さとのとりあわせによる眼もあてられないほど戯画めいた史実で、ローマ゠カトリックおよびイスパニアからの伝教貿易はつまり欺瞞や毒牙をひたかくしにしながら、アジアを盲目にせんものとした放射能/熾烈なコロナ(光)さながらの汚染でもあったのだから…

 

 

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 ものすごいやつらが、バトル・ロワイヤル後半戦でなだれをおこしている。ジャングルを火の海にかえる獣姦爆撃めいた奇観… とうてい前半の洸村氏を論じたようにF~Iの諸作を、ひとつずつ詳述してゆくことはできない。あるグループの3作中2作だけをひろう(1作をおとす)のは無礼だとおもって、グループ全体にそんなばあいはこれまで言及をひろげるようにしてきたが、かぎられた余暇のなかで遊興の時間をけずってまで他者にそんな配慮もしたくない。てか感想書きは、ハード・ワークにて御座候。うすくちの拙速な筆致でかけぬけるので、ご容赦のほどを…

 


ღ グループF

「THE REAL END OF EVANGELION」小林猫太氏
「ハリー・ライムのテーマ」ケイシア・ナカザワ氏

 

ドラゴンボール』や亀頭戦士ガンダムなどを、コミックスやTVでまともに眼にしことはない。アニメはとりわけ当方にとって認識の抛棄とイコールでむずばれた侮蔑の対象で、みずからの精神がそんなものに接触することを小学生のころから当節のコロナのごとく厭忌していた。エヴァンゲリオンうんぬんは、したがって一顧もしない。しないにもかかわらず猫太文学のすばらしさは、じゅうぶんにつたわる。けだし先月の作品のごとく書き手のそれはひとえに鍛錬のすえの抑制がきいた名文によるもの… 『ボトムズ』『ダークライン』の両作をせめて10年間は手をつけないで、おたのしみとして積読しておこうとおもっていたランズデールのにわかファンのわたくしが、がまんができなくなって後者をむさぼるように読了したのは2ヵ月まえのことだが、「両親は敬虔なクリスチャンだった。だから父親は毎日天に赦しを乞うた後で母親を殴った」からのくだりはまさにランズデール流のふるきよき(?)テキサス風味:「神は死んだ」の常套句をふいちょうするKやアニメDVDではなく、だからこそ情念はそのままノスタルジック゠ヴァイオレンスに舵をきって、かけおちした彼女の妊娠だとか生活苦だとか、いっさいからにげだした卑劣な男だとか細菌テロリズムだとかの地獄行にむしろ本作はながれてほしかったな… どうもすみません、かってにそんなことを感じざるをえません☆あばれるくんでした。

ピアノソナタ 第八番『悲愴』第二楽章」の原典版が、ケイシア氏のnoteに掲載されていた。やや唐突にみえた在宅療養にきりかわる経緯もオリジナルでは精密にえがかれていたし、「薄い黄色ともベージュとも形容しがたい月」の多調的な表現も6枚ver. では無慚にニュアンスがそぎおとされていることがわかった。つまり原典版のほうが、ふくいくとした名作だった。けずらなくてもよかったのにとおもうが、<六枚道場>のリングにのせなかったら原典版をわれわれが手にとることもないかもしれないことをおもうと、むずかしい問題だとおもう… さて今回の作品にもハート(シンゾウ)のような符牒がひそんでいるのかとおもって、ダウやウッズやトシなどの名まえから推察するが、お手あげです。ウィーンがだいすきなこともあって、オーソン・ウェルズの映画をみたのもこれまでに10回や20回ではすまないだろうが、かんじんの楽都がうまく撮れていないように感じられて、あらすじもほとんど記憶になく、ケイシア氏の本作との照応もむずかしい。ツィターじゃなく、カール・シャイトのリュートが映画のBGMにつかわれていたらよかったのに… てかハワイじゃなく、ウィーンがえがかれていたらと本作にたいしても註文をつけたくなるが、きっとワイキキになにかがあるんじゃ? 「センテンス・スプリング」はおれだってわかるぜ、それは文章情報の売春窟にして他人の下半身をかぎまわるゲシュタポ!? 「ハリー・ライムのテーマ」はいずれにしろスマートな作品にしあがっていた。さいごにケイシア猊下… わたくしは感想文ライターの身からもセミ゠リタイアメントします。つづけるにしろ次回からはショバをかえて、もっと簡素で穏便なものにするとおもわれます。

 

 


ღ グループG

「ブーツを食べた男と冷たい人魚」吉美駿一郎氏
「二週間目の暗黒固茹で卵」Takeman氏

 

「天狗の質的研究」をかつて拝読しながら、このひとは小栗虫太郎のうまれかわりではないかと感じたものだった。およそ人間とはことなる顔相および骨伝導による天狗独特の声質を考察した尖鋭なペダントリィから、われわれはあの文芸的労作「白蟻」のなかで畸形の顔貌にいたる経緯をなぞるさいのような小栗の筆致をおもいだすわけだし、「かぐやSF」応募の2作でも吉美氏のペダントリィのひらめきや恠異のシーンは健在:「これから三冊の本を紹介します」のラストで先生があわてふためくのは、アキが地球の平面を信じてうたがわないからなのでしょうか? よみすすめつつ浅学な読者はそのつどググらざるをえないシーンが頻発するが、「ブーツを食べた男と冷たい人魚」はひとえに芸術性を信じて、ググらないまま一気によみすすめた。したがって当方の知識が作品においついていない箇所もおおく、いきおい言及するほど無智をさらけだすばかりだろうが、「アークティックチャー」は作中の道具だてよりもイマージュの音響として重要:「ときおり猿のような顔に鱗だらけの胴体」からのくだりは作者のじっさいの女性観/同居観/恋愛観からの流露かなどと調子こいて書くと、ちげーよバカと一喝されるかもしれないから、ここで筆をおく。

 

「第8回」チャンピオンTakeman!!!!!!!! あくまでもわたくし個人のそれは嗜好だが、ここには6枚小説の理想型がみられる。わたくしがそこでまずなによりも必要だとかんがえるのは、いんちきな設定… ちいさな劇場の急ごしらえでつくられた舞台セット感がでていたら、もはや神秘的な成功は約束されたにひとしい。わずか数小節の序曲につづいて幕がひらくと、このたびのTakeman作品はもう絶景すぎて、いうべきことばもない… くそくらえ、リアリズム!! いんちきな設定であればあるほど舞台はむしろ厳粛さにみちる。じっさいに作中人物はここでシェイクスピア史劇のそれにせまっているように感じられる。われわれの神経症ぎみな頭脳が、プランタジネット朝の獣性にみちた胴体にそのまま接続されたような眩惑におそわれる。ラシーヌやジュネもすけてみえる… すばらしい、ブラヴォ!! おしみない拍手をおくろう。いっさいの真実はつまり劇中の闇黒にしずみながら、よごれた卵がいっぽうでは熾烈な照明にばけて、いっさいをあかるみにする。アレグロ・バルバロの話法はふざけて傍若無人でありつつも貞淑な隠喩にみちて、もはや神がかり… すばらしい、ブラヴォ!! けだかいコント・クリュエルがここにある。こんやの吟醸酒も、あなたにささげよう。

 

 


ღ グループH

「カミツキ」ミガキ氏
「王国の母」紙文氏

 

「カミツキ」の作者は、いったいなにものか!? まさに超新星☆誕生:「王国の母」よりもむしろ本作のほうが、アンジェリスムのにおいは濃厚にたちこめている。シャガールがえがいた古雅でなおかつ未来的な天使、うつくしい肉食系の天衣無縫、こどもの老成… えたいがしれない書き手があらわれたものだという感慨はつきない。

 

 いっぽうで紙文氏も、まけてはいない。くわしくは来週にもういちど時間をとって、ゆっくり書こうとおもう。ひとことだけ言及するなら、ざんねんなことに肩胛骨の手術痕のくだりでお説教くさいニュアンスがにじんでいる気がしてならないことなのだー!! お説教くささを払拭しようとおもったら、ほかでもない該当のその手術痕をむしろ悪趣味なまでの執拗さでマニエリスムふうに詳述しなければならなかった気がする。コンドームと陰毛とのくだりにひきつがれるタッチで… そうそう、マニエリスム… まる1日のあいだ本稿からとおざかりつつもランニング中にまたぞろ肩胛骨の描写がおもいだされて、キックやクロールのメニューをこなすこともなく、キイボードをたたきはじめていたが、「まるで木から枝をもぎ取ったかのような痛々しい」手術痕でそれはすまされてよいものか? <天使派>をながらく自任している身からすると、ここは作者もいったん筆をとめて、ふかい考察をこの霊性にささげるべきではなかったか? はたして天使にも血管や神経があるのか? きよらかな肉がたとえ乱暴な手術をほどこされたからといって、かかる恥辱にみちた痕跡をわが身にとどめておくものだろうか? つばさはむしろ痛みも抵抗もないまま枯葉が枝からはなれるように剥離したり、かりにオペをほどこされたにしろ人類にその愚劣な罪業をおもいしらせるべく聖痕はそこで永劫のくるしみをうたいつづけたりしているのではないか? 「王子君」の肩胛骨のうごきから、かえって話者の眼にうしなわれた双翼がうかびあがってみえるのではないか? 「翼が生えてたんだ。宗教画の天使みたいに」の1行が、お説教くさい根幹か? お説教くささをまぬがれるにはやはり偏執的な描写のマニエリスムが必要で、イメージ上のながいルフトパウゼが、かかる描写とせりふとのあいだに存在しなければならないという思考のなお堂々めぐりはつづく… 「天狗の質的研究」でくだんの人間とはちがう骨伝導による音声を、あたうかぎりの想像/智識をもちいつつ考察した吉美氏のようなパッションが必要なところではないか? ためしに公園におもむいて、すずめや鳩の双翼をもいでみるのもよい。いたましい対象の痙攣のさまから、なにかの着想がうかぶかもしれない。てっとりばやくググってみたサイトでは人体構造的に肩胛骨のつばさが飛翔力を有するためには極端な鳩胸になって左右の乳房もはなれて、ひとなみの文字どおり人体をたもつことは不可能だとみている… まあ天使も小説もフィクションで、リアリティをここだけに要求するのは、フェアではないかもしれない。だいいち上掲のTakeman作品にたいする言及で、きさまはリアリズムを罵倒していたじゃないかと指摘されたら返答につまるしかないし、<天使派>のわたくしとしては審美上の理由から本作にそれをぜひとも要求したいのだと口をすぼめながら、くるしまぎれの屁理窟をこねるよりほかはない。リアリティではなく、ロマンの幻視のために… おりからTakeman氏の作品がつごうよく想起されたわけだが、「宗教画の天使みたいに」でアカデミックにのがれるタッチがいやだったのかもしれない。アニメやラノベ的なアカデミックの転用にみえる。アニメやラノベで攻めたかったのだと筆者にいわれたら、ただちにこちらは土下座するしかない。しかしTakeman氏のように下品に下品をかさねて聖性をうばいにゆく攻めかたのほうが、よりいっそう気品があって愛らしい… 「王子君」はなるほど堕天使として邪悪で、うすよごれていなければならない。テロルや嗜虐などの人倫の価値の顚倒から、やがて復権する聖域がみてみたい。わたくしはジャン・ジュネに魅せられているから、ギリシア神話のヴィナスがもともと獰猛でみだらな海獣のイメージを起源にもつような醱酵のなされかたで、メロヴィング朝あたりから醞醸された王国の男性権力/教会の男性権威の象徴たる天使のイメージの発祥も、わかい農婦がおのれを輪姦する金髪のならずものたちの卑劣でうつくしい顔という顔をやきつけた脳裡にゆきつくのではないかという夢想をすてきれない…

 

「あんた、そんなんで生きてて楽しいわけ?」のせりふからは本作をたのしく拝読したが、さいごに感じたことは天使にとってリビドーやエロスがいかなる意義をもちうるのか? おもえばアポロンは太陽神として古代アテナイ市民を外護/祝福しながら、おなじ市民たちを疫癘や饑餓のるつぼにたたきこんで死者を量産する戦慄すべき神格としても祭祀されていたわけだし、「王国の母」がうつくしい天使にみちびかれながら、おなじように人類にたいする無慈悲な復讐の悪胤をやどしてゆくということならおもしろい… おもしろいといったら、こうして感想を書かせていただくのも、けっきょくのところ刺戟的でおもしろい。かならずしも拙文がその作者および読者にとって快適なものになるとはかぎらない。むしろ不快になる要素マシマシで脱線につぐ脱線ではないかと自粛警察がうごきださないともかぎらないが、<六枚道場>でこれまで8回中6回もわたくしは参加者としてお世話になって、せめて返礼の一片なりとも本稿が、サークル管理人にたいする感謝をはこんでくれているものにならんことを、いのるよりほかはない… さいごに紙文氏という書き手は、ほんらい古典文学にふかく依拠するタイプのはずではないか? こんにち出版される商業小説など文学史上の偉大な傑作群にくらべたら、ものの数ではないという当方とおなじ態度にでるようなタイプにふくまれそうだが、<なう>とリーダビリティとにしっかり照準をさだめて書いているところが、すこぶる稀有でおもしろい。さらにその照準のさだめかたが、しゃにむに商業作家をめざすための道程にあるようにもみえないところが、ユニークにみえる。むしろ戦略上のその照準のさだめかたや価値を、なかば書き手みずからが信じていないようにも感じられるところが、よけいに興味ぶかいのだーと僭越ながら推察しつつ擱筆いたします。ありがとう、Je vous remercie à tous…

 

✍ 13‐Août‐2020


「王国の母」を再読する。そして話者がふと鶏にみあやまりそうな翼の木乃伊のくだりから、あらためて作中のその前後をみわたすと、わたくしの前述とはことなる眺望がひらかれそうにもみえる… ひょっとすると作者は天使もその聖性も、ことさら信用していないのではないか? 「乾いたへその緒」とともに白木の箱におさめられた木乃伊は文字どおりのものでなく、ここでは骨盤の1対の寛骨あたりをイメージさせそうな気もするし、いっぽうでそこから静物画とむきあったさいのような省察にもひきこまれるが、「乾いたへその緒」とともに秘蔵されたものが生来のふつごうなものして切除される──ほんらい常人には賦与されえないものだということを加味するなら、ふたりの作中人物をこえて行間から、はたしてそれはLGBTにまつわるようなものを──いや作者さえ認識しないまま声なき声で、かかる生殖の無効性をうったえているといったら、うがちすぎだろうか? 「あらゆる静物画は、創造第六日の世界をえがいているのだね」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)みずからの死のすんぜんまでムージルが心血をそそいでいた未完の長篇の絶筆:「夏の日の息吹き」の前章でつづられている落想(アペルシュ)は、はからずもこの天使をあつかった紙文作品の読者が、おおむね無意識下にのぞきこむ作中の深度もいいあてているようにおもわれる。「だから、静物が、人間の心に喚びおこすのは、恐らく嫉妬の感情と、神秘的な好奇心と苦悩なのだろうね!」(訳同上)

 

 さいごに一転して下世話きわまることを書くなら、けっきょく作中のふたりは数年のあいだ同一の異性がつねにセックス゠パートナーであることに不満をおぼえないものだろうか? おぼえないとしたら、やはり霊的な意味あいをおびた行為なのか? 「第一志望だった東京の大学」「紛失した定規」「教授」の3つしか話者がかかわる圏外のことがらはみえてこないわけだし、「王子君」なる天使がほんらい有するはずもないリビドーと、リビドーにもとづく(両者の)あきることがない生殖行為と、かくあらねばならぬという未来像のためのその生殖との3つが示唆するものは、はたしていかなるものかという問いをここにのこして、これからも紙文氏にはたくさんの天使小説 Geisterroman をつづっていただくことをねがいながら、ふたたび擱筆:「いつだか病気で床についたときに、天使たちと話をかわしたものだ。あのとき天使たちは彼女と寝床のまわりに立ち、その翼からは、それを動かすともなく、かぼそくて高い音が響き出て、あたりの物たちを削(そ)ぎ抜いた。すると物たちは廃鉱石のようにこなごなに砕け、世界全体が鋭い貝殻状の破片とともに横たわり、彼女一人だけが小さくひとつにまとまった」(ムージル『静かなヴェロニカの誘惑』古井由吉訳)

痩蝶月旦:第7回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ にんげんも顔がいのちの推しとく


 じつは杉浦ボッ樹が自分よりも年下だったことに気がついて、あいた口もふさがらない夏──みなさま、ごきげんいかが? ひとの顔はまさに万華鏡、ハゲかたも威厳のつきかたも老けこみかたも病みかたも千差万別、てんでばらばらな百花繚乱:「きみは薔薇薔薇あかい薔薇」などが口をついてでたら、ハートはもう棺桶♬<六枚道場>でも拝読中にたいてい書き手の顔をかってにイメージしているが、かろうじてnoteのアイコンでお顔の特徴がつかめそうな中野真氏はこんな感じ、ハギワラ氏もこれ、紙文氏これ or それ… たぶん真実からは何万光年もとおざかっているのだろうし、ひとの想像力はその限界をたやすく露呈してしまうものなのでしょうか? 『ヴォツェック』にもとづく長篇から抜粋した6枚をこのたび発表しようとおもったが、「きまぐれ」Grillen なる標題がしめすとおり先月のシューマンの音符をおのれの白紙のなかで言語化する作業がぞんがい愉悦にみちて、つづく2作もおなじ手法で脱稿──わたくしが本サークルで過去に発表した3作:「散髪」「饗宴」「挽歌」は原稿用紙6枚からそれを凌駕したスケールをたちあげるべく室内管弦楽の編成でのぞんだものだが、あらたな3作のほうはもとより6枚のその実寸にあわせた器楽曲… とはいえ3作めでやはり幻想小曲集 Phantasiestüke op.12 から、グランド・ソナタ Große Sonate op.14 の大作志向にそれは転じているし、「きまぐれ」Grillen はつまり経過句というか駄作にすぎない。つぎの作品こそがわれながら最高のしあがりになったと確信しているから、ぜひとも8月はグループAにはいりたい!!!! おねがいします紙文さま、お中元は土佐の小夏か夢栗でよいでしょうか? はたして本サークルの管理人もアルコールをたしなむのだろうかといぶかりつつ夜空をふりあおいで、こんやは志村けんをしのびながら、モンタルチーノあじわうことにする…

 

 

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 さて先月とおなじく第7回の全作品が発表されるまえに上掲のはしがきをしあげて、グラスをかたむけつつ本サークルのサイトにアクセスすると、なんと今回がグループA!!!! う~む微妙…

 

 

 

ღ グループB

「雨は半分やんでいる」中野真氏

 

 ことわっておくが、なにも毎回ルーティンで中野氏の作品をとりあげているわけではない。どうしたって言及せずにはいられない情焰を、このかたの文章はやどしている… つかのまの序奏をへて、レチタティーヴォをきかせる1ページ3行めからの叙述:「やかんに火をかけ」からすなわち2ページ4行めまでは、いつにもまして端正な筆づかいにうなる。ここまでの精妙さがまさに生命線なのだということを読者もじきに気がつかされるが、「半分ほんとで、半分は、ほんとだったらいいなって気持ち」から頻出するアンビヴァレンツな表現のかずかずはそのまま後述の精神科につながるばかりでなく、イディオムのその隠微な熔解がワグネリアンの和声の崩壊のきざしをはらんだロマンティシズムによる2声の進行をもイメージさせるし、きりつめられた文体がいわば書き手による意識/無意識からの要請ではなく、ほかでもないロマンティシズムがその陶酔によって止揚する内的なリズムできざまれているように確信させられるところからも、わたくしのような読者はいきおい二重のニュアンスで本作にひきつけられる。きりつめられた文体が車の走行とともにスピードアップするほど文体はむしろ瞬間ごとの念写力をつよめて、ことばたらずのまま緻密さをはらむようなぐあいに冒頭の叙述とはべつのところから丹念な描写はたもたれてゆくことだろうし、「僕」をとりまく厖大な物象はそれによって作中にやきつけられてゆくことにもなる。みずからの創作をドライヴしうる境界からスリップして、グリサンドの尖端でくだけちるガラスの破片のような狂気の音響をまちうけながら、オクターヴ内というかオクタゴン・リングのぎりぎりのところで勝負をきめる文字どおりロープぎわのマジシャン… 「雨に欲情するのはおわり」のむすびまで場外乱闘めいた欺瞞やなれあいの文章も、やっつけ仕事にちかい放埓や逸脱の表現も、ここにはいっさいない。たぐいまれなロマンの情焰を、これからもご自身でたやさないようにしていただきたい。

 

 

 

ღ グループC

亜音速ガール」小林猫太氏
「散弾」6◯5氏
「di‐vision」澪標あわい氏

 

ギャラクティカ拉麵」の夢をもういちどと渇望する読者のために賢明な書き手は、けっして桶狭間の奇勝を再現しようとはしないものだし、にどとルビコン川をわたってみせることもないだろう。おのれの快作の亜種をうまない作者にたいして読者はさみしさをつのらせながら、いっぽうでは鑽仰と敬愛とをおしまない。ともあれ今回の作品は、わたくしのような読者にとってうれしいものだった。やはり上述作のように文体がその語意にさきがけて疾駈しつづけながら、アリアを氾濫させている。ちなみに初見のさいにそれが音符でうめつくされた文字どおりスコアにみえたほどで、よみすすめながらテクステュアをなおかつ自分ですこしつづ書きかえてゆくというか正確には近似するところに移調しつづけてゆくような二重情景 doppelszenen をたのしむことができた。それは再読時にけっしてブラウザからたちあがらない幻景だった。バキは強敵とリングでまみえるまえに、リアル・シャドウをおこなう。おなじ相手とつまり幻想のなかで一戦まじえて、からだじゅうから実戦とかわらない血の量をふきながしているわけだが、<六枚道場>を拝読する意味はわたくしにとってこのシャドウをたのしむこと以外にはない。かりに書き手がまだ自身の才能の30%しか作中でひきだすことができていないにしても、シャドウのなかでは全開した潜在能力のすさまじい破壊力でおしよせてくる。いくたりかの書き手のかたにも、シャドウのなかのご本人像をみせてさしあげたくなる。うれしいことに本作はもとより想像でその破壊力をひきあげるまでもなく、ひときわ高次のファイトをたのしませていただいた。さらに余人がうんぬんするまでもなく、いっさいは奔放かつ錬達の抑制がきいた名文でえがきつくされている。とどめに愚地克巳の真マッハ突きによる絶景がひらかれただけに、ラストで平凡なおにゃのこにもどる予感がさみしい… もっとも作者のそれはやさしさなのかもしれないし、あとひとふんばりの邪悪なゾーンに帰結させることができた巨凶範馬の血をわがものにしうる権利を、みずから抛棄したゆえんかもしれない。

 

「混乱こそわが墓碑銘」Confusion will be my epitaph はごぞんじ抒情詩人ピート・シンフィールドによるキング・クリムゾンの誕生をつげた聖句:「散弾」は6◯5氏の初発表作ではないが、どことなく書き手のやはり開闢がつげられているけはいがする… あさぬま氏との近似性のようなものを1ページめから感じたが、たんなる気のせいだろう。レヴィ゠ストロースにうといぶん内容にふみこめない弱点をこちらは克服しえなかったし、くだんのシャドウではつまり書き手から3ページ2行めにいたるまで一方的にボコられる状態がつづいたが、こちらがようやく反撃に転じうる弱点をみつけて、マウントから左右をぶちこみつづけたのが3~4ページか? 「窓から眺めた交差点に人だかりができていた」のところでレフェリーがわれわれを左右にへだてて、スタンディングからふたたび激突:「古いフォークソングがなっていたと思う」でハイ・キックがこちらの後頭部をとらえると、とおのく意識のなかでこの書き手にわが最愛のゴンブロヴィチをよませてみたいとかんがえた。

 

 これまで澪標氏の作品を読了したことがない。ひじょうに文章はうまく、ときとして描写はマクロの表層からミクロに潜航して、わたくしの嗜好とことのほか合致する瞬間もたちあらわれるが、たちあらわれたとたん多数決でこれは高評価がくだされる作品だから、おれがとちゅうでほうりだしたところでかまうまい? うまいんだから、べつにそれでよくね? じつのところ澪標氏ひとりではなく、おなじ感慨からギヴ・アップする作品はすくなくないが、ほうりだすタイミングはひとりひとり微妙にちがってくるような気もするから、なぜかをつきつめるためにはやはり作品をよみとおすしかなく、よみおえてわかったのは澪標氏のばあい作中にえがかれる対象のひとつひとつにたいして作者が愛情をもつことと、えがかれる対象のそれらが愛のきらめきによって光暈(かさ)をひろげる焦点のぼやされかたに抵抗があることとがわかって、あまつさえ後述するTakeman氏の作品がそれを本質的なところで総括してくれた。ほかのひとは評価するから、おれが手をつけるまでもない。おもえば世界はそんなニュアンスのものでみちあふれていて、おなじ感慨から当方がいままで体験しようとさえしなかったものを列挙するなら、ビートルズ夏目漱石寺山修司ヴァージニア・ウルフ甲州わいん、押切もえ、文芸誌全般、『ドラゴンボール』や亀頭なんたらガンダムというかアニメ全般にJ‐POPやK‐POPやTikTokがくたばろうが破産しようが、いかなる痛痒もおぼえることはない。

 

 

 

ღ グループD

「すでに失われてしまった物語」Takeman氏
「金のなる木」大道寺轟天
「夢の中の男女」伊予夏樹氏

 

 みづがきやわが世のはじめ契りおきし後鳥羽院のにたび筆すさびたまえる僥倖無窮にて往昔(そのかみ)の廃帝いまの噺家たる流転のことはりなれど夏山のしげみにはへる青つゞら蝉時雨のごと神籤のすゞしき顫動から御門Takeman氏伊予氏がここに凝集:「寓話」Fabel クラスタが、はからずも形成された。まずTakeman氏がうまい。うますぎて悪意がこちらの意識から奔出すると、やっぱ2人称でなおかつ<ですます>調なら実体よりも文章はうまくみえるものなのさなどと毒づいて、はたと澪標氏のそれにたいする疑問もここで氷解した。どんなにうまくても美的でも評価されうるものでも、すくなくとも自分にかぎっては澪標氏やこのたびのTakeman氏の作品はあらかじめ筆をとるまえに却下している題材なのだと気がつかされた。もっとも当方がそれを棄却したからといって余人がそれをするべき必要性やいわれは寸毫もなく、めいめいが取捨選択すればよい… いにしへの千世のふる道年へても呉竹の葉ずゑかたよりふる雨:「昔々のお話です」かしこくも玉音をたまはりて、みごとな噺家のかたりくちだと僭越ながら舌をまいたものだし、「めでたし、めでたし」のむすびまで須臾の間とみゆるほど轟天作品をこのたび賞翫させていただいた。さいごの伊予氏はこれまで言及したい言及したいとおもいながら、わたくしのばあい決定的な作品とまだ邂逅していないおもいがつよい。すくなくとも140文字の小説をふたつは書きあげることを日課にしているらしいヴァイタリティには舌をまくしかなく、なんつーか畏怖しつつ敬遠しているというのが正直なところだし、「天空分離について」につづく読者の認識のおよばない高所でかろうじて均衡をたもっているようなファンタジィを個人的には熱望しているが、「天空大陸フラナリーの年代記」の標題がつけられたnote記事にはばたけば瞬時にそんな熱望もみたされるのかもしれない。このたびの発表作もうまいが、みんなが評価するだろうから自分ひとりくらい言及しなくてもいいだろうの地点からやはり現実世界にきびすをかえしていた。

 

 

 

ღ グループE
「試験問題(わたし)」紙文氏

 

<六枚道場>が紙文氏の本領だという儼然たる真理を、あらためて実感させられた。われわれ参加者はいわば領国のめぐりに点在する附城にすぎない。そして本丸および支城網でかたちづくられる文字どおりサークルのその布陣でもって一大ムーヴメントをおこすべく外界にうってでようとするのか、もしくは文学的にたまさか無菌無私をほこっているユートピアの小空間を、むしろ腐蝕せんとする外界からの防禦として本丸をめぐりつつ捧持される本サークルの作品群か? いずれにしろメール本文にコピイ&ペイストされるかたちで伝送されるデータは、ひとしなみに紙文氏の文書フォーマットで作品化されるわけだし、ことばのその配列がうつくしく映じるように先月からわたしはこれと同一の25文字×20行であらかじめ作品をつづって、ダッシュの位置に気をくばったり、なるべく促音や拗音が文末/文頭にこないようにも工夫したりしているが、「試験問題(わたし)」の視覚美にはおよぶべくもない。うつくしい、ただうつくしい… 「ねえ、ビールは冷えてる?」の1行なんて横に棒をふりたくてしかたがなかった書き手のリビドーがびんびんにつたわってくる。もはや内容をうんぬんする気もおこらない。うつくしい、ただうつくしい… 「A」(テキストでは長方形にA)はレガートみたいで感心しきりだが、ひょっとすると書き手自身はわたくしが感じとった企図など寸毫もおもいえがいていないのかもしれない。ただ後述の宮月氏の作品とともに小説のあらたな可能性を、わたくし個人はここにみるということにすぎない。それというのも無形式表現たる小説を、ながいあいだ書くことにうんざりしつづけてきたからだし、うんざりしつづけるあまり書くこともやめていた。それだけに形式上でこのうえない精緻なうつくしさをほこる音楽に、わたくしは魅せられてきた。まぼろしでも文学がおなじ形式や技法をまとうことができたら…

 

<六枚道場>が存在しなかったら、かかる表現上の可能性のために小説を書くこともなかったかとおもわれる。いかなる執筆依頼、版元の意向、名声慾や野心、売上や原稿料などの制限からも自由でいられて、おのれが書きたいものを書いて、さらに書いたさきには読者がまちうけてくれているなどという理想的な空間は、なかなかに存在しうるものではない… すみません、なみだぐんでしまって、とうてい作品の感想をこのまま書くことも… うっうっうぅぅ、ぐぅぅぅ… てか紙文さんて女性? 「わたしをこの世のすべてから遠ざけていく」なみだにむせびつつ作品をよみすすめて、ジェンダーな疑問をいだいたが、これこそがもしや作者による陥穽か!? ちかごろ書き手のジェンダーは問わないだとか他人の容姿はうんぬんしないだとかのSNSの風潮はやりきれなくて、へきえきしておりまぁぁぁ~す!!!! かりにフルトヴェングラークナッパーツブッシュの演奏にたましいをうばわれたとしたら、フルトヴェングラークナッパーツブッシュがどんな外貌をしているか熱烈にみてとりたくなるし、みたとたん両者がその演奏にひとしい魅力的な外貌のもちぬしだと気がつくにちがいない。にんげんも顔がいのちの推しとく… かつて三島由紀夫堀辰雄やその読者のことを微温的集団だといって弾劾した。わたくしからみたら作品のネオン看板(イメージ)にくらべて三島本人のエゴもそうとう薄味で微温的だとおもうが、「男女を問わない」「容姿をあげつらわない」風潮もまさに微温的とはいえないか? おなじ微温的にみえる点でわたくしが嫌悪するタレントとして、マツコ・デラックスがあげられる。マツコがきらいなひとなんてあんまいないよというかもしれないが、そこがまさにそれ… きらわれないあんばいの毒舌も、ほどよいジョークも、ひとをたてる謙譲もやさしさも、やつにはエゴをおしとおすほどの自信も才能もありはしないところからきている… うんぬんかんぬんで紙文氏の本作からおもいきり逸脱してしまったが、「月旦」などと面識のない書き手のみなさんの人物評をうそぶいているから必然的にこんなふうになってしまう。 だんだんと文字数制限がせまってきたので、あらたな小説の形式的な可能性については、ひきつづき宮月氏のところで言及したい。

 

 

 

ღ グループF

「回転硝と得難い閃光」ハギワラシンジ氏
ピアノソナタ第8番 「悲愴」 第二楽章」ケイシア・ナカザワ氏
「卵焼きと想い出と音楽と猫」今村広樹氏

 

「Médaille d'or, アジシン!!」はじめの数行をよんだだけで<第7回>チャンピオンは、ハギ神にきめていた。フランス語でHは発音しないから、アジシンになってしまったが、このひとの作品にどことなくバルベックの薫風をおぼえるのは、わたくしだけだろうか? じつのところ純血種なのだろう。ご本人さえも気がつかないあいだに文学の英才教育をうけてきたにちがいない。いまだに運動する文体というものが、わずかな書き手のあいだで命脈をたもっていることにうれしさを感じた。リーダビリティから乖離しながら、じつのところ流行作家とのあいだの距離をたくましく確実につめようとしているのが、ハギワラ氏のようにも感じられる。リーダビリティがリーダーになる素質の意味ではないことに気がついたのはつい最近のことだが、よみやすさだって不変のものであろうはずがない。つねにだれかによって定義があらたに呈示されて、みんながそれに気がついたときのそれがそれ… 「硝」の字がタイトルにつかわれているからか? 「回転」はなんとなく弾道のそれのようにも感じられる。そして作中にえがかれた村落のたいせつな生活や営為にまつわるものではなく、たんに筆者にとっての小説作法ごときに譬喩をしぼるなら、リアルな正攻法の小説(横回転)の書きかたを、ハギワラ氏は早期から英才教育でまなんでいたので、オートグラフの小説(縦回転)をこころざすことができたのかもしれない。カンマ/ピリオドは横書きのものだが、むりやり縦書きでつかわされているんだぜぇぇといいたげな筆者の後頭部に、わたくしがピーナツをぶつけたくなったとしてもむりはないではないか!? さいごに筆者のこの縦回転がじっさいの出版界をまきこんで、こなごなに破壊しつくしたうえに世にもうつくしい前衛文学を、ほかでもない回転そのものの美やスピードで再構築してくれないものかと夢想する…

 

 ひとの嗜好から影響をうけることができるのは、しあわせなことだとおもう。ケイシア氏からはランズデールのすばらしさをおしえられたが、ちかごろ同氏の過去の発表作のタイトルから興味をもって聴いたところ偏愛しはじめたものに "I Will Say Goodbye" があげられる。ビル・エヴァンスなど聴く趣味はもちあわせていなかったが、もうイントロから陶酔感がたまらない… かねてより偏愛するアルバン・ベルクピアノ・ソナタ作品1の冒頭 につうじるところがあるからか? ちがうのはベルクのほうが貴腐ワインの芳醇と頽廃とをはらんで、ビル・エヴァンスのほうはもっと直截的なバーボンの琥珀色のしずくのようなものだという主観をのべたところで、ケイシア氏がスコッチを月光のかげんでバーボンに変容させようとした1ページめの文章から、このたびの発表作にふれる。ベージュの月がみえるまで作品はゆるやかに耽美をまとってゆく。そして月光が、つぎのシーンを照射:「これは私が自宅から見上げる最後の満月となるだろう」の1文に1オクターヴ上昇のリピートが凝縮されて、ベートーヴェンのスコアどおり短調のエピソードがはじまると書いたら、うがちすぎだろうか? なくなった氏の親友のことが、がんのシーンにも反映されているのか? 「恵まれなかった幼少期についての夢を見るようになっていた」たまに堀辰雄を媒介するかたちで、かすかな精神上の血縁のようなものを氏の作品にたいして感じることもある。わたくしはそこから松本隆のながれをくんで、ケイシア氏はケイシア氏でべつの先達から薫陶をうけたにちがいない。おしむらくは今回の発表作は大幅なチョーカーだったらしい。そして作品は5ページめで急速におわっている。ハギワラ氏の作品とともに密度のたかさを感じたから、どちらも6枚でおわらなくてもよいのにと感じさせられた。さざなみのようなコーダの結尾が、ばっさりと削除されてしまっているのではないかと危惧される… なき親友とクサヴィエ・ドランの映画とを照応させながら、すぐれたエッセイも氏は1ヵ月まえに発表している。チャイエスのくだりの赤裸々なリークが、わたくし個人のつよく印象にのこる部分だった。

 

 このたびの今村氏の作品もすばらしかったので、それだったら第5回作品:「秋月国史談『矜持』」だってナイスだったぞと再読したくなる… わずか6行の土岐頼芸がつまり近江の六角領に逗留して、おのれを追放して国をうばった美濃のまむしを憎悪しているやつだが、なぜ秋月だと今回の作品をよみつつも疑問をあらたにした。

 

 

 

ღ グループG

「赤頭巾」宮月中氏

 

 ながいあいだ無形式表現たる小説にうんざりして、わたくしは書く気もなくしていた。そして形式的な可能性をみるなら、このたびの紙文氏と宮月氏との発表作は、みのりがおおいものといえる。おなじように製図化された小品をそれこそ本サークルの参加者がこぞって書きあげたらおもしろいし、「世にも奇妙な小品(小説)」なるタイトルのオムニバスにしたてたら、ぞんがい売れないだろうか? みじかいものが、ちかごろでは売れるらしい。わたくし個人的にそれは悲歎すべき傾向におもわれるが、かつて存在しなかった形式を小説にまとわせる企図としては有益でないものともかぎらない… ともあれ宮月氏の本作をよみすすめながら、カセットを装填してプレイする昭和のファミコンの画素があらいRPGの牧歌的な情景をおもいえがいた。プレイヤーに旅のヒントをあたえてくれる村娘が、スピーチ・バルーンのなかの文章でしゃべっているようなふんいきだし、【祖母】【狼】の並列もそれっぽくないか? おとぎばなしに現代性や世相をにじませるやりかたも、たんなる地の文だけだったら読者はあざとさを禁じえないが、ひなびたRPGふうの情景がそんなマイナス面も埋没させている。まことに小説というものは、わずかなあんばいでニュアンスを生かしもすれば殺しもするナイーヴなものだなと実感させられる… さいごにパパさんは、フーゾクやリフレのようなところにいたの? え、ちがう? わたくしは左利きだからか大半の読者がよみとるオチも、まるで気がつかなかったりするばあいがおおい。さいごにパパさんがどこにいたのかご教示をねがいたい。インセストなものではと邪推もして、オチから正解をひきだせなかったが、「世にも奇妙な小品(小説)」にこんなものが100篇もあつまったら、ベストセラーはまちがいないという気はする。