麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

略人疏註 :第2回 <文藝擂賽>

 

 

  

 

✍ はじめに

 

彼女のあそこが眩しくて(一徳元就師)なる神代煽情文学®から原稿用紙6枚の小説にたいする不感症にさせられて、いまも恢復のみこみがない。なにがどんなふうに書かれていようが、ぜんぜんOK☆ぜんぜん感じませんの巻。ねらっていた女の子のなにげない表情から、とつぜん自分の父親とか弟とかに酷似したものがみえはじめて、いくにいけない懊悩にもつうじる E. D. 感☞「吉美駿一郎 vs ハギワラシンジ/レフェリー紙文」のおもむきで本稿をすすめたくても E. D. げんなり病のそんなこんなでパッションはわき勃たなくて、さなきだに未読の吉美作品は毎度のごとく大伽藍に比すべきものではあるまいか? 「幻の魚」は数日まえに読了して日本語につばさがはえた作品だとわかっているから、いっぽうは読者がことばをさしはさむ余地すらないかもしれない堅牢無比のしろものなら、もういっぽうは読者がことばをはさむのが不粋におもわれる作品というわけで、いずれにしろ難儀なものよと歎じつつも感想はのべさせていただくって約束しましたからね… 

 

全体を読んでもらえる筈という創作上の前提が、既にプロとしては甘い。自動的に先へ先へと進んでいく音楽や映像作品と違い、小説は受け手が読むことを面倒に感じた瞬間、いったん終了して、そこまでの作品となってしまう。

 

 ついさきほど紙文氏のRTで眼にした文章だが、ひるがえって自分がくりかえし賞翫して倦じない名品は逆になぜ自律的にすすんでゆく音響映写にちかづいて、なぜ美酒のように自然にうっとりとさせてくれるのか? わたくしにとっては五味康祐柳生諸篇などがその名品にあたる… まずはこのあたりを該当の名品から、いったんは対岸にもどって再考するなら、とりもなおさず初見の作品は未知のことばの羅列でなりたっている。それらを苦心惨憺のすえ咀嚼して解析して読了したあかつきにうかびあがる全体像から、なんだ過去にいままで何度もくりかえし表現されていたことが、ここにも書かれていただけじゃねーかという幻滅や徒労をあじわいつくしてきたことに気がつかされて、ひゃっぺんどころか千篇万篇のそんな徒労や幻滅にみちた読書体験からすくいあげられた稀有なものゆえ名品はおのずと音響映写にも美酒にもちかづいてみえるというもの…

 

 もっとも上掲のRT文章はおめーらの作品がつまらなけりゃ数行でほうりだしてしまうのが読者だぜ世間だぜといっているのだろうが、ほうりだされまいと1ページめから商品化につとめる作品もかえって底がわれて興ざめだし、「あたらしいことにガンガン挑戦していきたいです」というアイドルのせりふとおなじくらい<新作>にいまや猜疑のまなざしをむけるばかりな読者もすくなくないのではあるまいか? やぶれたらこまる下着やなくなってこまる惣菜などは量産しなければならないにしろ小説はわが家に10冊もあったらうんぬんかんぬんとつぶやく E. D. げんなり病の読者が、ともかくもそんなこんなで吉美作品をひもとく… さいごにブンゲイというカタカナやBFCの3文字は、なじもうとしても1年ごしながら肌になじまなくて、どぎまぎしちゃうから文藝擂賽なんて書きかえてしまって、ほんとうにすみません。 

 

 

 

 

「盗まれた碑文」吉美駿一郎氏

 

とりあえずマヤ文明に紙は無かったのではないかと思った」じつは本作をよむまえに紙文氏のRTで加藤晃生氏のさまざまな指弾をまのあたりにして、おそろしや加藤先生!!!! ならぶものなき博覧強記にいたく感心させられたが、「紙は無かった」の6文字をわたくしはうかつにも無文字文化というふうに誤読:「マヤ/聖典」の2語でGoogle先生におたずねするところまで未読の段階から別方向にめがけて驀進すると、ポポル・ブフなる聖典にたどりついた。あと2、3歩ふみこんだら真偽はさだかになるともおもったが、「どっちでもいいじゃん」という内心の声がそれと同時にこだましはじめた。アマゾンのジャングルの葉っぱの枚数だか蠅の翅の枚数だかまで都内下町の書斎でしらべあげたとうそぶく小栗虫太郎ふうの虚実ないまぜもゆかしきもの。スマートフォンでだれもが検証しうる現代において小栗流のはったり芸を、こんにちの書き手がそのまま継承してよいわけではないのはいうまでもない。しかしiPhoneをもっているだけで、たいていの読者はいちいち記述のその真偽をたしかめたりしない。たしかめないからよいわけでないのはもちろんだが、「どっちでもいいじゃん」の声にはとうてい抗しきれない… ここにいたってようやく本作をよみはじめた。そして未読時にいたく感心させられた加藤先生のご指摘が、なにやら見当はずれな数箇所をつきまくっていることに気がつかされた。

 

「石板と石碑がおなじものを指すのであれば」うんぬんの加藤先生のご指摘も一読後は石板に詩がきざまれたものが石碑なんだろうし、「怪異の仕業」によって佚文にもどされたものが石板なんじゃないの? 「何の説明もなく突然3枚めの左ページで石灰岩が出てきて、壁とかコの字とかいう話が展開する。これは不親切」のご指摘にはニヤリとさせられて、さこそあらめ小栗ならここで補足の挿画をもちだす段:『黒死館殺人事件』のそれをわたくしもいまや欣喜雀躍しながら、まってましたとばかりに青空文庫さまから拝借仕候。こんな見取図をみせられたって、ちっとも読者の理解はふかまらないのに披露するのが小栗流なのだった。

 

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 「同じ人物を指すのに『王』『月の火』を使い分ける必要は無い」のご指摘には作品の風味づけでしょうなあ… おなじ作品のなかで上杉謙信のことを不識庵とか大僧都とか荷風散人のことを金阜山人とか書きかえたくなっちゃいません? 「手をあげると翡翠の腕輪が鳴った」「黒髪の波間に、銀が現れては消え、現れては消えてゆく」「皮膚を貼った碑」なんて本文の描写はラストまでリアリスティックでなおかつロマンティックでみごとですよ。ただし第九代王としか情報があたえられていないのは不満ちゃー不満ですね。マヤ文明にも〇〇王朝だとかの時代があったんでしょうから、ぐだぐだとそこは起源や縁起のうんちくをつけくわえてほしかったですし、わが小栗ならかならずや月の火にもカタカナで強引なルビをふったはずですよ… ここで年代をさだかにしなかった作者はもしや寓話化したかったのでしょうか? わたくしは寓話なんぞという深窓の令嬢みたいなものはいやです。ましてやファイトするための応募作品なら、いっそう寓話性なんて排除してほしい。ところで先生はおのれの詩句にそんなすごい魔力があったら、マヤ王から詩人が殺されることもなかったのにというふうなことをおっしゃりましたが、「死」が幽憂する詩人にとって浮世よりも忌避すべき悪所だとはかぎりませんよ。だからこそ妻の髪をなでる詩中のシーンが、なぞめいて預言的にみえるのかもしれないざんすよ…

 

 かかる加藤先生との架空のやりとりをつづけながら、はずかしいことに再読・再々読しても自分がまたもや誤読していた箇所に気がついて赤面したしだいだが、いったいどうしてマヤ王月の火は処刑するまえに詩人の両腕をぶったぎったのか? ぶち殺すなら切断は不要じゃん? 「彫琢」の2文字がつまりは脳裡にやきついて、そっちは詩人じゃなくて彫刻家だったことにさえ気がつかなかったのだ。ひとさまの作品に言及することは、のろわれた所業だとおもいしらされた。そして所業におびえきった口から、まえもって結論づけるべく本作はみごとな幻想小説だと明言しておこう。

 

スカルラッティが "Già il sole dal Gange" でガンジス川を持ち出したような素朴なエキゾチシズム喚起の小道具という可能性も無いではないが、そんなオールドスクールな道具立ての作品がブンゲイファイトクラブという文学の」うんぬんは本作の未読時にことのほか刺戟をうけた加藤先生のおことばで、モーツァルト後宮とかをひきあいにださないところがよいよなとおもったし、「それどころか(舞台は)古代の日本列島のどこか、でも良いくらいなのだ」「現代のマヤ人への仁義をどう通すか」のくだりで本作にたいする先生の言及をば完全にわたくし自身のことと混同:「紙は無かった」を無文字文化とよみちがえたゆえんだった。それというのも無文字文化圏の西域わたりの蘇我氏記紀萬葉集をでっちあげた朝鮮わたりの天孫族とのアウトレイジが秘せられたまま現代日本人のDNAにつづられているというのが、わたくしの祖国観の根柢で、いつか加藤先生からおしえをこうてみたいという冀願もよびさましたわけだが、「紙は無かった」「現代のマヤ人への仁義」などはロマン主義のみごとな幻想小説たる本作にたいして見当はずれな指摘、要求、いちゃもんだということは一読後にもはや明白だった。くりかえすが、わたくしは本作をみごとな幻想小説だとおもっている。

 

<六枚道場>なら、ここで感想はおわっているかもしれない。ただし本作はファイトするための応募作品なのだし、わたくしも本作とセメントでやりあわなければならない!!!! 「現代のマヤ人への仁義」などの難癖もあずかりしらない高次でそれは静謐にみごとに完成されている作品だからこそリング上のはげしい要求をつきつけたくもなる。くりかえすが、みごとに完成された作品だとおもう。しかしファイトするなら、おつにすまして完成されてはいけないような気もするのだ。マヤのいつの時代とも現代ともふれあうことがなく、ロマンの香気のなかに本作はたゆたっている。ヴィリエ・ドゥ・リラダンのコント・クリュエルにおさまっていたとしても遜色がないようにみえるが、『サラムボオ』『聖アントワヌの誘惑』のフローベールなら空想からでっちあげた異常なまでに精密なリアリズム世界を、ロマンティシズムはおろか “現実” をつきやぶったさきの異次元にまで敷衍させるのではないか?「手をあげると翡翠の腕輪が鳴った」の1行にさらなる過剰にいかれた数ページの描写をつけくわえたような気がする。それで吉美作品も6枚におさまらなかったとしたら、すなおに破綻すればよい。まずは原稿用紙6枚の “現実” をふみつぶす。よくできたものがたりだということはまちがいないが、よくできたものがたりを書いているばあいじゃないぞ、ファイトするんだと発破をかけたくなる。ものがたりは自己をまことしやかに表現している輪郭線のすべてに猜疑の視線をくれながら、いっぽうで輪郭線たちもその本体の<真実味>にうたがいの眼をむけている… とうぜん作品は6枚のなかに視像をとどめることができなくて、ことばはぶれてよじれて支離滅裂になるだろう。わたくしはそんな地獄のバトルがみてみたい。ファイトする相手は他人じゃない。ほかの書き手のことなど知ったことではない。なによりもまっさきに自作が “現実” にぶつかって、ロマンの幻想のなかに退嬰するのではなく、ひしゃげて破綻して、よくできた幻想小説なんて19世紀の西欧人がそれこそ在庫過多なほど書いてるじゃないか!? 「現代のマヤ人への仁義」をだれからも要求されていないのに錯乱、暴虐、卑劣、嘲笑でおしとおすような破滅作をよんでみたいと切実におもうし、「天狗の質的研究」「群」などはもっと尖鋭で狂気にみちたものではなかったか? ねがわくばファイトするための全応募作品が “現実” をつきやぶるべく破綻して欠損して膨張して歪曲して諧謔して韜晦して卑下して、ふざけきって発狂して軽薄へらへらで自爆する作品だったらよいのに… わたくしも加藤先生とおなじくらい本作にいちゃもんをつけたかたちだが、だからこそ1文1文がその作中にけっして定着することはなく、つばさをひろげて上空にまいあがって、つねに作品をだいなしにしようとする衝動をはらんだハギワラシンジ氏を推したがるのかもしれない。なぜだか毎度のごとく猛スピードでつねに “現実” の壁にぶつかって、ひしゃげて、ひっくりかえった車輛をイメージさせるハギワラ作品は、いっぽうで自身のなきがらから天使のつばさをひらひらとさせて、こともなげに時代からはばたいてゆく。

 

 

 

「小指を見つめる」吉美駿一郎氏

 

  つづく本作は、テキストにずいぶんと私的な要素をふくんでいるような気がした。インターネットに敗北した小説家なる種族のことも、なかば無意識にとりあつかわれている心理的自伝… けさ4、5回ほどの黙読のすえに脳裡にうかんだ全体像は、ミステリ+幻想小説のなおかつ内実は散文詩というものだった。 おもてむきはローレンス・ブロックやJ. R. ランズデールにならったような輪郭:「広島県南部」の設定にもかかわらず貧乏白人をとりかこむ土壤をイメージさせるし、「一九八二年七月二十八日」が誕生日でありつつも実質は50年代うまれの主人公がふさわしい翻訳調のアナログな空気感につつまれている。メルセデス゠ベンツの男なんかもまさに恰幅がよい富裕層の白人をほうふつとさせるが、じつのところ作者はこれとて共政会幹部のすがたなどをあてはめて書いたというようなこともありうるのか? 「小指をつめる」稼業のはなしといったらジョークがすぎるが、「アメリカの媒体に聖書研究についての文章を発表、原稿料で糊口をしのいだ」「それらのエッセイが彼の手による翻訳で収録された」などの説明から罪人はともかくも英語にたんのうで日本語のほうも一定水準の文章力のもちぬしだとみられる。「五人兄弟の長男で、そこそこ明るい少年時代を過ごした」

 

「彼の人生に陰りが生じるのは」うんぬんから彼はまさにその人生のスタート・ダッシュをきることになるが、「弟が死んだのに何も感じない」おのれの空洞性をまわりに転嫁しながら、まわりにもその空洞性をおしひろげてゆくしかなかったのは、そもそも宗教売文業のこの男がことさら空疎な25年の半生をすごしてきたせいではないか? 「ベンツの持ち主、弁護士、弟の同級生三人」はみんな弟がそこで蹂躙されて、もがきながら、とびおり自殺でのがれさった生き地獄にかかわる連中といってよい。もっと端的にいうなら弟の生死のなかに包有される人間たちだった。まちがっても兄たる彼の人生からとびだしてきた連中ではない。さらに両親にしたって弟の自殺とともに弟の人生が所有するものにかわっていたから、あやめたのかもしれない。アメリカの媒体での寄稿をなりわいにしてきた男は広島のどこかで自己をむなしくしながら、よその国のことばで稼業をこなしつづけるライティング・マシンにすぎなかった。

 

 およそ信仰者は紀元前から無限に四季をくりかえしてきた循環型時間と、イエス゠キリストの磔刑から信仰者みずからの “現在” まで運命的にのびてくる直線的な時間とを、ふたつながら同時に生きていることになるが、「本当の私と尾道秋をつなげているのはただの偶然です。わかってもらいたいんだけど、本当の私を見つけたら永遠の生命を得られるんです(中略)たとえ肉体が滅んでも本当の私は生き続けることになる。つまり、永遠の生命を得るためには、本当の私を見つけなければならないってことです。私は私を見つけなければならないのにそれを盗む人がいる。だから私は、本当の私を盗んだやつらを殺しました」の告白によって彼は循環型時間を “偶然” とよびならわしながら、からっぽの自分に気がついたとたんイエスからのびる直線的な時間をさがした。そして火中からひろった栗のような信仰を永遠の生命だの精神だのと称揚しながら、むりやり直線的な時間のその軌道にとびのるために数人を殺害のやりかたで排除したことにもなるかもしれないし、「偶然のない世界はキリスト教でなければ生れなかったとする、黄金時代のミステリ論。第二次大戦後、偶然が存在するようになった世界で、それでも悲劇だけは偶然以上の力が働くのだと提示したロス・マクドナルド論」をこれまで空洞゠無信仰のいわばライティング・マシンとして書いていたにすぎなかった男が、たまさか弟の自殺でようやく内部の空洞にいれるべき信仰をみいだしたというプロセスにもつうじないだろうか?  「弟が死んだのに何も感じないのは」ほんとうの自分がぬすまれたせいだといって連打する倚音のもとに弟にちなんだ人間たちを殺しながら、とどのつまり彼自身がなき弟の人生をぬすんで、イエスからつづく直線的な時間のその軌道にとびのったようなかたちとはいえないか? 「彼の頭はしびれた。ベンツを買う金などどこにもないというのに」

 

「投獄されて十二年目の夏」にみられる省略は、もとより枚数制限から要請されたものとはいえメリメの短篇のようなセンスが光る。ところで信仰の圏外で定義される精神は、おのれの肉体をかたちづくっている原子のエントロピーに反撥する無数の蜂の翅音やさざなみのようなものといえるかもしれない。そして世界にはやはり世界をかたづくる原子のさざなみがみちていて、ひとりの人間の死後はその精神も世界のさざなみのなかに還元されるだけのことだろうし、まちがっても死後に1個の精神がそこにのこるとはおもわれないが、「神」を信じる精神にかぎって残響しつづけるのか? 「延長コードは誰のもの」でひきあいにだされる萩原朔太郎散文詩には自己をくらいつくして消滅したあとも不可視の存在として生きる蛸がえがかれていた。それは精神よりもなにか妄執や怨念にちかいものだった。ところで罪人のこの短篇を所収しつつ上梓された書物の同総題には別してクェション・マークがつけられているところは芸がこまかいし、「死なない蛸」によって罪人をとりまく言語もようやく英語から日本語にうつった印象をうけるもののアメリカのローカルな空気感はきえていない。マット・スカダーの哀愁のままに幕をとじることができたらよいが、「尾道秋」は80年代のうまれで刑務所の “現在” もどうやら2020年らしい。オールド・ファッションのハードボイルドには似つかわしくないネット回線が、アナログのうしなわれた地平にも無粋な延長コードをのばしていた。

 

 こんにち読者の声がスピーディに書き手の耳にとどけられるSNSなどは利便性にみちたものだが、いっぽうではその利便性というか日常レヴェルの短絡的な結合によって書き手の機能をおそろしく退化させる宿命もはらんでいる… たえず端末画面をのぞきこんで、イヤフォンで耳をふさぎながら、ゆきかう雑踏のなかでも自分のちっぽけなエゴに閉塞する “現在” のひとびとをながめていると、うまれつきの機能とか触覚のひとつやふたつは退化させられているだろうと感じてしまう。つながろうとするまえから短絡的にネットで読者とつながっている書き手は、アナログだった時代のあの孤絶された個が生きたまま外界とつながろうとする書き手からはなたれた精神のエネルギーをうしなっているかもしれない。ネットの進化のぶんだけ小説そのものはむしろ退化したかもしれない。ネットに小説は敗北した。ネットは刑務所さえも孤絶させておかないで、そとの世界とむりやりコネクトさせてしまうだろう。だから小指をたべるという行為が、みずから外界とつながったアンテナをくいちぎる小説家というアナログの種族のいわば無意識における反骨のあがきのようにもみえて、すがすがしい。うまれつきの触覚をネットから退化させられて、うしなってしまうようすを小説家そのものが、あるいは被虐的にえがいた文字どおり精神的去勢゠最期… もっとも作者の吉美氏がまるきり意図していないどころか見当はずれもはなはだしいところからの感想かもしれないが、「歌声が消えてしまう間際。目覚める直前に忘れた夢。残照。それらに似た何かが」には作者の心理的自伝がぬりこめられた文字どおり散文詩のふんいきが濃密だし、「独房を通過すると、新人は己の小指を見つめる。もちろん毎日。一日も欠かさずに」の散文詩のおもたさから脱したような循環型時間の1行でしめくくられているところにも名匠のわざをみるおもいがする。そして名匠がつねに名匠のわざをみせる吉美作品から感じはじめた一読者のいらざる懸念については、あくる月にでも別稿で書きつぐことにしよう…

 

 

「幻の魚」ハギワラシンジ氏

 

 ここから眼をとおしはじめたハギワラ氏ご本人は、おそらく記述を理解しがたいとおもわれるので、お手数でも120行くらい手まえからなぞって、ここにもどってきてほしい。すると貴殿の小説のことばは不確定性にゆらめきつづけて、つねに失敗作におわるか空前絶後のしろものになるかの境界線でぶれているとみなす読者がいることに気がつくであろう。このたびの作品も、ことばのひとつひとつが蜃気楼だよね。しかし読者があまり作中にことばをさしはさもうとすると、かえって化学反応をおこして霧消してしまいそうな気がするので、ソーシァル・ディスタンシングですが、「竹みたいな甘い匂い」はいいよねえ… はなれぎわにアーネスト・ホーストのハイキックが、スコ~ンとこちらの後頭部にのびてきたような気がする。エスかっちはエスカルゴなんだろうなんて確認しちゃ不粋なんだろうし、「ワシ」かにカニかに? 「水死体から死だけ取り除いたみたいで」もばつぐんだな… いけにえからえぐりだされた心臓が、カニ神のための祭壇でぴくぴくと痙攣しているような作品だった。

 

 かつて日本の芸術表現にいちどとして前衛なんぞというものは存在しなかった。ものまねばかりだった。ダダにしたって日本のダダイストは、ダダっていってパリやベルリンでこれは芸術的にみとめられたものなんだよ的にカッフェーの女給をくどく目的でやってただけだろう、ば~かとゲスのかんぐりをしたくなる。だれもが小説を書きはじめるまえから商業主義やネットの劃一主義に屈服してしまっているような現状で、シュルレアリスムをおしとおせる人間はえらばれた書き手だとおもう。そしてハギワラ氏の自動筆記はむしろ長篇むきだと何度でも主張しよう。おもいつきの6枚じゃだめだ、パルテノン神殿のようなスケールのために自己のことばをふるいたまえ!! 「地下鉄はギリシアの神殿をめぐる帯状装飾(フリーズ)の精度と速度とではしりつづけた」Le métro filait avec la sûreté et la vitesse d'une frise autour d'un temple grec. わたくしはジャン・ジュネの長篇のかかる1文を、ハギワラ氏にささげたい。もしも吉美氏の構築的な作風が、ハギワラ氏の文章でつづられたら、ファンタスティックになるんじゃないかとも夢みるが、 おびただしい神殿の装飾が、ファザードや柱廊のなかに定着しないまま乱舞・繚乱しつづけるような奇観… 「ケトラルカ」がパルテノン級に巨大化した作品を、わたくしは待望する。ただし会社はやめないほうがいいような気がする。ストレスが貴殿をくるしめればくるしめるほど詩境もたかまってゆくとおもう。

 

 

 

「夜Vェ啼く無け、夜ル穢リ」ハギワラシンジ氏

 

 ことばそのものの楽劇のために、いっさいをなげうつ。なかなか一般の小説家は、ここまでおもいきれるものではない。パリ゠シャルル・ドゥ・ゴール空港の滑走路からフライトするさいの蜃気楼が、ことばからゆらいでいる。そして蜃気楼がつぎの瞬間には、アンダルシアのひまわりの丘にすがたをかえて、ひまわりはなおかつ視界のいちめんで炎上:「#恣意」のハッシュタグとはうらはらに火焰のその軍隊が、われわれのほうに理づめの布陣でせまってくる… めらめらともえたつ歩兵や金将によるAI将棋を、イメージさせるほど本作は精緻で構造的にめざましい進歩がみられる。はたしてそれはいかなる構造なりやと詰問されたら、こちらの脳裡にこだまする弦楽5部のハーモニーとは逆行した4管編成のオブリガートが、はらわたからこみあげてきそうなヤナーチェクふうのうんぬんかんぬんと適当ないいぐさでデクレシェンドするほかはなく、かわりにM*A*S*H氏にそのあたりを講釈していただこうとおもったら、ごらんのありさまで気絶させられそうな木曜日のあかつきだった。

 

 

 

 

「わたし せつなの 穢クレール」には、わが師たる松本隆の神韻:「わたし裸足のマーメイド」を呼応させたくもなる。のっけから、ひびきがたかい… ここには凛として時雨などというバンドの “音” もにじんでいるのか? わたくしに粘着したがるキャバ嬢が愛聴していて、いまだに鳥肌をたてずにこのバンド名を耳(眼)にすることができない… なみだいっぱいの両眼で、こっちの水で炊く米は内臓もはきだしたくなるほどゲロゲロだべとか、ひとの体臭はゲロゲロなのが9割でほおずりしたくなるのが1割ぜよとか、うなじの汗のにおいがベストでごわすとか、あんだれぱとかレズも同居したがる男がクサとか、やヴェーなくなけじゃけんとかリスカっちな手くびの鮫肌でさけびながら、わたくしの右手にいつも500円硬貨のおこづかいをにぎらせて、かしてやった刃牙はぜったいにかえそうとしないキャバ嬢からライターになった美女をおもいだすたびに凜として、ハギワラ氏のこのたびの作品の厳密さもひときわ身にしみるというもの…

 

 ことばそのものが、ことばを胚胎した瞬間を、ハギワラ作品はつねにその受胎告知を、うたいあげているような気もする。ことばは内臓から文脈をたちきられる。すると花の茎のように截断面はあらたな “音” をのばして、ひとびとが生きるための方便とはことなる文字どおり異次元にあらたな文脈というか音列をむすぼうとする… われわれの3次元とは隔絶したところに異次元があるわけではなく、われわれの世界とむしろ異次元はおりかさなって存在するものかもしれないし、それを知覚するためのシックス・センスとまさに新言語とがゆらめいている滑走路を、ハギワラ作品はつねに疾駈しているようにもおもわれる。そして作品があらたな文脈をかたちづくる異次元では、ことばから火焰の花のひらかれる瞬間が、ひときわ厳密な論理にもとづいていることも予感させられる。ちなみに前半#Amの韻文はゆっきーなうんぬんの姑息なたてよみになっていたら興ざめだなとおもったが、さすがにそれはなさそうだった。

 

 ひとの脳髄だとか感受性だとか想像力だとかは、ことばにとってAIの代用品にもならない。ことば自身がことばの誕生をうたいあげて、ものがたりをつむぐ。ことばの火焰が、ネットの石版にあらたな神託をきざむ。いたって厳密な語法で、はじまりの瞬間゠予感だけが記録される。おわることがなく、つねにはじまる。ハギワラ作品に刮眼させられたのは、おもえば1年まえのいまごろだった。よみなれない原稿用紙6枚の小説というものが、じつのところ既知のものがたりやぽゑむのエッセンス/コラージュばかりにみえて、いまいちだなと感じていたおりから破滅派でみつけたホーミタイうんぬんの短篇にうならされたことを記憶しているが、ことしの本イヴェント中もそんな感慨はかわらない… あとからふりかえってみると、ふしぎなことに重要な作品ほど選考からもれているばあいがおおい。マーラーもウィーン音楽院のベートーヴェン賞には落選した。ラヴェルバルトークなどの実験作/野心作のかわりに作曲コンクールがどれだけ凡庸な音楽に栄冠をさずけてきたかは後世の眼からみると不可解きわまるほどで、ウェーベルンやベルクに音楽教育をほどこす身になってからも、ベルリンの音楽雑誌のコンクールに応募しつづけていたシェーンベルクの作品にしたって毎回落選だった。もの書きでも○○賞受賞者のひたいにやきつけられるものは、およそ凡庸の烙印だけではないかと猜疑をふかめてしまう。プルーストも新聞の投稿マニアだった。コーヒーをのみながら朝刊をひらいて、また落選かよとこぼすのは長篇のなかの名物シーン。パリで気鋭の同時代人たちがつぎつぎに小説を書いて刊行して文名をあげてゆくなかで、プルーストだけはフォーブール・サン゠ジェルマンのながいながい無為(ひま)の生活のなかで小説とはいったいなにかを、ときにステマもまじえつつ黙考して探求しつづけていたのかもしれないが、あらたな価値をかかげる一派を、ハギワラ氏もいずれ自身でたちあげたほうがよいのではないかと作品を読むたびに感じる。そしてアンドレ・ブルトンⅡ世になったあかつきも、わたくしのことは教団から破門しないでくださいと哀訴しておく。

 

 

 

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「ナクシカク」紙文氏

 

「さっきから、ナンパのはなしばっかだね」

「ほかにしゃべることもないですから、ぼくなんて」

「すきな作家は?」

「ゴンブロヴィチ」

「じゃなくて、ほら最近の日本で」

「いるわけないじゃないですか」

「じゃあ作家としての目標は?」

「猿のオナニー」

「は?」

「死ぬまで、カク」むかし新聞文化欄の取材でそんな抱負をのべて、ぜんぜん記者が真顔だったことを、たまさか本作の一読後におもいだした。おはようございます、こんにちは、こんばんは、ただいまの日時10月31日(土)午前7時58分:「魚のいらない水槽」をよみすすめながら、いたく感心したのも、はや1年まえのこと… ふだんSNSでアニメ画像を眼にしただけで首のまわりにダニがはいまわるような突発性のかゆ~い忿怒にかられる類人猿のわたくしでも、あれはよい作品だとおもった。そして1年後の本イヴェントにもあの手のものをぶつけてくるんじゃ? いくらだって同列作はくりだせる書き手なんだろうともおもったが、「ナクシカク」のストレートな世界観できましたよ。でもストレートっていったら、いくぶん語弊はあるんだろうな…

 

 ぱっとみて、ウェル゠メイドとみまちがえる。いやいや、ウェル゠メイドなんてカタカナをもちださなくたってよい。とりわけ父親との公園でのやりとりは、プロの流儀。エコノミックな書法とそこから最大限にもれだす情報量とに集中するヌーヴェル・キュイジーヌの腕まえをみせながら、たばこの哀愁、「その話、ママにもしたのか?」の距離感、「詭弁」のニュアンス、「小山内」先生のその苗字にも思春期圏内のありようが暗示されているようにみえて、カクヨムとかアクセスしたことはないけど、いまどきはこんなふうに投稿者がこぞってプロ流なのか? 「定規の先端で河合さんの背中を、そっと、つついた」もエコノミックな性的譬喩:「定規」から天使の王子くんの時空にクォンタム・ジャンプしそうにもおもわれるが、「背中にこびりついた」スパームの冒頭の5行だけが河合さんの視点か? 「駅のくずかごにさっさと捨てた」のドライなふるまいと後段の彼女がなみだをながしていたらしいという伝聞とがちぐはぐしそうな気もするから、やっぱり1年まえに話者<僕>がうしろの変態男からスパームされたのか? <俺>がリビドーとともに自我からわきあがって、オスのむさくるしさが1年まえのその恥辱とともに中性でありたい王子くんを嫌悪させるのか? かってに王子くんにしちゃったよ。

 

 もてる技倆で腕によりをかけて彫琢された作品だとわかるから、ジャッジがどれほどの見識をほこるものかリング下でみとどけたかったな。そしてM*A*S*H氏とともに本期間中もめざましい活動をつづけていらっしゃる比良岡先生による6枚で昇華しきれていないというご意見には、ノンをつきつけておく… これ以上になにを書けというのだ!? 『コージ苑』収録4コマまんがの1作をおもいだす。ナイーヴそうな男子中学生が、おまえもオナニーしてんだろと教室で友だち数名からたずねられる。しないよと彼は首をふる。うそをつけ、しないわけないだろと友だちはいう。しないよ、ぜったいにしない、するもんか… さいごのコマの彼は自分の部屋でいつもどおりオナニーしながら、ああそうだよ、どうせオレはうそつきさと片手でスコスコやりつつ威風堂々とひらきなおっている。きっと紙文作品の<僕゠俺>も数ヵ月後にそんなふうになって、うすよごれて、ジェントルマンになってゆくんだろう。やっぱりストレートな作品だった。

 

 これまで紙文作品をよむと、きまって回転体がちかづいてくるイメージをいだいた。ちなみに上半分と下半分とが、べつべつに時計まわりと反゠時計まわりとで回転する球体兵器… こちらは上半分ばかりに集中して格闘していると、かならずや下半分の回転から邀撃される。アンビヴァレンツが、はなはだしい特徴の書き手。これこれが正義だ、ただしいのだーということは、ぜったいに主張しない。こんなストーリーが展開しているといいながら、べつの口がそんなことはいっていないと否定する。ジェンダーもはっきりしない。だいいち書き手がいまだに男性か女性かもさだかではないし、「顔をもたない」状況にここまで成功している書き手は、たとえネット上とはいえ稀少。あくる年にむかって氏の執筆活動に、それでも微妙な変化はみられそうな気がする。

 

<六枚道場>はさまざまな趣味趣向をもつ書き手がさまざまな趣味趣向の作品をもちよって、はじめの数行でひきつけられた読者はよみすすめて感想もつづって、はじめの数行でいやになったら逆にほうりだすのも自由だし、わたくしのばあいSNSの投票機能でとりわけ毎度のごとく自分の趣味性の大敗北をまのあたりにして呵々大笑することになるわけだが、さまざまな趣味趣向をよりあつめたとはいえ第9回までで日々匆々におなかいっぱいになってしまったきらいもある。かといってサイト上にそれぞれの作品を掲載する掲載しないの選定がはいったとしたら、こんどはそこに自分の趣味性とかぶる作品がゼロになる可能性もなくはない。やりたいほうだいのゆきつくさきが不感症なら、えらばれたものの陳列もまた冷感症の寝褥… よいものは万人の好悪をこえるというのは真実味がありながら、んなことたぁない(byタモリ)かもしれなくて、だいいち万人がその好悪をこえて感心しそうな上空の普遍地点がそもそも存在するのかどうか? ひとまずは1億作をふるいにかけて1作がのこる100年後の文学史の選定をまつしかあるまい。ノーベル賞作品もそこでは出版業界のバーゲン・セールにすぎなかったことが、おって判明するだろう。あくる年に氏の執筆とともに同サークルにも変化がみられるのかもしれないと意識しながら、さいごに以上の蛇足をつけくわえた。

 

 

 

ЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ」摩衆楼蘭

 

 さて紙文王国を隠密して、しばし蠢動のけはいもこれなしとみさだめながら、ふるさとの柳生庄にきびすをかえすため国境をまたいだあたりで袈裟がけに斬りかゝるものあり、あわてゝ身をひるがえせば当方のぶっさき羽織も藺笠もきりさかれて、みれば20人30人ばかり左右に必殺の衡軛陣形をかたちづくる摩衆の影ぞ曠野にあり… そもじ休日のひまをあかして、ひとが書いた小説をあゝだこうだとあげつらっておるが、どのみち鳩の糞ほどの文学的素養もないことは詩をおそれるあまり詩にちかよらずビゞりまくりに虚勢をはって詩や短歌に興味がないなどの公言をはゞからぬあたりに明白だわと摩衆の領袖楼蘭のいひけらく、ひとさしゆびの爪から弦のようなものをとばしてきた。こちらはそれを腰の長刀で斬りはらおうとするも斬れるものではなく、ぐるぐると刀からすぐさま胴体にまきついて身うごきもとれぬ仕儀となりはてぬ。はッはッはッはッ呪縛呪怨の暗殺陣よ、くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… さびた領袖の声とともに頭上のいちめんに毒ぐもの巣がはりめぐらされた。

 

 かねてより摩衆氏は小説がものごとをむだに饒舌にかたりすぎるので小説をきらうと公言されている。その段でゆくなら、ムージルプルーストなどの手あたりしだいに自分のまわりにある有形無形のものを言語化して散文化する大長篇は、とりわけ今後はますます不要なものとみておられることだろうし、『蜻蛉日記』『源氏物語』などとおなじくウィーン/パリ御両所のその無類に複雑な長文は、じつのところ当方もこのさき商業小説、ゲーム、アニメ、SNSの単純語法になじんだ若者が、おそらく賞翫することはおろか解読することさえ不可能になってゆくものだろうと危惧している。

 

 わたくしは現代日本語で詩は不可能だとみている。みじかい詩句を横にならべてもそれは文章を横につらねただけのこと、ボードレールマラルメソネットと同日の談ではない。アレクサンドラン、半諧音や畳韻法などの諧調、アレクサンドランにおける六音綴の擲置などというバロック音楽におけるフーガやパッサカリアにも匹敵する精緻な技法/形式で聴覚から視覚にうったえかけて、あまつさえ味覚にも陶酔をおよぼすような西欧の詩法や言語機能もそこにはないのに、のっぺらぼうで機能がとぼしい現代日本語にはそもそも不可能な大仕事… もっとも定家卿のころのそれなら、アクロバット技もなしえたかもしれない。しかし現代日本語には、つばさがはえていない。こんなものでつづれるのは童謡かアニソンくらいで、 せいぜい相田みつを潮田玲子にでも未来をたくすしかあるまい? およそ8年まえに以下の拙文でもとりあげた中村光夫による日本詩断罪が、わたくしにとっての鉄則にもなっている。

 

 

 

 

 どのみち日本人にも日本語にも前衛がなしうるはずがない。おっとりおだやかで、まんがやアニメの流儀でこのさきもゆくのだろう。つねに現実のもとに隷属・定着するアニメの人物画の輪郭線は、わたくしからみたら認識の抛棄以外のなにものでもない。アウシュヴィツ以降の<野蛮>発言をのこしたアドルノが、アルバン・ベルクの弟子だったことに注視しているひとがどれだけいるかはわからない。ツェムリンスキイや師ベルクの多調性および無調の音楽についての論考はそそられる。アドルノのその<野蛮>発言は、いろいろといいかえることができそうな気もする。ランボオロートレアモンシュルレアリスムの自動筆記によって詩の可能性はとことん追求されて、うちあげ花火のように詩はそれで消滅した。それ以降に詩を書くのは野蛮だ。そして自動筆記やバロウズのカット゠アップの範たるランボオのことばの錬金術を音化したロバート・フリップの黒魔術:「キング・クリムゾンの基本的な目標はアナーキーを組織化すること、カオスの潜在的なパワーを活用すること、さまざまにことなる影響を相互に作用させながら、それらが有する均衡を発見すること」が後期クリムゾンの実践をへて "RED" で破綻というか敗北したことを推理するなら、クリムゾン以降にロックをやるのも野蛮だ。ロバート・フリップが世界にあと10人くらい存在したら、ロックも21世紀をむかえるまえに12音技法的な破綻をむかえて、はやばやと消滅:「大量生産/大量遺棄」の侮蔑をフリップ卿がなげつけた現在のポップ・シーンのていたらくを眼にしなくてもすんだのではないかとおもうこともしばしば…

 

「かたりすぎる」小説をきらう摩衆氏も、しかしながら詩をきらう当方とおなじく内心ではじつのところ日本人や日本語機能にみきりをつけているのではあるまいか? くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… そんなこんなをかんがえているあいだにも毒ぐもの巣が頭上のいちめんにはりめぐらされた。わたくしに現代詩など解読できるはずがない。しかし解読というか黙読して毒性のことばの糸をほぐしてゆかないと、いのちはない。というか詩にいのちがあるものと現在のこの瞬間はみなさないと、ほかでもない摩衆詩にがんじがらめにされて、いのちをうばわれてしまうから、ふりかかる1語1語をひとつずつググってゆくが、まず詩の標題は曲名:「閃輝性暗点」はぎざぎざにみえるやつ… つぎのページは右にすすむか下におりるか? どちらでもよいところがゲーム感覚でおもしろいぞ、とりあえず右☞「ロバート・ジョンソン」も初耳だったし、「エイフェックス・ツイン面」ってやつは摩衆氏がtwitterで紙文氏をおどすときに行使するやつか?「グレイマルキンパドック」はマクベスゆえに綺麗即是蕪穢… 「D4」「E4」「C4」「C3」「G3」は音階? 「未知との遭遇」はみたことがないからわからないし、「諸星大二郎」は光GENJI!? なんだ、なにもわからない!!!! くらえЦЕЛУЯ ЖИЗНЬ… くもの巣でがんじがらめにされて毒殺されるすんぜんに、しかしながら紙文王国から流星のような1本の聖剣がとんできて、またたくまに摩衆暗殺陣を斬りふせた。「わからないといえることは、すばらしい」

 

「見者のてがみ」を書いたランボオのように詩を書くひとびとは、そとにむかって積極的にどんどん自註自解してゆくべきだとおもった。あさぬま氏がかつてtwitterでおっしゃっていたような気がするが、つねに詩とその自解とを現代アートさながらセットで発表してもよいくらいだろう。もちろん解説からその詩を理解するような読者は、おなじ詩にけっして感動することはないかもしれない。わかることと感動することとはちがうが、すくなくとも美学的な欲求から詩人のその作品をこのさき必要とする人生をおくることにもなるかもしれない。それゆえ摩衆氏も本自由詩の自解をnoteに掲載していただけたら、つたない本稿にたいする返答はおろか過分な報奨にもなるところですし、うれしさを禁じえないところでもあります。

 

 

 

 

 ひきつづき本作品にたいする言及からはじまる日曜日の朝です。おはようございます、こんにちは、こんばんは… ただいまの日時11月8日(日)7時44分:「コロナ禍救済と深読み」はほんとうにそうだろうか? 「あなたの生命に そっとキスする」の冒頭句からさらに終結の反復:「あなたの生命に そっとキスする/コロナ・ウィルスに罹ってもいい」までコロナ禍がにじんでいることはあきらかだし、「HIV感染症エイズと呼ばれていた頃/はずかしいけれど あの頃は セックスが怖かった」にはとりわけ自身のキャンパス入学式をおもいだして共感させられた。というのも大学から配布された厖大な資料のなかにエイズについての小冊子があって、たいくつきわまる入学式のとちゅうでそのページをめくりつつ絶望:「あてはまりませんか?」の疑問形につづいて箇条書きにされた行為や筋肉痛うんぬんの症状がいくつも自分にあてはまるような気がして、エイズじゃんよーの絶望で希望にみちたキャンパス・ライフの幕あけも闇黒… なきじゃくりながら保健所に電話して、はなしをきいてくれたおばちゃんから平気よ平気、みんなそんなもんよ、かんたんにうつる病気じゃないのよと説得されるまで日常生活にもどることもできなかったわけだが、そんなこんなを本詩作品をよみながら追憶しましただなんて書いたところで意味があるまい? 「コロナ禍」にたいする言及やおのれの体験談をもちだして感想文をおわらせるのは、なんだか本詩作品とのつきあいを表層できりあげるワリキリ交際のようにおもわれて気がひけたしだいだが、「素晴らしかったです」という比良岡先生のひとことが衝撃的すぎて、いまさらそんなこんなもどうでもよくなってしまった。はなしがどんどん冗長になってきて、すみません…

 

  かくなるうえは身もふたもない本心を、とことん書かざるをえない。べつに本作をけなすとかそういうことじゃなく、つねづね本イヴェント周辺の書き手のみなさんにたいして自分がおぼえている違和感にまで言及しなければならないということだが、「素晴らしい」とおっしゃった比良岡先生はつまり詩を鑑賞することができた。たのしむことができた。しかしロック・ミュージックがうなりをあげて、アクション映画がスクリーンを鳴動させて、ゲームセンターやファミコンが電子音をポリフォニィさせはじめた時代のあとで、わたくしは詩作というアナログというかアナクロの行為が、つくるうえでも黙読するうえでも娯楽になるとは口がさけても表明することはできない。だったら音読したらアクティヴな娯楽になるのかというと、そんなはずもない。わたくしは本イヴェントの周辺のみなさんが朗読会やら読書会やらのアナログなイヴェントを嬉々として実施/実況(参加)されているさまを、いつも奇異の念でながめている… ほんとうにこんなものが、たのしいのか? わたくしも何度か都内のちいさな書店でひらかれる類似の集会に顔をだしたことがないわけではないが、「はやくおわってくれ」と念じるばかりだった。だから詩をよんで比良岡先生のように感動したり、みんなでそれをかこんで娯楽とみなしたりすることができる書き手のみなさんを、ふしぎなおもいでながめながら、あたまがおかしいんじゃないかとおもったことがいちどもないといったらうそになるし、かれらは世間からみたら趣味のマイノリティのなかのさらに小教団のようなものなのだという見地はすてちゃだめだろうし、まちがっても自分がその小教団にくわわってそれが世界だとおもいこんではいけないぞと自誡もしている。

  

 

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  もしもキーツシェリィ、ランボオロートレアモンブルトンなどが戦後にうまれかわったとしたら、ドアーズのジム・モリスンキング・クリムゾンのピート・シンフィールド、ジェネシスピーター・ゲイブリエル、ヴァン・ダー・グラフのピーター・ハミル、ロキシィ・ミュージックのイーノになりたがっても、テーブルに紙とペンとしか用意されていない詩作にもどりたいとは寸毫もおもわなかったような気がする。もっとも小説だっておなじだ。いまどきはそんなものを書くのも、しみったれた行為にほかならない。どちらにしたって、オワコン。ただしオワコンならオワコンとみなす見地からその創作に手をのばしたほうがよいとおもうし、「文学は死んだ」とニーチェのような狂人がいまこそ各国の憲法にひとこと書きそえてくれないと、なにもはじまらないような気もする。あたかも屍体を生きたものとみなして両腕であやしているのは、そいつを食扶持にしている出版業界だけだろう。まだ生きているものと夢みている書き手もいるだろう。クラシック音楽のように19世紀のそれらを骨董品やうつくしい宝飾品として愛玩している蒐集家(ビブリオマニア)もいるだろう。しかし生きたものとは、とうてい認定することはできない。ケンシロウのゆびさきが詩も小説も戯曲も短歌も俳句もゆびさしながら、おまえらはもう死んでいるといっている。そして死んだという儼然たる事実をまえにして逆にその表現の不可能性におのれの人生をかける摩衆楼蘭氏やそのほかの書き手がこれから雲霞のごとく輩出するとするなら、あたらしいものがうまれてこないともかぎらない… わたくしは詩を娯楽にすることができない。それを娯楽にできるマイノリティのみを対象にするのも、ひとつの手だろう。それを娯楽とは感じない世間にたいして詩を呈示するなら、たのむべきはやはり自註自解:「詩の四枚目は数式ではなく、意図的に文字化けさせた文章です。解読するとメッセージが浮かび上がります」などの作者によるそれはじつに興味ぶかくて、たのしみにできなくても美的欲求からそれをほしがらないともかぎらないわけで、けっきょく結論も先週とかわらなくて、おはずかしいかぎりです… さいごにご教示いただいたタイプライターでブルース・リーをえがく表現者は、ブルース・リーをえがくつもりでタイピングしているのでしょうか? だったら紙でえがこうがタイプでえがこうが結果はおなじということになりますが、もしもブルース・リーをかたちづくる1語1語がなおかつ深遠な文章をおりなしているということなら、けっきょくはそれを註釈することで世間の美的欲求もすこしは刺戟することができるのかもしれません。