麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

辛丑但去 :第12回 <六枚道場>

 

 

 

 

 

<六枚道場>が今月でおわるらしい。たまたまtwitterでその告知をみた余人からきかされたばかりで、おわりにする理由もさだかでないが、わたくしにとってはすくなくとも昨秋あたりから原稿用紙6枚の作品は興味のうすいものにかわっていた。どれだけ回をかさねても、ことばは既知の観念連合からのがれることができない… かなしくもWEB上はついに文学の未来をうみだすグラン・クリュ(特級畑)の土壌たりえぬものではないか? けだし20世紀後半は文学が未知の領域にはばたこうとする意思も、ばけものじみた貨幣経済からたえず<商品>の枠内というかレッテルにおしもどされる泥沼にはまりこんでいたようにみえるが、どのみち21世紀のインターネットも貨幣とおなじで非゠日常にむかおうとする文学を、たえず日常の単純話法と生活のなまぬるい皮膚感覚とにおしもどそうとする因襲の逆波でしかないのかもしれぬ。

 

<六枚道場>にとって当初はそれが推進力におもわれたSNSとの連動も、けっきょくは因襲の逆波にすぎなかったのではないか? こいつに拘束されるかぎり原稿用紙6枚の作品はたえず文学性をはぎとられつづけて、ゆるい140文字のつぶやきの日常のおしゃべりの延長からのがれることができない。めいめいの広報機能をべつにしたら、わたくしはSNSに以下の3つの唾棄すべきものしかみることがない──あってもなくてもよさそうなジョーク、自己憐愍、ポピュリズム──いや瘴気にちかいネット上の喧噪を、あれこれとぼやいてみたところではじまらない。なにごとにも、おわりはめぐってくる。ありがとうさようなら、また問うことなく白雲はつきるときなし、「担(ただ)(され)」のひとことがのこる口腔のにがにがしさを、ヴォーヌ゠ロマネ村からとどいたキャピキャピしたピノ・ノワールであらいながす。やかましいことのいっさいを意識から霧消させる花ざかりな薫香が、リヴィングのこの瞬間にたちこめる。

 

 

 

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ღ グループA

 

「青い燈台」のテキスト上に意識をさまよわせて、ただひとつの句:<大客船深きに生る黒あげは>をのみくだしながら、カオールの Vin noir(黒ワイン)ひとしずくの陶酔にひたるが、「部屋」は全読して鍵盤の階調をたんのう♬「死んでいる場合か」はつぎの1首:<凍蝶をつれた仔猫よ>にひきこまれつつも “今いずこ” を自分なりに書きかえてみたい欲求が大爆発!!!! 「読みかけのディケンズ」は既知的で古朴。ちなみに数ヵ月まえから、もはや投票機能にはかかわっていない。

 

 

 

ღ グループB

 

「黒い靴のままで」をなぞりながら、こちらの感性はいつしか中原中也がだいきらいと公言してはばからない宮本浩次の反俗におりかさなってゆかなかったか? 「読みかけのディケンズ」のドードーのリフレインのほうは、すなおにうけいれていた。たぐいまれなる詩人なのだろう。マダム草野、いままでありがとう。

 

 

 

ღ グループC

 

「マグロ大王殺し」はことばが未知の観念連合をめざしていながら、わたくし個人としては上述したSNSのジョークからのがれきれていないような不審もぬぐいされなかったが、「劫火の終わりに摂氏世界を孵化させる、再生と順接の神、環化su蛾花」はそれとは正反対にことばの錬金術がいつにもまして様式美をほこって、ひときわ妖艶に完成されつくしたものにみえたし、「読みかけのディケンズ」もいままで以上にリラックスした筆致でほおぉぉと感心させられる精緻がさりげなく、ここちよい。ともあれ当グループの諸兄も、いままでありがとう。

  

 

 

ღ グループI

「読みかけのディケンズ」Takeman氏

「読みかけのディケンズ」成鬼諭氏 

ღ グループJ

「宇宙作家ディケンズ」小林猫太氏

 

 さいごにこうやって3賢人の玉稿をたてつづけに拝読すると、なにやら小説とむきあうよりも寄席でふんぞりかえっているような気さえしてくるが、「本を読まない僕でも知っている」の前口上とはうらはらに、フー・ダ・ニット形式によるディケンズ作品:“The Mystery of Edwin Drood” から興趣をひいたTakeman作品は、しかしながら3賢者タイム中でもっとも文学的でなおかつ本サークルの有終をかざるにふさわしい清新やせつなさをたたえていた。モーツァルトのKV. 595のロンドからきかれるような愉悦/哀感:然り、揺らぎ」における異星の神が、はたして作中でいかなる意味をもつものか? 「異星の神は既存の宗教をリセットさせるための手段」なる答酬をいつぞや作者Takeman氏ご本人からいただいてうれしかったが、「二週間目の暗黒茹で卵」「prey and pray」をはじめとして、いやぁぁ~もう毎月たのしませていただいた。このたびもラストの2行は、スタンダールのそれに比したくなるものでした。いままでありがとうございました。

 

 

 

 

彼女のあそこが眩しくて(一徳元就師)なる神代煽情文学®から不感症にさせられて、ついに恢復のみこみはなかったが、おもえば原稿用紙6枚作品の──これがやはり極北だったのではないか!?  「6枚」とは小劇場のようなもので、ストリップ小屋にもなれば口からでまかせの寄席や浅草ロック座にもなる──いや不屈の不退転のかくごがあれば反゠文学をつらぬくこともできるのだと元就師匠からおしえられた<道場>ならぬ6枚劇場:「読みかけのディケンズはまさにそんな口からでまかせの韜晦のすごみが、もろにでていた。それかあらぬか高座からは反゠文学的(アンティ゠ディレッタント噺家のそれではなく、ペトリュス・ボレルのごとき半狂乱の眼光のむしろ詩美にもえたつ火箭がふりそそいできて、わたくしは威伏しつつも愉悦にはずんだしだいだった。じつに元就師父からは、おしえられることがおおかった。いままでありがとうございました。

 

※「げんなりボール」「猫太侍」などの小道具をもちいた6枚作品を、わたくしは旧年中にはやくも脳裡でしあげておりましたが、<六枚道場>管理人はプライヴァシィ上の危険性でこれをとうてい掲載してくれないだろうとの憶測から、ついに脳裡からひきだすこともなくおわりました。いつか私家版として献呈させていただけたら、さいわいでございます。

 

 さいごはその猫太侍じゃなく小林猫太氏のお作品で、およそ1年のあいだ運営がつづいた本サークルのための拙文をしめくくる。ジャッキー・チェンの映画にでてくるクンフー・マスターのような鍛達の筆致が、つねに躍動していた。このたびも文章はすばらしかった。わたくしは毎日文章を書くトレーニングをつんでいない。それどころか書くのは月にせいぜい数時間だろう。しかし毎日のトレーニングをつまないことには、かかる猫太氏のような筆致はとうてい身につくことはない。あとはその達意が、おおいなる主題をとらえたときだ。まっている。ネットからとおざかった当方のような人間の耳にも、きこえてくるくらいの大爆発:『少林サッカー』のごとき巨篇のうぶごえが猫太氏のペンからあがって、すめらきの島国をその爆音でゆるがす日がくることを、たのしみにまちつづけております。いままでありがとうございました。

 

  かかる3賢者タイムとあわせて、さいごに紙文氏、宮月氏、ケイシア氏、中野真氏、いのり氏などのお作品にふれられなかったのはさびしいかぎりだが、しかたがあるまい… なにごとにも、おわりはめぐってくる。ありがとうさようなら、また問うことなく白雲はつきるときなし、「担(ただ)(され)」のひとことがのこる口腔のにがにがしさを、ボルゲリからとどいた奇蹟のしずくでうるおす。さるにても本サークルがなくなってしまうと、みなさまのお作品にふれる機会もなくなってしまう気がしてならないが、いずれ巨大な跫音がきこえてくる日をたのしみにまっております… Je vous remercie tous, et BON COURAGE!!!!

 

 

 

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