麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

略人疏註 :第10回 <六枚道場>


 

 

 

🎤 カラオケバトル

 

<六枚道場>は年1回のいわば一過性のイヴェントとちがって、たえず原稿用紙6枚の言語表現が有効かどうかの自問自答もつづけてゆかなければならない… たんなるサークルだぜ、だれが自問自答するかよ? あっちが年1回ならこっちは月1のイヴェントさと鼻でわらう筆者/読者もいるかもしれないが、はやくも年の瀬がちかづいたことだし、ひとつ根本から原稿用紙6枚の表現をみなおすことにして結論からさきにのべるとするなら、コロナ世界よろしく展望はあかるくなさそうにみえる。

 

「均質性」「既視感」などの表現を、およそ1ヵ月まえに本家ブンゲイ(どうにもこうにもやはり “ブンゲイ” のカタカナやBFCの3文字は苦手でどぎまぎしちゃうから、つぎから同名称を “本家” の2文字であらわすことにする)作品群にたいしてM*A*S*H氏や紙文氏は、ひと月ほどまえにそれらの表現をもちいながら、サイレント読者のおもいを代弁しておられなかったか? 「均質性」はそこに撰者が介在するからというばかりでなく、ぞんがい原稿用紙6枚の表現と密接にからんでいるように推察される。いうまでもなく6枚は、みじかい。みじかすぎる。ぶっちゃけ書くのも読了するのも、たやすい。たやすさはときとして他人のイディオムで水をながすような安直さにもつながって、つづられている文章は書き手の半径30㎝から手づかみにされてきた横着なものにみえることもしばしばだし、「既視感」はおのずからそこにそなわるもの… ささっと名刺がわりに書けもすれば一読もできる利便性になおかつWEB上公開+SNS連動ゆえの反響の即効性もあいまって、わたくしが現時点でたくさんの書き手とつながることができたのも “本家” の原稿用紙6枚のインヴェンションというかイノヴェイションのたまものだということは、どれだけここで感謝しても感謝したりないほどの事実なのです… ありがとうございますと明言しておかなかったとしたら、フェアではあるまい。ありがとうございます。めぐりあえたしあわせは、ひとえに原稿用紙6枚および惑星と口笛ブックスのおかげです。ただし利便性によって喪失/剝奪されるものは、かならずや存在するはずだということも明記して、つぎにすすむ。

 

 はじめに原稿用紙6枚の表現のファイトときいて、もろこしの武術の百家争鳴のようなものをイメージしたひともすくなくないにちがいない。そこには南船北馬よろしく戳脚翻子拳もあれば燕青拳もあれば回教心意六合拳もあって、トンファもあれば棍術も刀術も黄飛鴻の無影脚も極真カラテも西欧わたりのコマンドサンボ、サヴァト、ルタ・リブレもみられるかもしれない。つまり小説、詩、戯曲、都都逸、まんがなどが、ぶつかりあうエキサイト… ふたをあけてみたら、そんな絵そらごととは無縁の散文空間:「均質性」はたしかに昨年よりも顕著だったが、わたくしはそこに原稿用紙6枚の表現の根幹や限界をみたような気がした。カンフーのごとく小説や詩や戯曲がわかれて独立した身で、ファイトするのではない。それらのジャンルというか要素は、ひとつひとつの作品のなかに融合されている… みじかさは小説を書くばあい一面では困難さにもつうじる。そして原稿用紙6枚の小説はその困難さからのがれるために詩にあまえる。いっぽうで詩にとって6枚はひろびろとした空間だと錯誤するなら、そこには小説にあまえた寓話や散文詩になりがちな危険性もかいまみえる。わたくしは五味康祐のあの凝縮された傑作「喪神」が原稿用紙6枚でつづれるなら、すこしはその枚数の可能性をみなおすかもしれない。しかし6枚でそれは、ぜったいに書けない。つまり6枚は凝縮させるためにさえ不十分な分量だし、もとより作品をカタルシスにみちびくことはなおさら不可能な枚数といえる。

 

 さても原稿用紙6枚がおちつくところは、おおむね小説未満でなおかつ詩以上のいわば東武ワールドスクウェアのごときミニテュア・パークか? ひとつの作品のなかに小説や詩や戯曲が融合された新機軸といったら耳ざわりがよいが、どっちつかずのしろものの大量展示といったら蝗害にちかいイメージがうかぶ。つまり無自覚なものにとって危険きわまる死角から、ジャンルが溶解する。ジャンルが他ジャンルや他人の書法にあまえて、くだんの名刺がわりにうってつけなコンパクト性や(既視的なイディオムの)通気性のよさをアピールして、ピリオドのさきまで空気をよんでくれそうな読者にあまえる… 「愚者たち」によせるM*A*S*H氏や紙文氏のコメントにそそられて、さきほど作品そのものを一読してみた。うまい。まちがいない。ただし讃辞だけですまそうという気にもならない。どうも原稿用紙6枚の小説のうまさというものは、カメオのレリーフっぽい浅薄さとほとんど致命的につながる気がしてなりませんやとぼやきたくなる。そして勝ちまけをきめるイヴェントの応募作でまじめに書きすぎですよ、やぼですぜと野次をとばしたい気分にもなってきた。

 

 われわれの身になじみはじめた原稿用紙6枚の勝負ごとは、カラオケバトルにちかい。たまにTVでそのたぐいの番組をみて、なんでこんなのばっかりが勝つんだ!? <六枚道場>のあの投票結果などをみるにつけても狭量なわたくしはそんな反撥でいきどおってきたことが、はっきりといまになって想起されました。ひとの楽曲をひとの歌唱法で、コンピュータの採点に気をくばりながら、やけに真剣にうたいあげるバトル… 「均質性」「既視感」しかり原稿用紙6枚で書いて、ファイトすることはいまやオリジナルの殺傷力をぶつけあうことではなく、むしろ既存のフォーマット(仮面)にいったん自分をおしこんで、どれだけ闊達にどれだけ声量たっぷりに表現しうるかを、スコアでせりあう行為にちかいんじゃないか? なんで新妻聖子とかいうのばっかが勝つんだよ、みんな耳がおかしいんじゃないか!? ながい小説をアップするよりも現状はこの界隈で原稿用紙6枚の小説を投稿したほうが、おおぜいの読者にめぐまれるかもしれない。しかしミュージシャンがステージではなく、カラオケでうたうところばかりを聴かれて、いったいどれほどの意味があるのだろうか? <六枚道場>はだんだん巨大化していって、かえって存続する意味がなくなってゆくんじゃないでしょうか? およそ半年ほどまえにそれを問うてみたら、ぼくはむしろ継続するごとに作者というものの存在意義がどんどん稀薄になって、おびただしい作品群がおたがいに近似しあって巨大なひとつの表現にかわるような未来をこの眼でみてみたいとおっしゃられた紙文氏:<道場>の書き手はなるほど自他の作風の垣根もこえて、おたがいの領分を浸蝕しあいながら、ボーダレスに溶解しているようにもみえるではないか!? 「既視感」の重量がわたくしの両肩にのしかかってくるばかりなのは、ネット上にいまや厖大な6枚小説が公開されていることと無関係ではあるまいし、<道場>第10回作品群をよんで蚊がなくような寸評しか口からもれでてこないのも、ほかならぬ大量アップ下の眼精疲労がひきおこすデジャ・ヴにさいなまれたすえのことだろう。

 

 

  

 

 

 

ღ グループA

「ことば」星野いのり氏

 

 せみしぐれから、わたくしの脳裡にまさに殺陣のスリルがひろがる。ことばではなく、こと刃とつづりたくなる… 「こわい男よ」うしろすがたを遠眼でながめただけで、どれほどの剣をつかうかがわかる。みごとな凝縮が、ここにある… こと刃はまだ鞘におさまっている。しずかにおさまっている。ひらめいたとたん読者は斬りはらわれて血けむりをふくような居合の殺気が、ここからゆらいでいる。わたくしは俳句にたいして文盲なので、この余は言及することができない。ただし厖大な6枚小説から圧迫された意識には、みごとさはよけいにきわだって映じるので、ひとこと本作について書きそえずにはいられなかった。

 

 

 

ღ グループB

「ノン(ノン)フィクション」紙文氏

 

死に神の夢」も拝読した。わたくしにとって本作とともにそれが興味ぶかいものになるのは、とりもなおさず人類にむかって死刑のらっぱ Tuba mirum をふきならす天使のむれの “王国” のものがたりとして両作が1冊の書物におさめられるべきときにほかならない。ベストセラー作家の筆名も万事終了の音につうじそうで、すがすがしいほど逆説的なユートピアにふさわしい。いっぽうでアイドルが演じるTVドラマのくそ芝居のようなリアクションをくりかえす話者には、ラオウの天将奔烈やケンシロウの夢精転生をあびせたくなる。それにしても書けば書くほど紙文作品がどんどん闊達になっていって、カラオケなら高得点につながりそうなクォリティをほこっているのはまちがいない。そろそろ圧倒的に不利なネタのもとで潜在能力をしぼりだすような作品を、うたえないキイでうたうような逆にご自身がやぶりすてたくなるほど不自由な作品を、しどろもどろで書いていただきたいともおもう。アンダーフロウな世界にうってつけの書き手だときめつけて、つぎの至乙矢氏につなげる。

 

 

 

ღ グループD

「オーバーフロー/A」至乙矢氏

 

「墓場軌道」から注目している。このたびも、うまい。いつか至乙矢氏の博識が、わたくしの既視感をうわまわった作品をしあげてくださるような気がする… したり顔でAはアキオくんだろうなどといったら、さむいだけかもしれないのに書かずにはいられなかった。

 

 

 

ღ グループE

「prey and pray」Takeman氏

 

 よみごたえは、いちばんだった。ただし一撃一撃のダメージや痛みとともに既視感が、こちらの意識におしよせてくる。むしろ本作は書き手が、みずからの精神にきざみつけようとした墓碑にちかい内声にみちたもののような気がしてならない。とびちる血しぶきは、ワイン… ひしゃげた顔の肉は、ステーキ… なぜかフィレンツェで肉汁がしたたるビステッカをほおばりながら、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノをかたむけたほどに甘美な読後感がある。ほどよい詩情が既視感からたちあがるのは、はたして本作の美点ゆえか弱点ゆえかとかんがえあぐねる…

 

 

 

ღ グループF

「クロージング・タイム」ケイシー・ブルック氏

 

 ちかごろ原稿用紙6枚の小説なら、ほぼ3分間でよみおわるようになった。はじめの数行でこれは無用なりと判断したものを除外しながら、したがって1時間もあれば全グループを完読できる。うわすべりしているほど饒舌なかたりくちのものがおおいなと今回はいささか閉口したが、さすがに自身の “声” をもつケイシー氏のそれは底光りしている… ひとめをひくだとか尖鋭だとか巧拙だとかとも、それはちがう次元の問題のような気がする。とどのつまり自分の “声” をもたぬかぎり書き手は、フォークナーの仮面をかぶろうがボルヘスのものまねをしようが押切もえになろうが、わざわざ小説をつづるべき用もないのだ。ネット上にそんな無用の星くずがちりばめられておるなと感じた師走の第1土曜日のひるさがりが、マンスリィ・イヴェントのわがクロージング・タイム…

 

 

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