麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

略人疏註 :第9回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ はじめに

 

「月旦」をうそぶいて本サークルの発表作のみならず書き手にふかく言及する月ごとの稿をかさねてきたのは、そこで論じた諸氏のなかからいずれ表現世界の未踏の曠野をきりひらく旗手があらわれ(てほしい)るだろうという願望/予測にもとづいてのことばかりでなく、いうもはばかられる私利私慾があってのことかもしれないが、さすがに手間がかかりすぎた。やすみの日をそれにあてて疲労はつのるばかりだったし、よほどに心血をそそいで書いても周囲のいくばくかの無理解やご不興がはねかえってくるばかりだとするなら、つづける意味もうせようというもの… されば骨折損のくたびれもうけな長文を、おおいに簡略化せんとこころみたのが本稿:「疏註」はつまり俎上にのせたい作品のために余人がおもにSNS上の140文字でつづるだろう感想のかずかずを土台にして、さらにそこから解釈をあらたにしてゆくもので、かんたんにいうと紙文氏などのそれにのっかる。ハッシュタグで該当作の本質をみぬいた烱眼や卓見にめぐりあえるとしたら、まったくの無から筆をおこすよりもはるかに労はすくないだろうとおもわれるし、「略人」はわたくしのような種族にうってつけの二文字だというばかりでなく、いままでとちがって書き手そのものの詳述はさける方向性のニュアンスもつたわりそうで便利なものとみた。あとで修整するかもしれないが、「第9回」前半作品がおおやけにされた翌朝のこの時点ではともかくもグループのアルファベット順ではなく、ランダムに以下3作を論じる。

  

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ღ グループC

「未踏の日常」6〇5氏

 

「セオリィ゠フィクション」とよばれるものらしい。さきほど作者ご自身のtweetからおしえられて、たまたま第1回ことばと新人賞なるものの応募作のリンクも眼にしたから、そちらも拝読してうんぬんかんぬんと書きすすめたら、あいもかわらず冗長(文)化するのでやめておく。スペキュラティヴ・リアリスムともよばれるらしく、ニック・ランドさんがどうのと上掲のジャンルについてはググッたさきに詳述されていたしだいだが、『特性のない男』全6巻さえあれば手にとる必要もなさそうなものだなと傲岸不遜にもかんがえる。ともあれ個々の小説がまちうける運命はそうとうに苛酷なもので、いったいどれだけの数の作品が月ごとに雑誌やらで発表されて刊行されるにしても、ムージルのそのさきに到達しているものなどはゼロなのだから、むなしいかぎりだと韜晦せざるをえない… あたらしさといったら、せいぜい刊行年月日゠賞味期限のタグのようなそれにつきるというのも、あぢきなしというよりほかはない。シェーンベルク一派が呈示した難解さをのりこえられないまま破綻したクラシック音楽さながら文学も書き手のひとりひとりが、ムージルのきびしくも蠱惑的な鉱脈からおめおめと後退もしくは眼をそむけて、なまぬるい商業圏内でいまなお因襲的な情念やファンタジィの主題とたわむれているばかりなのは、かえって空疎をとおりこして唾棄すべきものにもおもわれる。

 

 膝から下を切り落とさないと行けない塩の湖が(中略)薄紫の表紙、痛い蝶番。

 あなたが吐いた息は、わたしが誰よりも多く吸った。

 

 はじめに肉感からセオリィの筆をおこすのは、アルバン・ベルクの後期ロマン派的になやましい12音技法のようで魅せられるが、"Well-being" の横文字をみて平均律 well-tempered を想起した読者はどれだけいるだろうか? 「普遍的公正さは」からの数行はまさに社会経済的な平均律にまつわる歴史描写におもわれるし、「歴史は何よりもまず平均人の歴史である(中略)天才と愚鈍、英雄性と無気力など、一切をひっくるめて考えれば、人間の歴史とは、要するに平均人が四方から受け入れ四方に分配する、数知れぬ衝動や抵抗や、特性、決意、準備、情熱、認識、錯誤のそれにほかならないのだから。平均人の中でも歴史の中でも、同じ要素がまじり合っているのだ。この意味において人間の歴史は平凡さの歴史と言ってもよかろうし、見方によっては数知れぬ歴史の平均だと言うこともできよう。そしてもし歴史が永遠に凡庸さをめぐってゆれ動かねばならぬものならば、平凡なものにその平凡さを非難するほど無意味なことがあるだろうか」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)とつづったムージルを、やまびことして行間にあてたくもなる。

 

あらゆる法則は誰かがいつか「発見」しなければならないが、その「発見」を得ると法則は時間的、空間的制約から解放される。 

 

 「というのも彼の意見では、道徳とは人間によって作られ人間とともに変化するものではなく、啓示されるもの、時間空間の中に展開するもの、文字どおり発見されうるものだったのだから。季節はずれでもあり時宜を得てもいたこの考えの中に表れていたのは、道徳も道徳を持たねばならないという要求、あるいは、道徳がたとえ人に知られぬ形にせよみずからの道徳を持ってほしいという期待、崩壊に到るまで旋回をつづける遊星の上にあるのが、空しく自転するゴシップばかりであってはほしくないという願いにほかならなかった」(同上訳)ここでも舞台裏のバンダとして行間からなりひびかせたいのは、ロベルト・ムージルそのひと… 「書きつくされた」世界でなお筆をとろうとする21世紀の小説家たちの苛酷な航海をとびまわるセイレンのつばさが、めまいがするほどの覚醒のなかに影をおとさないだろうか? ”came for you” は天啓/ことづて/法悦:「主観性は、まさに客観性と同じようにわれわれの内的本質に背を向ける(中略)たとえそれを言語で言い表わすことができないとしても、われわれの間にある一切のことは、厳密な法則に支配されているのだ。主観性と客観性との境界は、われわれがそれに触れないでその傍を動いている境界を横切る」(同上訳)お気づきだろうか? わたくしは本作を、ハッシュタグにみられる余人の感想ではなく、ムージル先生の土台から疏註したつもりになっている… ここで65氏の文章もつぎつぎに転写したら労力はたいへんなものになるので断念するが、「快楽は何も埋めない」からはじまる1文であきらかなように本作はセオリィよりも寸鉄詩集にちかいものにみえるし、「祈って跪け」のコーダに呼応させたいものも、ボードレールの以下の詩句: "dors ton sommeil de brute."(けだもののねむりをねむれ)

 

 

 

ღ グループD

「All mine」ケイシー・ブルック氏

 

「はじめからずっと狂気じみてて特に『見たことのない男』と思ってるところが怖かった」わたくしにはハッシュタグでみかけた中野真氏のこの感想の意味がつかめていないし、「一瞬、最初の段落との整合性が」の賢者げんなり氏のことばにも理解がとどかなかったが、「花びらが満開とかもう六枚道場で読めて最高」はよくわかる。わかりすぎるほどわかる。ほんとは満開じゃなく回転♡って書けよっておもってますよねとゲスのかんぐりも、おくればせながら推参: "All mine" の原曲のほうは、これまた作者ご自身のtweetでおしえられた。ポンちゃんの写真がおがめてよかった。ミカド劇場をおもいだした。いまはどうかわからないが、わたくしが高校生のころは2, 500円の入場料をおさめれば1日じゅう客席でねばっていたって文句はいわれなかった。おばあさんといったほうがよいお齢ごろの女優が、ランウェイというか小屋の舞台のうえをチンパンジィのように跳梁して、さっぱり観客はもりあがらないから逆ギレして、とんねるずのガラガラヘビにあわせて強制的にずっと拍手させるのは悪夢以外のなにものでもなかった。それにくらべて浅草ロック座は、ビートたけしがはたらいていたころなんかとはちがって洗煉されていた。テコンドーの道場のあとで何回かご利用… げんなり師匠もご来駕されておりましたでしょうか? あ、そっちじゃなくて馬場の老舗サテンドールとか? たけしや松村もかよってたんですよね、イーヒッヒッヒッ(by 山田拓美@三田二郎

 

 おっと風俗放浪記ではなかった。ていうかケイシー氏の本作はさすがに6枚でおわらせたら、だめな中・長篇タイプじゃんよー。キャラをたてたらケツの穴まで読者にみせろといったのは板垣恵介だったとおもうが、ここで寸どめはゆるすまじだから、ことのしだいを来月も書きつづけてほしいし、「キミ」もひらがなで書きなおしてほしいと読者のかってな要望をぶつけてみるのだー!! "Peeping Tom" は普遍的なテーマです。ストーカーじゃなく、おのれの性癖にからみついてゆく毒蛇のような窃視。エルロイみたいに主人公は刑事の捜査キットとかもちだして、わが家のように女の部屋にしのびこんでほしい。ホストはチェインソーでやられるヴァージョン。ポッキー責めも可。そのかわり女には、まだまだ非゠接触。あまりに変態性慾がつよいやつは、かえって迂回をこよなく愛して、コンドルのように上空をぐるぐると旋回したすえに慾望にたどりつこうとする。ホストを宦官にしたあとも、ろくでもない男にたぶらかされつづける(ばか)女を、のぞき魔トムはうらみつつも慾望増幅マシンとして尊崇しまくって、たぶらかそうとする男をひとりずつ抹殺しながら、なおかつ死後もゲロゲ~ロの拷問にかけるような展開をおまちもうしあげております☆

 

 

 

ღ グループB

「群」吉美駿一郎氏

 

火の鳥』のように書きつがれてゆく続篇を、あくる月もあてにしてよいということか? はたして男の人魚は、ブーツ船長か? あとから部屋にやってくる友だちのひとりが、それとも船長か? ひとの世の千変万化を、もしくは不変の名もなき人魚群像のかげに書きついでゆこうという連作の企図か? いずれにしろ冒頭からその冷徹な筆致にむしろ過剰なまでのパッションと狂気とがつめこまれて、クレンペラーが指揮するベルリオーズのあの手でつかめそうな音のかたまりが、こちらの双肩にのしかかってきそうな臨場感にみまわれたし、「建物を水で囲まれる新世界」はそもそも現実的な点でわたくしを不安にさせて、タワーの土台から腐蝕して瓦解してゆくじゃんかよーとおもわせたりもしたものだが、「巨木の根のようにコンクリートが枝分かれして海底をしっかりと掴んでいる」という過不足がない1文によるシーンでまさに万全の安定感がわたくしの意識をやおら根柢からささえてくれた。タワーにすまう身なので、たてものの一部になるイメージもよくわかる。しかし作品がここまで稠密につづられていたら、あとは読者がうんぬんする余地ものこされていない。ハッシュタグをわざわざ参照するまでもない… 「おもしろかった」の素朴な感慨をもらすつもりがない偏屈のわたくしは、よくもまあこんな作品をつぎつぎに書けるものだとおもって舌をまきながら、くやしがるよりほかはない。そして上掲の2作よりも言及についやした文字数がすくないからといって、それらよりも感興がうすかったわけでもないことはいうまでもないといって擱筆する。

 

 

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 ひつじやさん1年ぶりでしたね… ああそうかいといって、どんなひとも横に存続させておいてあげるのがいちばんです。ブロックとかしちゃだめ。みたいものしかみえないお花ばたけでの創作なんて書き手をちっちゃくするだけだし、どうせならSNS自体をみないくらいのほうが書き手をむしろタフ&ワイルドにするんじゃなかろうか? あっさりとしたことばで自作をほめてくるやつのほうを、むしろ刺客ではないかと警戒/自誡したい感じかも… まあそれはよいとして、げんなり師匠のこのたびの作品で、わたくしは書く機能はおろか読者としてのそれも破壊されてしまって、ほかの3作にたいする言及がそれこそ社交辞令的にあっさりとしたものに終始した。ちなみにその3作は、げんなり作品にさきがけて眼をとおしたもので、わたくしが未読のなかになお秀逸なものはいくらもありそうだったが、しばらく原稿用紙6枚の小説そのものを吟味することがむずかしくなってしまった委細も、あわせて爾余にしるす。そして後半もアルファベット順でなく、ランダムにまいります。

 

 

 

ღ グループH

「筆を失くした記述者たち」ミガキ氏

 

 えたいがしれない書き手だな、やっぱり… まだまだ奥がふかい。まだ実像をあらわにしていない。ほほえみのかげに毒牙をかくした天使のまがまがしさが、むきあっただけでつたわる。こちらがうっかり渾身の一撃でもくりだそうものなら、きばをむいて片腕1本もかみちぎられちゃうかも☆『刃牙』のピクル? かねてより天使は獣性からうまれたのではないかという夢想をすてきれないが、「獣人種」なんて耽美でぞくぞくする。ついでに信仰がないのもよい。わたくしは本作にそっくりなものを過去にひもといた記憶があるのに、しかとはおもいだせない。なんだか夢のなかで記憶をさぐるようなデジャ・ヴュと、ミガキ氏がつづる1行1行によって眼前にくりひろげられる世界の進行を、いっさいの疑念をはさまないまま眼でおうような文字どおり意識は霧がかった催眠状態… しかとおもいだせない。マンディアルグ生田耕作訳)ではなかったとおもう。ほんとうに記憶があいまいだが、『東方綺譚』『火』(多田智満子訳)のいずれかにユルスナールがつづったものではなかったか? 「柳生武芸帳外伝」と銘うたれた五味康祐の名品もおもいだす。それこそ越前の秘境にあるといわれる雲上の原始的なアルカディアに父宗矩の密命をおびた十兵衛三巌がしのびこむというもの… まあなんだってよいわけだが、はたしてミガキ氏はいままでどこでなにをしてきたのかという興味をあらたにした。

 

 

 

ღ グループF

「ひかりひかるひかれ」中野真氏

 

 たばこと車とは、もとより中野氏の世界をかたちづくる必須の衣裳/舞台のようなもので、エゴと自己閉塞とのその小劇場から内面の無限におりてゆくような様式美も、そろそろ完成の域にさしかかった気がする。とりつくしまがない無気力や倦怠のなかで口にされたはずの1本のたばこの尖端があかあかともえたつと、おもてむきは無気力や倦怠のまま作品世界も、はげしく燃焼しはじめる。リアルと、くるおしい抒情と… たった6枚のなかで、なにかがシームレスの山脈のダイナミズムをきずきあげている。なにかを、わたくしはまだ解明しえていない。ともあれ作中の祖父もまた文人だったのか信仰者だったのか遺言の執筆者だったのかのいずれの本姿もうかびあがらせることはなく、たばこを話者はなお世界とのたった1本のかぼそいきずなのように口ですいよせる。たばこは話者にことばを禁じて、せみしぐれに作中はとける…

 

 

 

ღ グループI

「墓場軌道」至乙矢氏

 

 うまい。このかたもひとしれず研鑽をつんできた書き手なのだろう。ひとの世も宇宙も無意味な輪廻でそれこそ意味゠任務がもたらされないまま運動しつづけるのかとおもったら気がめいって、いっぽうではその壮大さにわらいがこみあげてくるが、『大佐に手紙は来ない』というガルシア゠マルケスの短篇も、なぜか一時的におもいだされた。ともあれマクロにおける窮極の無意味が、うつくしさをはらんでいる。しかし意味をたえず開鑿しようとする人智のこまごまとした道具だての描写も、たのもしい。いっぽうで寿命がつきる衛星のつぎつぎと墓場軌道にとびうつってゆく無常のさだめは、ミクロの量子飛躍(クォンタム・ジャンプ)にみられるカラフルな詩情をむしろ喚起するし、「量子振動」なるコーダのことばがまさに感情や情念をこえた文学の未踏の領域にさそってくれそうな愉悦もかきたてた。

 

 

 

ღ グループG

「彼女のあそこが眩しくて」一徳元就氏

 

 いきなり人称の混在。しかし問題はない。まちうけていたもののように読者はそれを消化して、つぎの1行にすすむ。ことばのオナホ、ときおり文字どおり “挿入” される耽美ないいまわし、おそいくる粘液の火の粉… あれ、もう別作品? 「成木サトル」の語意をしばらく熟考したが、お手あげだった。このひとの講釈によって作中の秘密が、つぎつぎに解明というか牽強付会:「照美」がアマテラス、「佐野」がスサノオ、名なしの兄がツクヨミ、「まず」が冒頭に4度もきていることまで親切におしえられるが、「成木サトル」の名まえにもやはり神代からの機縁があるのか? わからない。ただ作品のおわりの地点にたちつくして、ぼうぜんとした。これまで本サークルでさまざまな書き手がさまざまな実験をこころみてきたことをあらためて反芻しながら、いっぽうでこれからはどんな奇術をみせつけられても、もはや驚歎することはないだろうということを確信させられた。ぶっちゃけ原稿用紙6枚の小説を、よみすぎてしまったのだ。よみすぎて感覚は鈍磨した。おどろきも新鮮さも、すりきれた。エロ動画をぶっつづけで1週間みまくったら、はだかの女性も着衣のそれとかわりがなくなって、ショウ・ウィンドウごしにエロをみるばかりで、エロの実体にけっして手はふれることができないにちがいない… もともと小説をあまり手にとることもない生活をおくってきたのに、ことしにはいってから本サークルで多読の度がすぎた。わたくしは本作のあとにべつの6枚をよみたいとは、どうしても慾望することができなくなった。まさに読者殺しの1作だった。

 

 ※アマテラスの実体が鸕野皇后なら、スサノオはその夫の天武すなわち新羅王族の金多遂、ツクヨミは天武の兄たる天智すなわち百済の亡命王子豊璋だと理解して、わたくしは記紀をながらく手にとってきた。もとは金官伽倻などからながれてきて、それぞれに都城や巨大墳墓をきずいた代々の首長たちが、わが国でも半島でも百済新羅にほろぼされて、さらに白村江でその百済のほうも亡国… いったんは金多遂が天皇を号したことで半島の覇者たる新羅王朝がわが国をGHQさながらに統治したが、ほどなくして鸕野皇后が持統として天武のあとをおそうと、ふたたび百済の残党がみやこを支配する。これを糊塗するための万世一系が、くるしまぎれにぬらぬらと記紀でとぐろをまいているわけだが、げんなり師匠がラシーヌのごとく神話的政治闘争をエロスの舞台として表出したのは烱眼というよりほかはない。

痩蝶月旦:第8回 <六枚道場>


 

 

 

✍ ささやかな祝辞

 

「かぐやSF」なるものに応募された小林猫太氏、中野真氏、一徳元就氏などの諸作にあたって、はたして当サークルの毎月の作品だけでこれらの書き手たちを評してよいものかという疑念にかられた。むろん前者は応募作品だけあって気魄がちがうわけだし、<六枚道場>は書き手たちの休戦時における文字どおり試撃(スパーリング)とみればよいのか? う~ん、さめてしまうな。ガチのセメントがみたい。もっともSFそのものには1㎜たりとも興味がないので本戦出場作は手つかずじまいだが、<六枚道場>の作品をこのまま論じていてよいのか? わからない。あくる月から言及がとだえたとしたらそれが結論だろうとおもいつつ阿波しらさぎ賞応募の諸作にもあたってみようとすると、わたくし個人的にこちらはいただけない。テキストから文芸誌にのっているような既存作のイメージが反照してくるばかりだった。おのれがそこの出身にもかかわらず日本の文芸誌にのっている作品や受賞作は、はじめの数ページでほうりだすことがおおい。アニメとTVドラマとが混濁したようなイメージがきまって脳裡にひろがって、がまんがならなくなる… がまんして読了したとしても、よみとおしたという事実がのこるばかりだし、『文藝』を手にとったこともないようなガキの応募作をよくぞ出版したものだと約30年後のいまもわれながら版元のおもわくをいぶかしくおもう… とまあ文芸誌がすきになれないからこそ本サークルがあるのだという根幹を、あらためて自己認識:<道場>なかまの数名が、いずれにしろ阿波しらさぎ賞にエントリーされたことはよろこばしいかぎりだから、バローロでこんやは祝杯をあげよう…

 

 

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ღ グループA

「四月四日」草野理恵子氏
「うたかた」星野いのり氏
「百合八景」伊予夏樹氏
「みそひとづくし、あるいは割引券くらいもらえるかもしれないと思う。」一徳元就氏

 

 ざんねんながら当ジャンルはSFよりも興味がもてないから、いっそ言及しないほうがましだろうくらいの杉村太蔵流のうすくちでまいる。あ~あ草野氏と一徳氏とは、たねあかしをもうすこしあとにしてほしかったな。もっとも一徳氏のほうは明瞭だった。このかたはやはり詩でも小説でもそれ自体をつくりあげること以上にそれらの枠内であそびたおすことが天性だから、そこが文学賞やらなにやらの現世的なものとマッチした瞬間のなんとも不可解でうつくしいシーンをまのあたりにしてみたいと冀願してやまないが、「かぐやSF」のほうは本稿でがまんして言及しないことにする… 「四月四日」がなにをさすのかは詩人にたねあかししてもらわないと、とこしえにわからなかったにちがいない。わたくしにとってそれはなによりも “おかまの日” でなおかつロートレアモン伯爵の誕生日にあたります。そして草野氏には日本語ではなく、イジドール・デュカスやレオポルト・アンドリアンとおなじ言語をだきかかえながら、この世にうまれてきてほしかったなと無責任にもつくづくと感じざるをえません。ヘラジカといったらマロイだぜとおもいつつ澹美と魔性とを直射した3作のあとの(ナナカマド)はドレッサーと窓ガラスとのあわせ鏡をほうふつとさせて、ことのほかシックでした。

 

「焔」の題字が前回はすきになれなかった。わたくし個人的にはやっぱり “焰” でなくちゃどうにもならない。てめえの文字嗜好などファック・オフだわといって星野(凜さまのほうじゃなく)いのり氏からフック・キックをほうりこまれそうだが、「寒涛」もきらいだと当方は鼻血まみれで絶叫しつづける。ここはどうしたって “寒濤” じゃなくちゃいけない… え、それだけ!? すみません、きょうはそれだけを星野氏につたえたくて… ったくもう伊予どののせいでござるよといいつつ顔をむりやり同氏のほうに転じながら、こんどはだまりこむ。むこうもだまっている。ややあって口をひらくのは当方だが、「だいじょうぶですよ、こんな詩も毎日のようにTLでうたいつづけていてごらんなさい… おそかれはやかれ世界はあなたにくみするでしょうから」 いぜんとして伊予氏はだまっているので、こちらもよけいなことをくちばしる。「あなた日ごろ古文書をとりあつかっていらっしゃいますよね? ひとつ彫琢のかぎりをつくした美麗な文語調で、ペダントリィにみちたコント・クリュエルをつづってはいただけませんかね?」いぜんとして伊予氏はだまっている。みればご本尊に生きうつしの蠟人形… とまあ以上がグループAについての感想ですが、てめえ作品をほんとに目視したのか? ほんと皮相でうすくちだなといわれたら、テヘ♥顔をするしかないモンモンモコモコの入道雲の夏なんです…

 

 

 

ღ グループC

「おもいかえせるかぎりでは」宮月中氏

 

「かぐやSF」に応募された宮月氏の作品をよみすすめていたら、ファンカデリックの “Cosmic Slop” が脳裡にながれた。もしや同氏は★★★★☆のカスタマーレヴューを創作したかっただけなんじゃないかとも邪推されて、これってSFなんか? どうなんか? 「そこに愛はあるんか?」ひとから愛されることもなく、ぐるぐると無重力をグルーヴ(輪廻)するグラヴィタス(ペド)フィリアは、それにしたってファンキィでゆるゆるでいいよねぇ… とっかえひっかえされるモードにちかい地上のつかのまの<正義>めいた価値観でめくらにされている連中のほうが、むしろ憐愍されるべき存在じゃないんか? 「なう」の至近距離のそれしか眼にはいらなくて、じつのところ歴史上のことがらも解読できそうにない人種はSNSにごまんといるんじゃないんか???? 「かぐやSF」の応募作はどれも闘志や気魄がたぎっていたのに、ひとり宮月氏のそれだけは異質のゆるゆるで、グルーヴしていた。もっとも本人はゆるゆるで書いているつもりもなかろうが、<六枚道場>のこのたびの作品のほうは '70年代のジャケットのイメージも異界の風のように撩乱して、ロキシィ・ミュージックの “Love Is The Drug” をくちずさみたくなる… たぶん本作にはたくさんの反響がよせられているだろうから、わたくしが多言するまでもあるまい? 「いろいろ」「いろいろかー」の会話がとりわけ秀逸:「青色に光った」のはなんの反応? もしや生殖反応!? かつて宮月氏はみずからの睡眠とのあいだに良好な関係をきずくことができない苦境をつづっておられたように記憶しているし、やすらかにおやすみなさい(不吉)またしても言及しないほうがましだろうというほどの皮相なうすくち感想でおわってしまって、ほんとうにすみません。

 

 

 

ღ グループE

「最後の光学」洸村静樹氏

 

 いくつかの時空が乱反射するロザリオの破片… ぜひとも今後の歴史小説は、かかる複眼でつづられなければならない。わたくしも10代のころ信長嗣子の秋田城介信忠、レオン蒲生氏郷天正遣欧使節団の時代がだいすきで、ランボオ散文詩にもとづくパスティシュの訓練として戦国と現代とが交錯しつづける断片を、いくらも書いた記憶がある。いっぽうで鋳型から量産されるような日本の商業小説を軽侮しつづけて、いったい世間はなんのために津本陽だとか宮城谷昌光だとかの単純な叙述にこぞって眼をとおしたがるのか? とりわけ低劣だとおもわれた津本の作品を、まだ大学をでたばかりのころ数人のまえで痛罵していると、あれオレ(が担当したやつ)なんだよねと同席する角川の編集者が、おずおずと苦笑まじりに告白したため二の句がつげなかったこともある… ひとり歴史小説のみならず文芸書でもTVドラマでもタレントでも邦画でもミュージック・シーンでも、なぜ凡庸なものを世間はもとめつづけるのか? われわれの日常や人生だけで、そんなものはじゅうぶんではないか? 『翔ぶがごとく』が司馬遼太郎の最高傑作だとするなら、そこには彼の出世作のいくつかに悲惨なまでの低俗でぬりこめられている漫画じみた冒険活躍譚も、ストーリーのよけいな起伏も、リーダビリティとやらにもとづく日本特有のガラパゴス的に平易で一面的な文章も、ドタバタ劇も、ラヴ・ロマンスもみられない。みられるのは作中の厖大な人物にたいする批評ばかりだが、いっさいの空疎なドラマを黙殺する人物評が、くもの巣でそれこそポリフォニィをおりあげているような奇蹟を、はたして衆愚のいかばかりが感じとれるものか? けだし凡庸な感性は、もっとも強大な<正義>にほかならない。ささやかでなおかつ奇矯にもみえる真実は、ことごとく時代をこえないまま狂瀾のその汚穢にのみつくされるだろうし、「現代のものを支配するために、人はそれを荒廃させ、浅薄化する」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)とつづられたムージルの未完の長篇はまさにそんな凡俗のあずかりしらない隠微な真理でうめつくされている。ともあれ凡庸な感性にすいあげられたベストセラーも、いっさいは荒廃した浅薄な凡庸のおなじ第2波/第3波についえるのはいうまでもない…

 

「最後の光学」はおなじ標題の韻文が、みれば作者のnoteにのこされていた。おなじ1行がこのたびの散文の書きだしに転用されているが、「考えない①」も拝読しつつ “音のないカノン” はまさに狂瀾──このたびの散文の “現代” も、たぶんに震災津波の瓦礫からの投射:「第二波」の敵襲のまえで複数の時空は、したがって乱反射するのではなく、いまさらながら住民意識にこの街のいしずえとして仙台黄門政宗とその覇府とが、もはや存在しない天主(閣)から屹立して、せまりくる猛威のまえに石垣も城下の河川も聖観音も、はては21世紀のコンクリートもマンションも、けっして乱反射しない──ほろぶまいとして複数の時空はむしろ身をよせあいながら、まぼろしの天主(閣)の隆起のなかに凝縮しようとする…

 

高山右近』『安土往還記』の2冊をむかし手にとって、どちらも数ページでほうりなげた記憶がある。えたいがしれない嫌悪感は、まさに江藤淳がこの両作者を “フォニイ” とよんだところに由来するものだった。わたくしが2度ほど駿河山の上ホテルで相対した江藤はじつに毒々しいほど気力充溢して、なき妻に殉ずる自決をとげたことをきかされたときにも、でかしたジイさんとよびかけたくなるほどの奔騰がむしろ感じられたものだった。ともあれ加賀や辻だけでなく、ソナタ形式で書かれたという福永武彦の作品をよんだときも “フォニイ” の嫌悪におそわれた。それは小説ではなく、なにか小説のおままごとにつきあわされている感覚だった。ほんらい詩人(気質)がつづる散文を、わたくしは愛さない。それはひたすら無重力の無反省のまま打鍵されてゆく清澄な音をイメージさせるし、『特性のない男』のなかでムージルが “ある詩人” のことばとして自身の中篇小説の文章を引用するような不逞さや強靭な批判精神をひきあいにだすと、ますます詩人そのものが脆弱なものにみえてしかたがないが、「第二波」の敵襲にわたくし自身の懐疑もくわえて、よみおえたばかりの洸村氏のこの空間も、じつに重力で圧してしまいたいという欲望をおぼえなかったといったら、うそになる。レオン氏郷との確執などからみえる仙台黄門のローカルな悪虐と城下のバテレンの信仰とは、いっぽうでは無反省と清澄さとのとりあわせによる眼もあてられないほど戯画めいた史実で、ローマ゠カトリックおよびイスパニアからの伝教貿易はつまり欺瞞や毒牙をひたかくしにしながら、アジアを盲目にせんものとした放射能/熾烈なコロナ(光)さながらの汚染でもあったのだから…

 

 

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 ものすごいやつらが、バトル・ロワイヤル後半戦でなだれをおこしている。ジャングルを火の海にかえる獣姦爆撃めいた奇観… とうてい前半の洸村氏を論じたようにF~Iの諸作を、ひとつずつ詳述してゆくことはできない。あるグループの3作中2作だけをひろう(1作をおとす)のは無礼だとおもって、グループ全体にそんなばあいはこれまで言及をひろげるようにしてきたが、かぎられた余暇のなかで遊興の時間をけずってまで他者にそんな配慮もしたくない。てか感想書きは、ハード・ワークにて御座候。うすくちの拙速な筆致でかけぬけるので、ご容赦のほどを…

 


ღ グループF

「THE REAL END OF EVANGELION」小林猫太氏
「ハリー・ライムのテーマ」ケイシア・ナカザワ氏

 

ドラゴンボール』や亀頭戦士ガンダムなどを、コミックスやTVでまともに眼にしことはない。アニメはとりわけ当方にとって認識の抛棄とイコールでむずばれた侮蔑の対象で、みずからの精神がそんなものに接触することを小学生のころから当節のコロナのごとく厭忌していた。エヴァンゲリオンうんぬんは、したがって一顧もしない。しないにもかかわらず猫太文学のすばらしさは、じゅうぶんにつたわる。けだし先月の作品のごとく書き手のそれはひとえに鍛錬のすえの抑制がきいた名文によるもの… 『ボトムズ』『ダークライン』の両作をせめて10年間は手をつけないで、おたのしみとして積読しておこうとおもっていたランズデールのにわかファンのわたくしが、がまんができなくなって後者をむさぼるように読了したのは2ヵ月まえのことだが、「両親は敬虔なクリスチャンだった。だから父親は毎日天に赦しを乞うた後で母親を殴った」からのくだりはまさにランズデール流のふるきよき(?)テキサス風味:「神は死んだ」の常套句をふいちょうするKやアニメDVDではなく、だからこそ情念はそのままノスタルジック゠ヴァイオレンスに舵をきって、かけおちした彼女の妊娠だとか生活苦だとか、いっさいからにげだした卑劣な男だとか細菌テロリズムだとかの地獄行にむしろ本作はながれてほしかったな… どうもすみません、かってにそんなことを感じざるをえません☆あばれるくんでした。

ピアノソナタ 第八番『悲愴』第二楽章」の原典版が、ケイシア氏のnoteに掲載されていた。やや唐突にみえた在宅療養にきりかわる経緯もオリジナルでは精密にえがかれていたし、「薄い黄色ともベージュとも形容しがたい月」の多調的な表現も6枚ver. では無慚にニュアンスがそぎおとされていることがわかった。つまり原典版のほうが、ふくいくとした名作だった。けずらなくてもよかったのにとおもうが、<六枚道場>のリングにのせなかったら原典版をわれわれが手にとることもないかもしれないことをおもうと、むずかしい問題だとおもう… さて今回の作品にもハート(シンゾウ)のような符牒がひそんでいるのかとおもって、ダウやウッズやトシなどの名まえから推察するが、お手あげです。ウィーンがだいすきなこともあって、オーソン・ウェルズの映画をみたのもこれまでに10回や20回ではすまないだろうが、かんじんの楽都がうまく撮れていないように感じられて、あらすじもほとんど記憶になく、ケイシア氏の本作との照応もむずかしい。ツィターじゃなく、カール・シャイトのリュートが映画のBGMにつかわれていたらよかったのに… てかハワイじゃなく、ウィーンがえがかれていたらと本作にたいしても註文をつけたくなるが、きっとワイキキになにかがあるんじゃ? 「センテンス・スプリング」はおれだってわかるぜ、それは文章情報の売春窟にして他人の下半身をかぎまわるゲシュタポ!? 「ハリー・ライムのテーマ」はいずれにしろスマートな作品にしあがっていた。さいごにケイシア猊下… わたくしは感想文ライターの身からもセミ゠リタイアメントします。つづけるにしろ次回からはショバをかえて、もっと簡素で穏便なものにするとおもわれます。

 

 


ღ グループG

「ブーツを食べた男と冷たい人魚」吉美駿一郎氏
「二週間目の暗黒固茹で卵」Takeman氏

 

「天狗の質的研究」をかつて拝読しながら、このひとは小栗虫太郎のうまれかわりではないかと感じたものだった。およそ人間とはことなる顔相および骨伝導による天狗独特の声質を考察した尖鋭なペダントリィから、われわれはあの文芸的労作「白蟻」のなかで畸形の顔貌にいたる経緯をなぞるさいのような小栗の筆致をおもいだすわけだし、「かぐやSF」応募の2作でも吉美氏のペダントリィのひらめきや恠異のシーンは健在:「これから三冊の本を紹介します」のラストで先生があわてふためくのは、アキが地球の平面を信じてうたがわないからなのでしょうか? よみすすめつつ浅学な読者はそのつどググらざるをえないシーンが頻発するが、「ブーツを食べた男と冷たい人魚」はひとえに芸術性を信じて、ググらないまま一気によみすすめた。したがって当方の知識が作品においついていない箇所もおおく、いきおい言及するほど無智をさらけだすばかりだろうが、「アークティックチャー」は作中の道具だてよりもイマージュの音響として重要:「ときおり猿のような顔に鱗だらけの胴体」からのくだりは作者のじっさいの女性観/同居観/恋愛観からの流露かなどと調子こいて書くと、ちげーよバカと一喝されるかもしれないから、ここで筆をおく。

 

「第8回」チャンピオンTakeman!!!!!!!! あくまでもわたくし個人のそれは嗜好だが、ここには6枚小説の理想型がみられる。わたくしがそこでまずなによりも必要だとかんがえるのは、いんちきな設定… ちいさな劇場の急ごしらえでつくられた舞台セット感がでていたら、もはや神秘的な成功は約束されたにひとしい。わずか数小節の序曲につづいて幕がひらくと、このたびのTakeman作品はもう絶景すぎて、いうべきことばもない… くそくらえ、リアリズム!! いんちきな設定であればあるほど舞台はむしろ厳粛さにみちる。じっさいに作中人物はここでシェイクスピア史劇のそれにせまっているように感じられる。われわれの神経症ぎみな頭脳が、プランタジネット朝の獣性にみちた胴体にそのまま接続されたような眩惑におそわれる。ラシーヌやジュネもすけてみえる… すばらしい、ブラヴォ!! おしみない拍手をおくろう。いっさいの真実はつまり劇中の闇黒にしずみながら、よごれた卵がいっぽうでは熾烈な照明にばけて、いっさいをあかるみにする。アレグロ・バルバロの話法はふざけて傍若無人でありつつも貞淑な隠喩にみちて、もはや神がかり… すばらしい、ブラヴォ!! けだかいコント・クリュエルがここにある。こんやの吟醸酒も、あなたにささげよう。

 

 


ღ グループH

「カミツキ」ミガキ氏
「王国の母」紙文氏

 

「カミツキ」の作者は、いったいなにものか!? まさに超新星☆誕生:「王国の母」よりもむしろ本作のほうが、アンジェリスムのにおいは濃厚にたちこめている。シャガールがえがいた古雅でなおかつ未来的な天使、うつくしい肉食系の天衣無縫、こどもの老成… えたいがしれない書き手があらわれたものだという感慨はつきない。

 

 いっぽうで紙文氏も、まけてはいない。くわしくは来週にもういちど時間をとって、ゆっくり書こうとおもう。ひとことだけ言及するなら、ざんねんなことに肩胛骨の手術痕のくだりでお説教くさいニュアンスがにじんでいる気がしてならないことなのだー!! お説教くささを払拭しようとおもったら、ほかでもない該当のその手術痕をむしろ悪趣味なまでの執拗さでマニエリスムふうに詳述しなければならなかった気がする。コンドームと陰毛とのくだりにひきつがれるタッチで… そうそう、マニエリスム… まる1日のあいだ本稿からとおざかりつつもランニング中にまたぞろ肩胛骨の描写がおもいだされて、キックやクロールのメニューをこなすこともなく、キイボードをたたきはじめていたが、「まるで木から枝をもぎ取ったかのような痛々しい」手術痕でそれはすまされてよいものか? <天使派>をながらく自任している身からすると、ここは作者もいったん筆をとめて、ふかい考察をこの霊性にささげるべきではなかったか? はたして天使にも血管や神経があるのか? きよらかな肉がたとえ乱暴な手術をほどこされたからといって、かかる恥辱にみちた痕跡をわが身にとどめておくものだろうか? つばさはむしろ痛みも抵抗もないまま枯葉が枝からはなれるように剥離したり、かりにオペをほどこされたにしろ人類にその愚劣な罪業をおもいしらせるべく聖痕はそこで永劫のくるしみをうたいつづけたりしているのではないか? 「王子君」の肩胛骨のうごきから、かえって話者の眼にうしなわれた双翼がうかびあがってみえるのではないか? 「翼が生えてたんだ。宗教画の天使みたいに」の1行が、お説教くさい根幹か? お説教くささをまぬがれるにはやはり偏執的な描写のマニエリスムが必要で、イメージ上のながいルフトパウゼが、かかる描写とせりふとのあいだに存在しなければならないという思考のなお堂々めぐりはつづく… 「天狗の質的研究」でくだんの人間とはちがう骨伝導による音声を、あたうかぎりの想像/智識をもちいつつ考察した吉美氏のようなパッションが必要なところではないか? ためしに公園におもむいて、すずめや鳩の双翼をもいでみるのもよい。いたましい対象の痙攣のさまから、なにかの着想がうかぶかもしれない。てっとりばやくググってみたサイトでは人体構造的に肩胛骨のつばさが飛翔力を有するためには極端な鳩胸になって左右の乳房もはなれて、ひとなみの文字どおり人体をたもつことは不可能だとみている… まあ天使も小説もフィクションで、リアリティをここだけに要求するのは、フェアではないかもしれない。だいいち上掲のTakeman作品にたいする言及で、きさまはリアリズムを罵倒していたじゃないかと指摘されたら返答につまるしかないし、<天使派>のわたくしとしては審美上の理由から本作にそれをぜひとも要求したいのだと口をすぼめながら、くるしまぎれの屁理窟をこねるよりほかはない。リアリティではなく、ロマンの幻視のために… おりからTakeman氏の作品がつごうよく想起されたわけだが、「宗教画の天使みたいに」でアカデミックにのがれるタッチがいやだったのかもしれない。アニメやラノベ的なアカデミックの転用にみえる。アニメやラノベで攻めたかったのだと筆者にいわれたら、ただちにこちらは土下座するしかない。しかしTakeman氏のように下品に下品をかさねて聖性をうばいにゆく攻めかたのほうが、よりいっそう気品があって愛らしい… 「王子君」はなるほど堕天使として邪悪で、うすよごれていなければならない。テロルや嗜虐などの人倫の価値の顚倒から、やがて復権する聖域がみてみたい。わたくしはジャン・ジュネに魅せられているから、ギリシア神話のヴィナスがもともと獰猛でみだらな海獣のイメージを起源にもつような醱酵のなされかたで、メロヴィング朝あたりから醞醸された王国の男性権力/教会の男性権威の象徴たる天使のイメージの発祥も、わかい農婦がおのれを輪姦する金髪のならずものたちの卑劣でうつくしい顔という顔をやきつけた脳裡にゆきつくのではないかという夢想をすてきれない…

 

「あんた、そんなんで生きてて楽しいわけ?」のせりふからは本作をたのしく拝読したが、さいごに感じたことは天使にとってリビドーやエロスがいかなる意義をもちうるのか? おもえばアポロンは太陽神として古代アテナイ市民を外護/祝福しながら、おなじ市民たちを疫癘や饑餓のるつぼにたたきこんで死者を量産する戦慄すべき神格としても祭祀されていたわけだし、「王国の母」がうつくしい天使にみちびかれながら、おなじように人類にたいする無慈悲な復讐の悪胤をやどしてゆくということならおもしろい… おもしろいといったら、こうして感想を書かせていただくのも、けっきょくのところ刺戟的でおもしろい。かならずしも拙文がその作者および読者にとって快適なものになるとはかぎらない。むしろ不快になる要素マシマシで脱線につぐ脱線ではないかと自粛警察がうごきださないともかぎらないが、<六枚道場>でこれまで8回中6回もわたくしは参加者としてお世話になって、せめて返礼の一片なりとも本稿が、サークル管理人にたいする感謝をはこんでくれているものにならんことを、いのるよりほかはない… さいごに紙文氏という書き手は、ほんらい古典文学にふかく依拠するタイプのはずではないか? こんにち出版される商業小説など文学史上の偉大な傑作群にくらべたら、ものの数ではないという当方とおなじ態度にでるようなタイプにふくまれそうだが、<なう>とリーダビリティとにしっかり照準をさだめて書いているところが、すこぶる稀有でおもしろい。さらにその照準のさだめかたが、しゃにむに商業作家をめざすための道程にあるようにもみえないところが、ユニークにみえる。むしろ戦略上のその照準のさだめかたや価値を、なかば書き手みずからが信じていないようにも感じられるところが、よけいに興味ぶかいのだーと僭越ながら推察しつつ擱筆いたします。ありがとう、Je vous remercie à tous…

 

✍ 13‐Août‐2020


「王国の母」を再読する。そして話者がふと鶏にみあやまりそうな翼の木乃伊のくだりから、あらためて作中のその前後をみわたすと、わたくしの前述とはことなる眺望がひらかれそうにもみえる… ひょっとすると作者は天使もその聖性も、ことさら信用していないのではないか? 「乾いたへその緒」とともに白木の箱におさめられた木乃伊は文字どおりのものでなく、ここでは骨盤の1対の寛骨あたりをイメージさせそうな気もするし、いっぽうでそこから静物画とむきあったさいのような省察にもひきこまれるが、「乾いたへその緒」とともに秘蔵されたものが生来のふつごうなものして切除される──ほんらい常人には賦与されえないものだということを加味するなら、ふたりの作中人物をこえて行間から、はたしてそれはLGBTにまつわるようなものを──いや作者さえ認識しないまま声なき声で、かかる生殖の無効性をうったえているといったら、うがちすぎだろうか? 「あらゆる静物画は、創造第六日の世界をえがいているのだね」(高橋義孝/川村二郎/森田弘共訳)みずからの死のすんぜんまでムージルが心血をそそいでいた未完の長篇の絶筆:「夏の日の息吹き」の前章でつづられている落想(アペルシュ)は、はからずもこの天使をあつかった紙文作品の読者が、おおむね無意識下にのぞきこむ作中の深度もいいあてているようにおもわれる。「だから、静物が、人間の心に喚びおこすのは、恐らく嫉妬の感情と、神秘的な好奇心と苦悩なのだろうね!」(訳同上)

 

 さいごに一転して下世話きわまることを書くなら、けっきょく作中のふたりは数年のあいだ同一の異性がつねにセックス゠パートナーであることに不満をおぼえないものだろうか? おぼえないとしたら、やはり霊的な意味あいをおびた行為なのか? 「第一志望だった東京の大学」「紛失した定規」「教授」の3つしか話者がかかわる圏外のことがらはみえてこないわけだし、「王子君」なる天使がほんらい有するはずもないリビドーと、リビドーにもとづく(両者の)あきることがない生殖行為と、かくあらねばならぬという未来像のためのその生殖との3つが示唆するものは、はたしていかなるものかという問いをここにのこして、これからも紙文氏にはたくさんの天使小説 Geisterroman をつづっていただくことをねがいながら、ふたたび擱筆:「いつだか病気で床についたときに、天使たちと話をかわしたものだ。あのとき天使たちは彼女と寝床のまわりに立ち、その翼からは、それを動かすともなく、かぼそくて高い音が響き出て、あたりの物たちを削(そ)ぎ抜いた。すると物たちは廃鉱石のようにこなごなに砕け、世界全体が鋭い貝殻状の破片とともに横たわり、彼女一人だけが小さくひとつにまとまった」(ムージル『静かなヴェロニカの誘惑』古井由吉訳)

痩蝶月旦:第7回 <六枚道場>

 

 

 

 

✍ にんげんも顔がいのちの推しとく


 じつは杉浦ボッ樹が自分よりも年下だったことに気がついて、あいた口もふさがらない夏──みなさま、ごきげんいかが? ひとの顔はまさに万華鏡、ハゲかたも威厳のつきかたも老けこみかたも病みかたも千差万別、てんでばらばらな百花繚乱:「きみは薔薇薔薇あかい薔薇」などが口をついてでたら、ハートはもう棺桶♬<六枚道場>でも拝読中にたいてい書き手の顔をかってにイメージしているが、かろうじてnoteのアイコンでお顔の特徴がつかめそうな中野真氏はこんな感じ、ハギワラ氏もこれ、紙文氏これ or それ… たぶん真実からは何万光年もとおざかっているのだろうし、ひとの想像力はその限界をたやすく露呈してしまうものなのでしょうか? 『ヴォツェック』にもとづく長篇から抜粋した6枚をこのたび発表しようとおもったが、「きまぐれ」Grillen なる標題がしめすとおり先月のシューマンの音符をおのれの白紙のなかで言語化する作業がぞんがい愉悦にみちて、つづく2作もおなじ手法で脱稿──わたくしが本サークルで過去に発表した3作:「散髪」「饗宴」「挽歌」は原稿用紙6枚からそれを凌駕したスケールをたちあげるべく室内管弦楽の編成でのぞんだものだが、あらたな3作のほうはもとより6枚のその実寸にあわせた器楽曲… とはいえ3作めでやはり幻想小曲集 Phantasiestüke op.12 から、グランド・ソナタ Große Sonate op.14 の大作志向にそれは転じているし、「きまぐれ」Grillen はつまり経過句というか駄作にすぎない。つぎの作品こそがわれながら最高のしあがりになったと確信しているから、ぜひとも8月はグループAにはいりたい!!!! おねがいします紙文さま、お中元は土佐の小夏か夢栗でよいでしょうか? はたして本サークルの管理人もアルコールをたしなむのだろうかといぶかりつつ夜空をふりあおいで、こんやは志村けんをしのびながら、モンタルチーノあじわうことにする…

 

 

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 さて先月とおなじく第7回の全作品が発表されるまえに上掲のはしがきをしあげて、グラスをかたむけつつ本サークルのサイトにアクセスすると、なんと今回がグループA!!!! う~む微妙…

 

 

 

ღ グループB

「雨は半分やんでいる」中野真氏

 

 ことわっておくが、なにも毎回ルーティンで中野氏の作品をとりあげているわけではない。どうしたって言及せずにはいられない情焰を、このかたの文章はやどしている… つかのまの序奏をへて、レチタティーヴォをきかせる1ページ3行めからの叙述:「やかんに火をかけ」からすなわち2ページ4行めまでは、いつにもまして端正な筆づかいにうなる。ここまでの精妙さがまさに生命線なのだということを読者もじきに気がつかされるが、「半分ほんとで、半分は、ほんとだったらいいなって気持ち」から頻出するアンビヴァレンツな表現のかずかずはそのまま後述の精神科につながるばかりでなく、イディオムのその隠微な熔解がワグネリアンの和声の崩壊のきざしをはらんだロマンティシズムによる2声の進行をもイメージさせるし、きりつめられた文体がいわば書き手による意識/無意識からの要請ではなく、ほかでもないロマンティシズムがその陶酔によって止揚する内的なリズムできざまれているように確信させられるところからも、わたくしのような読者はいきおい二重のニュアンスで本作にひきつけられる。きりつめられた文体が車の走行とともにスピードアップするほど文体はむしろ瞬間ごとの念写力をつよめて、ことばたらずのまま緻密さをはらむようなぐあいに冒頭の叙述とはべつのところから丹念な描写はたもたれてゆくことだろうし、「僕」をとりまく厖大な物象はそれによって作中にやきつけられてゆくことにもなる。みずからの創作をドライヴしうる境界からスリップして、グリサンドの尖端でくだけちるガラスの破片のような狂気の音響をまちうけながら、オクターヴ内というかオクタゴン・リングのぎりぎりのところで勝負をきめる文字どおりロープぎわのマジシャン… 「雨に欲情するのはおわり」のむすびまで場外乱闘めいた欺瞞やなれあいの文章も、やっつけ仕事にちかい放埓や逸脱の表現も、ここにはいっさいない。たぐいまれなロマンの情焰を、これからもご自身でたやさないようにしていただきたい。

 

 

 

ღ グループC

亜音速ガール」小林猫太氏
「散弾」6◯5氏
「di‐vision」澪標あわい氏

 

ギャラクティカ拉麵」の夢をもういちどと渇望する読者のために賢明な書き手は、けっして桶狭間の奇勝を再現しようとはしないものだし、にどとルビコン川をわたってみせることもないだろう。おのれの快作の亜種をうまない作者にたいして読者はさみしさをつのらせながら、いっぽうでは鑽仰と敬愛とをおしまない。ともあれ今回の作品は、わたくしのような読者にとってうれしいものだった。やはり上述作のように文体がその語意にさきがけて疾駈しつづけながら、アリアを氾濫させている。ちなみに初見のさいにそれが音符でうめつくされた文字どおりスコアにみえたほどで、よみすすめながらテクステュアをなおかつ自分ですこしつづ書きかえてゆくというか正確には近似するところに移調しつづけてゆくような二重情景 doppelszenen をたのしむことができた。それは再読時にけっしてブラウザからたちあがらない幻景だった。バキは強敵とリングでまみえるまえに、リアル・シャドウをおこなう。おなじ相手とつまり幻想のなかで一戦まじえて、からだじゅうから実戦とかわらない血の量をふきながしているわけだが、<六枚道場>を拝読する意味はわたくしにとってこのシャドウをたのしむこと以外にはない。かりに書き手がまだ自身の才能の30%しか作中でひきだすことができていないにしても、シャドウのなかでは全開した潜在能力のすさまじい破壊力でおしよせてくる。いくたりかの書き手のかたにも、シャドウのなかのご本人像をみせてさしあげたくなる。うれしいことに本作はもとより想像でその破壊力をひきあげるまでもなく、ひときわ高次のファイトをたのしませていただいた。さらに余人がうんぬんするまでもなく、いっさいは奔放かつ錬達の抑制がきいた名文でえがきつくされている。とどめに愚地克巳の真マッハ突きによる絶景がひらかれただけに、ラストで平凡なおにゃのこにもどる予感がさみしい… もっとも作者のそれはやさしさなのかもしれないし、あとひとふんばりの邪悪なゾーンに帰結させることができた巨凶範馬の血をわがものにしうる権利を、みずから抛棄したゆえんかもしれない。

 

「混乱こそわが墓碑銘」Confusion will be my epitaph はごぞんじ抒情詩人ピート・シンフィールドによるキング・クリムゾンの誕生をつげた聖句:「散弾」は6◯5氏の初発表作ではないが、どことなく書き手のやはり開闢がつげられているけはいがする… あさぬま氏との近似性のようなものを1ページめから感じたが、たんなる気のせいだろう。レヴィ゠ストロースにうといぶん内容にふみこめない弱点をこちらは克服しえなかったし、くだんのシャドウではつまり書き手から3ページ2行めにいたるまで一方的にボコられる状態がつづいたが、こちらがようやく反撃に転じうる弱点をみつけて、マウントから左右をぶちこみつづけたのが3~4ページか? 「窓から眺めた交差点に人だかりができていた」のところでレフェリーがわれわれを左右にへだてて、スタンディングからふたたび激突:「古いフォークソングがなっていたと思う」でハイ・キックがこちらの後頭部をとらえると、とおのく意識のなかでこの書き手にわが最愛のゴンブロヴィチをよませてみたいとかんがえた。

 

 これまで澪標氏の作品を読了したことがない。ひじょうに文章はうまく、ときとして描写はマクロの表層からミクロに潜航して、わたくしの嗜好とことのほか合致する瞬間もたちあらわれるが、たちあらわれたとたん多数決でこれは高評価がくだされる作品だから、おれがとちゅうでほうりだしたところでかまうまい? うまいんだから、べつにそれでよくね? じつのところ澪標氏ひとりではなく、おなじ感慨からギヴ・アップする作品はすくなくないが、ほうりだすタイミングはひとりひとり微妙にちがってくるような気もするから、なぜかをつきつめるためにはやはり作品をよみとおすしかなく、よみおえてわかったのは澪標氏のばあい作中にえがかれる対象のひとつひとつにたいして作者が愛情をもつことと、えがかれる対象のそれらが愛のきらめきによって光暈(かさ)をひろげる焦点のぼやされかたに抵抗があることとがわかって、あまつさえ後述するTakeman氏の作品がそれを本質的なところで総括してくれた。ほかのひとは評価するから、おれが手をつけるまでもない。おもえば世界はそんなニュアンスのものでみちあふれていて、おなじ感慨から当方がいままで体験しようとさえしなかったものを列挙するなら、ビートルズ夏目漱石寺山修司ヴァージニア・ウルフ甲州わいん、押切もえ、文芸誌全般、『ドラゴンボール』や亀頭なんたらガンダムというかアニメ全般にJ‐POPやK‐POPやTikTokがくたばろうが破産しようが、いかなる痛痒もおぼえることはない。

 

 

 

ღ グループD

「すでに失われてしまった物語」Takeman氏
「金のなる木」大道寺轟天
「夢の中の男女」伊予夏樹氏

 

 みづがきやわが世のはじめ契りおきし後鳥羽院のにたび筆すさびたまえる僥倖無窮にて往昔(そのかみ)の廃帝いまの噺家たる流転のことはりなれど夏山のしげみにはへる青つゞら蝉時雨のごと神籤のすゞしき顫動から御門Takeman氏伊予氏がここに凝集:「寓話」Fabel クラスタが、はからずも形成された。まずTakeman氏がうまい。うますぎて悪意がこちらの意識から奔出すると、やっぱ2人称でなおかつ<ですます>調なら実体よりも文章はうまくみえるものなのさなどと毒づいて、はたと澪標氏のそれにたいする疑問もここで氷解した。どんなにうまくても美的でも評価されうるものでも、すくなくとも自分にかぎっては澪標氏やこのたびのTakeman氏の作品はあらかじめ筆をとるまえに却下している題材なのだと気がつかされた。もっとも当方がそれを棄却したからといって余人がそれをするべき必要性やいわれは寸毫もなく、めいめいが取捨選択すればよい… いにしへの千世のふる道年へても呉竹の葉ずゑかたよりふる雨:「昔々のお話です」かしこくも玉音をたまはりて、みごとな噺家のかたりくちだと僭越ながら舌をまいたものだし、「めでたし、めでたし」のむすびまで須臾の間とみゆるほど轟天作品をこのたび賞翫させていただいた。さいごの伊予氏はこれまで言及したい言及したいとおもいながら、わたくしのばあい決定的な作品とまだ邂逅していないおもいがつよい。すくなくとも140文字の小説をふたつは書きあげることを日課にしているらしいヴァイタリティには舌をまくしかなく、なんつーか畏怖しつつ敬遠しているというのが正直なところだし、「天空分離について」につづく読者の認識のおよばない高所でかろうじて均衡をたもっているようなファンタジィを個人的には熱望しているが、「天空大陸フラナリーの年代記」の標題がつけられたnote記事にはばたけば瞬時にそんな熱望もみたされるのかもしれない。このたびの発表作もうまいが、みんなが評価するだろうから自分ひとりくらい言及しなくてもいいだろうの地点からやはり現実世界にきびすをかえしていた。

 

 

 

ღ グループE
「試験問題(わたし)」紙文氏

 

<六枚道場>が紙文氏の本領だという儼然たる真理を、あらためて実感させられた。われわれ参加者はいわば領国のめぐりに点在する附城にすぎない。そして本丸および支城網でかたちづくられる文字どおりサークルのその布陣でもって一大ムーヴメントをおこすべく外界にうってでようとするのか、もしくは文学的にたまさか無菌無私をほこっているユートピアの小空間を、むしろ腐蝕せんとする外界からの防禦として本丸をめぐりつつ捧持される本サークルの作品群か? いずれにしろメール本文にコピイ&ペイストされるかたちで伝送されるデータは、ひとしなみに紙文氏の文書フォーマットで作品化されるわけだし、ことばのその配列がうつくしく映じるように先月からわたしはこれと同一の25文字×20行であらかじめ作品をつづって、ダッシュの位置に気をくばったり、なるべく促音や拗音が文末/文頭にこないようにも工夫したりしているが、「試験問題(わたし)」の視覚美にはおよぶべくもない。うつくしい、ただうつくしい… 「ねえ、ビールは冷えてる?」の1行なんて横に棒をふりたくてしかたがなかった書き手のリビドーがびんびんにつたわってくる。もはや内容をうんぬんする気もおこらない。うつくしい、ただうつくしい… 「A」(テキストでは長方形にA)はレガートみたいで感心しきりだが、ひょっとすると書き手自身はわたくしが感じとった企図など寸毫もおもいえがいていないのかもしれない。ただ後述の宮月氏の作品とともに小説のあらたな可能性を、わたくし個人はここにみるということにすぎない。それというのも無形式表現たる小説を、ながいあいだ書くことにうんざりしつづけてきたからだし、うんざりしつづけるあまり書くこともやめていた。それだけに形式上でこのうえない精緻なうつくしさをほこる音楽に、わたくしは魅せられてきた。まぼろしでも文学がおなじ形式や技法をまとうことができたら…

 

<六枚道場>が存在しなかったら、かかる表現上の可能性のために小説を書くこともなかったかとおもわれる。いかなる執筆依頼、版元の意向、名声慾や野心、売上や原稿料などの制限からも自由でいられて、おのれが書きたいものを書いて、さらに書いたさきには読者がまちうけてくれているなどという理想的な空間は、なかなかに存在しうるものではない… すみません、なみだぐんでしまって、とうてい作品の感想をこのまま書くことも… うっうっうぅぅ、ぐぅぅぅ… てか紙文さんて女性? 「わたしをこの世のすべてから遠ざけていく」なみだにむせびつつ作品をよみすすめて、ジェンダーな疑問をいだいたが、これこそがもしや作者による陥穽か!? ちかごろ書き手のジェンダーは問わないだとか他人の容姿はうんぬんしないだとかのSNSの風潮はやりきれなくて、へきえきしておりまぁぁぁ~す!!!! かりにフルトヴェングラークナッパーツブッシュの演奏にたましいをうばわれたとしたら、フルトヴェングラークナッパーツブッシュがどんな外貌をしているか熱烈にみてとりたくなるし、みたとたん両者がその演奏にひとしい魅力的な外貌のもちぬしだと気がつくにちがいない。にんげんも顔がいのちの推しとく… かつて三島由紀夫堀辰雄やその読者のことを微温的集団だといって弾劾した。わたくしからみたら作品のネオン看板(イメージ)にくらべて三島本人のエゴもそうとう薄味で微温的だとおもうが、「男女を問わない」「容姿をあげつらわない」風潮もまさに微温的とはいえないか? おなじ微温的にみえる点でわたくしが嫌悪するタレントとして、マツコ・デラックスがあげられる。マツコがきらいなひとなんてあんまいないよというかもしれないが、そこがまさにそれ… きらわれないあんばいの毒舌も、ほどよいジョークも、ひとをたてる謙譲もやさしさも、やつにはエゴをおしとおすほどの自信も才能もありはしないところからきている… うんぬんかんぬんで紙文氏の本作からおもいきり逸脱してしまったが、「月旦」などと面識のない書き手のみなさんの人物評をうそぶいているから必然的にこんなふうになってしまう。 だんだんと文字数制限がせまってきたので、あらたな小説の形式的な可能性については、ひきつづき宮月氏のところで言及したい。

 

 

 

ღ グループF

「回転硝と得難い閃光」ハギワラシンジ氏
ピアノソナタ第8番 「悲愴」 第二楽章」ケイシア・ナカザワ氏
「卵焼きと想い出と音楽と猫」今村広樹氏

 

「Médaille d'or, アジシン!!」はじめの数行をよんだだけで<第7回>チャンピオンは、ハギ神にきめていた。フランス語でHは発音しないから、アジシンになってしまったが、このひとの作品にどことなくバルベックの薫風をおぼえるのは、わたくしだけだろうか? じつのところ純血種なのだろう。ご本人さえも気がつかないあいだに文学の英才教育をうけてきたにちがいない。いまだに運動する文体というものが、わずかな書き手のあいだで命脈をたもっていることにうれしさを感じた。リーダビリティから乖離しながら、じつのところ流行作家とのあいだの距離をたくましく確実につめようとしているのが、ハギワラ氏のようにも感じられる。リーダビリティがリーダーになる素質の意味ではないことに気がついたのはつい最近のことだが、よみやすさだって不変のものであろうはずがない。つねにだれかによって定義があらたに呈示されて、みんながそれに気がついたときのそれがそれ… 「硝」の字がタイトルにつかわれているからか? 「回転」はなんとなく弾道のそれのようにも感じられる。そして作中にえがかれた村落のたいせつな生活や営為にまつわるものではなく、たんに筆者にとっての小説作法ごときに譬喩をしぼるなら、リアルな正攻法の小説(横回転)の書きかたを、ハギワラ氏は早期から英才教育でまなんでいたので、オートグラフの小説(縦回転)をこころざすことができたのかもしれない。カンマ/ピリオドは横書きのものだが、むりやり縦書きでつかわされているんだぜぇぇといいたげな筆者の後頭部に、わたくしがピーナツをぶつけたくなったとしてもむりはないではないか!? さいごに筆者のこの縦回転がじっさいの出版界をまきこんで、こなごなに破壊しつくしたうえに世にもうつくしい前衛文学を、ほかでもない回転そのものの美やスピードで再構築してくれないものかと夢想する…

 

 ひとの嗜好から影響をうけることができるのは、しあわせなことだとおもう。ケイシア氏からはランズデールのすばらしさをおしえられたが、ちかごろ同氏の過去の発表作のタイトルから興味をもって聴いたところ偏愛しはじめたものに "I Will Say Goodbye" があげられる。ビル・エヴァンスなど聴く趣味はもちあわせていなかったが、もうイントロから陶酔感がたまらない… かねてより偏愛するアルバン・ベルクピアノ・ソナタ作品1の冒頭 につうじるところがあるからか? ちがうのはベルクのほうが貴腐ワインの芳醇と頽廃とをはらんで、ビル・エヴァンスのほうはもっと直截的なバーボンの琥珀色のしずくのようなものだという主観をのべたところで、ケイシア氏がスコッチを月光のかげんでバーボンに変容させようとした1ページめの文章から、このたびの発表作にふれる。ベージュの月がみえるまで作品はゆるやかに耽美をまとってゆく。そして月光が、つぎのシーンを照射:「これは私が自宅から見上げる最後の満月となるだろう」の1文に1オクターヴ上昇のリピートが凝縮されて、ベートーヴェンのスコアどおり短調のエピソードがはじまると書いたら、うがちすぎだろうか? なくなった氏の親友のことが、がんのシーンにも反映されているのか? 「恵まれなかった幼少期についての夢を見るようになっていた」たまに堀辰雄を媒介するかたちで、かすかな精神上の血縁のようなものを氏の作品にたいして感じることもある。わたくしはそこから松本隆のながれをくんで、ケイシア氏はケイシア氏でべつの先達から薫陶をうけたにちがいない。おしむらくは今回の発表作は大幅なチョーカーだったらしい。そして作品は5ページめで急速におわっている。ハギワラ氏の作品とともに密度のたかさを感じたから、どちらも6枚でおわらなくてもよいのにと感じさせられた。さざなみのようなコーダの結尾が、ばっさりと削除されてしまっているのではないかと危惧される… なき親友とクサヴィエ・ドランの映画とを照応させながら、すぐれたエッセイも氏は1ヵ月まえに発表している。チャイエスのくだりの赤裸々なリークが、わたくし個人のつよく印象にのこる部分だった。

 

 このたびの今村氏の作品もすばらしかったので、それだったら第5回作品:「秋月国史談『矜持』」だってナイスだったぞと再読したくなる… わずか6行の土岐頼芸がつまり近江の六角領に逗留して、おのれを追放して国をうばった美濃のまむしを憎悪しているやつだが、なぜ秋月だと今回の作品をよみつつも疑問をあらたにした。

 

 

 

ღ グループG

「赤頭巾」宮月中氏

 

 ながいあいだ無形式表現たる小説にうんざりして、わたくしは書く気もなくしていた。そして形式的な可能性をみるなら、このたびの紙文氏と宮月氏との発表作は、みのりがおおいものといえる。おなじように製図化された小品をそれこそ本サークルの参加者がこぞって書きあげたらおもしろいし、「世にも奇妙な小品(小説)」なるタイトルのオムニバスにしたてたら、ぞんがい売れないだろうか? みじかいものが、ちかごろでは売れるらしい。わたくし個人的にそれは悲歎すべき傾向におもわれるが、かつて存在しなかった形式を小説にまとわせる企図としては有益でないものともかぎらない… ともあれ宮月氏の本作をよみすすめながら、カセットを装填してプレイする昭和のファミコンの画素があらいRPGの牧歌的な情景をおもいえがいた。プレイヤーに旅のヒントをあたえてくれる村娘が、スピーチ・バルーンのなかの文章でしゃべっているようなふんいきだし、【祖母】【狼】の並列もそれっぽくないか? おとぎばなしに現代性や世相をにじませるやりかたも、たんなる地の文だけだったら読者はあざとさを禁じえないが、ひなびたRPGふうの情景がそんなマイナス面も埋没させている。まことに小説というものは、わずかなあんばいでニュアンスを生かしもすれば殺しもするナイーヴなものだなと実感させられる… さいごにパパさんは、フーゾクやリフレのようなところにいたの? え、ちがう? わたくしは左利きだからか大半の読者がよみとるオチも、まるで気がつかなかったりするばあいがおおい。さいごにパパさんがどこにいたのかご教示をねがいたい。インセストなものではと邪推もして、オチから正解をひきだせなかったが、「世にも奇妙な小品(小説)」にこんなものが100篇もあつまったら、ベストセラーはまちがいないという気はする。

痩蝶月旦:第6回 <六枚道場>

 

 

 

 

 ✍ アラムナイ゠6タゴンのひとりによる冗長なはしがき


ヴォツェック』3幕15場の形式/技法にもとづく3部15章の長篇を、かれこれ10年のあいだ書きつづけている。オペラの総譜とにらめっこしつつ原稿用紙300枚ばかりの梗概をまずは作成して、ランダムにそこから各章をしあげてゆく工程でなんとか全体の75%をしあげた。さいわい困難なパートもそのつどムーサの恩寵できりぬけてこられたが、ことしにはいって全体の80%にせまろうかというインヴェンションの後半で、ついに以降はとうてい書きすすめられるものではないという地獄の牆壁(かべ)にぶちあたってしまった。ボートにのりこんで、オールでこぐあいだ気温はみるまに氷点下にさがって、せっかく対岸がみえてきたのに自分をとりまくものは氷湖にかわってしまったから、すすむことはおろかUターンもできなくなっていたような創作の膠着が、つい先日まで3ヵ月もつづいた。だいたい10年のあいだ脱稿しない時点で、ふつうならボツだ。はじめの数年でファイルの消去にふみきっていたら、さもしい未練ものこらなかったはずだが、あと20%で完成じゃん? のりかかった船じゃね? 「すすめば往生極楽/ひけば無間地獄」の一向衆ばりに前進あるのみだとダーク・ラムやバーボンをあおりながら、ゆびさきを舞踏の神化にみちびくムーサの招魂もこころみたしだいだが、こんどばかりはそんな劇薬にたよったところで1行はおろか1字たりともキイボードからはじきだされない。いたずらに沈黙の3ヵ月がすぎた。いよいよ自爆するときかと松永弾正少弼ふうに観念して、ファイル消去をはかろうとしたとたん文字どおり魔がさした。

 

<六枚道場>にだすつもりで、つづきを書いてみたら?????????? 「ろ… ろくまい、ど?」あたまのなかがその瞬間にまっしろになって、ゆびさきはケンシロウもまっさおなタイピング激打にあけくれていた。ぶあつい氷面にたちまち亀裂がはいって、およそ3ヵ月のあいだ白紙だった箇所もことばの奔流でうめつくされた。ボートはふたたび対岸をめざしはじめたが、まてよ? おかしくないか? いまや奇蹟的にこうして膠着状態をまぬがれたことに安堵しながら、おれはこの安直なクリアにかえって不安をつのらせていないか? 「急がば回れ」というではないか? ふだん接続するはずがない日常会話の回線にキイボードをつないで、ぬけ道でなおかつマラソン大会のゴールをふんでいたような手段のやましさを禁じえない。ひとことでいうならオンラインで書いてしまったわけだが、だんじてそれは本意ではない。おのれと外界とをむすびつけるものは、ネット回線ではない。おのれの文章そのものが、ローカルから自分をひいては世界につないでくれる。すくなくとも外界にむすびついたと書き手がみずから妄想しうるほどの文章は、たいていのばあい筆舌につくしがたい労苦のはてにしか作中にもたらされないし、<六枚道場>で発表しようとおもったとたん3ヵ月のあいだ1行もすすまなかった難所が、かくも短絡的にクリアされるなどというのは、よほど自分はおめでたい墨俣の一夜城のはりぼてならぬ素股の一夜嬢の張形… おのれというかベルクの書法のかわりにSNSのおしゃべりで空白をみたしてしまったような陰鬱が、いまもなお意識にこびりついている。ともあれ支離滅裂な描写のとちゅうからはじまって、ピリオドもうたれない尻きれとんぼでおわる──できそこないの小説まがいにしかならないが、いっそのことタイピング激打のこのシーンから適当にぬきだした6枚ぶんを、ほんとに紙文氏におくってみたら?????????? 「お… おくって、み?」あたまのなかがまっしろになって、ゆびさきもふたたび魔がさしたようなタイピング激打にあけくれていたが、<六枚道場>で発表した過去3作は──おもえば3作すべてがこの無意識というか無想転生からくりだされた本能寺だった。そしてフォルダにはこのたび原稿用紙4枚ほどの "Des Abends" なる標題をもつシューマンもどきが新規保存されていた。こちらはどうやら何年もまえにpostした以下のふたつの140文字: 

 

 

 

 を3連符にかえて、ふたつながら同時にうちならした器楽曲ふうの小品らしい。アラムナイのひとりとして今回はこれで6タゴンに復帰するが、つぎは上掲のできそこない6枚でいどみたい…

 

 

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 さて先月とおなじく第6回の全作品が発表されるまえに上掲のはしがきをしあげて、あとは紙文氏、宮月氏、ハギワラ氏などの作品を、こんどこそ冷酷なまでに粘着質のメスで腑わけしてやるばかりだとサディスティックな快感にうちふるえていたわけだが、だれも参加していない!!!!!!!! さては阿波しらさぎ賞とやらに意識をうばわれてしまったのか??????? わたくしだって土佐くろしお賞、佐渡しおふき賞、マゾッホ菊門賞などがあったら応募したいくらいだが、いざ戦場にのりこんでみたら敵勢がいなかったような肩すかしをくらいながら、ケイシア氏と中野真氏との作品はあとのおたのしみにして、ほかの作品をよみすすめることにした。

 

 

ღ グループA 

「貧富の彼岸」大道寺 轟天

 

 おそれかしこくも後鳥羽院の世をしのぶ雅号とて轟天を名のられし御門のたはむれに筆すさびたまへる玉稿を、やつがれさへ拝しうる僥倖ここにきはまれりというべきならむ歟。もとより僭越ながら至尊のみこころをおもんばかるに4ページ12行めあたりより奔騰して山内さんの歯もぬけたるにおよんで作品はようやくメイン・ディッシュの本然をば顕現したりとぞいふもをかし… むしろ4ページめまではオードヴルとして1ページほどの分量でちゃっちゃと書きながして、おもうぞんぶん作者みずからの描写のよろこびに耽溺したほうがよかったのではあるまいか? 「幽暗を赫奕と照らす」あたりにその冀望せる世界観はあきらかで、とどのつまり作者はかの三島由紀夫のフォーマットをかりて、ことばをちりばめたかったのではないか? かさねて僭越ながら小生はつとに三島作品をきらいぬいて、しみったれた地方の歓楽街のようなものとしか感じたこともない──いたるところに美のネオン看板はまたたいているが、「美」そのものはどこにも存在しない──ひっきょう当方の三島観はそれにつきるが、ひとさまがその作品群にあこがれる感性や審美眼までを否定するつもりもなく、したがって氏にはもっと徹底的にのっけから美文攻撃をかましてほしかったなというおもいがつよく、みたび僭越ながら次回作をたのしみにしたい。

 

 


ღ グループC 

「扉を開けるとロンドンなのだけど、そこまで話は進まない」一徳元就氏

 

 おもいこみで浅見をさらけだしつつ書くしかないが、たぶん小説を書くよりも小説の枠内でご自身のつややかな玻璃細工にちかいテクステュアを構築することに余人のおよびもつかない情熱をかたむけている芸術家ではあるまいか? 「エディは13歳」が縦線ではなく横のながれにあわせたオーケストラとして作中からひときわ新鮮な音響をたかならせてくれたようにおもわれるし、ひょっとすると芸術家/作家などのことばもご自身のめざすところからは乖離しすぎて、いやがりそうなものかもしれない。そこでAVになぞらえてみるなら、けっして本番行為にいたらないのにシテュエイションだけで病的なエロの撮高や売上(もとい再生回数)をほこるレーベル系か? からめ手からまた淫靡なからめ手にうつるマニアックな迂回でけっして直進゠挿入することはなく、ほんらい小説家がもっとも書きたがって、なぞりたがる王道ともいうべき展開゠本番にもけっして突入しないまま奇怪な自動器具におのれのいちもつというかラール・プール・ラールの情熱をおさめて興がる… はたして生殖行為がそこにあるのかないのか? そこに愛はあるんか? すきなアイドル歌手や女優はおるんか? げんなり氏の作品から、つねにそんなことをおもってしまう。

 さて今回の作品は、リーダビリティをほこっている。つい最近までリーダビリティをリーダーになる素質の謂だとかんちがいしていた人間がこんなことばをつかっても説得力はないが、よみすすめるうえで停滞がなく、ことばの配列もていねいというほかはない。タイトルをみただけで結末までがリーダビリティだわといいたくなるほどサーヴィス精神も花びら回転天国:「サイクロードを使って山の上の湖を眺めに行くか」ぜったいに行かねーだろ、てめえとおもいつつも4ページめでふたたび山の上の湖がうんぬんされると、ぜったいに行かないだけに読者のなかにそれがやけに銀色のうつくしいものとして想起されないか? 「曲げわっぱ」「メキシカンダイナー」「のりたまご飯」「ランチバッグ」「ジャスミン茶」「ルイボスティー」などの小道具のひびきもサイクロードをかけぬけて、いっさいがその清涼な山上にすいあげられる。おそらく4ページまでに作者はつい最近までリーダビリティの意味もしらなかった低脳読者のおもいもよらない秘密をちりばめているにちがいないが、「金輪際パイポ」は禁煙のそれではなくて落語のほうか? 「トイレのドアは閉まった」ままだとしてもラストは本作のそのタイトルにむかってドアをあけはなっているようにおもわれるし、なぞめいたコードの堆積のなかで閉塞する6枚とはまた別趣のおおいなる開放感の風がふきよせてくる。

 

 


ღ グループE

「マニッシュ・ボーイ」ケイシア・ナカザワ氏

 

 なによりもケイシア氏に感謝しなくてはならないのは、テキサスの狂犬ランズデールの存在をおしえられたことだが、『短編画廊』におさめられた作品が無料でよめるぜという氏のtweetをのぞきみたのは4月のなかばだったか? 「まあ魔犬エルロイさえいたら、ほかのヤンキィ作家はいらないんだけどさ」いささか傲慢な通常運転の境地から、さして期待もしないままランズデールの短篇をひもといた。しびれた。すぐにハップ&レナードの文庫本シリーズにとびついたし、『サンセット・ヒート』も一気呵成によみおわってしまったが、『ボトムズ』だけはもったいないので手をつけていない… すばらしい書き手をおしえてくださってありがとうとお礼をつたえようとしたら、ケイシア氏はなんとtwitterではやくもランズデール本人とつながっているではないか!? うらやましい。しかし書くもののすばらしさにくらべて、フォロワー数1.9万人はすくなすぎる。いかに世間がよいものをわきまえないかの証左にもなろう… おしゃべりな日本のどうでもよい作家はおろかエロ漫画家や地下アイドルにも数でおくれをとっているかもしれないし、くだらないRTがまわってきたAV女優が同数の1.9万人くらいだったから微妙なところだが、「いいね」をランズデールからおしてもらうどころかフォローもしてもらったらしいケイシア氏はともかくもブロウ・ジョブならぬグッ・ジョブ。こうなったら海のむこうの邸宅にまねかれて、エンチラーダでもふるまってもらったうえに美貌のむすめとねんごろになるところまでいってほしい...

 

 さて海外に雄飛するべきケイシア氏のこのたびの作品は、ほかでもないランズデールにささげるオマージュか? 「映写技師ヒーロー」(わたくしがケイシア氏のtweetでおしえられた短篇だが、まずい邦訳タイトルだよね? "The Projectionist" の原題表記のままにしたほうがましなくらいじゃないか?)にふんいきもつうじるものがある。ほらほら納屋からもうショットガンをだしてきたじゃん、だしたくなるよねぇぇぇぇと当方がはるな愛口調で黙読していると、ダイオメドというものがでてきたので瞬時にググれカス。えがかれているひとびとの国籍をつかまなければならない──ここで余談だが、「ジムノペディ 第一番」でさいごにバラバラ殺人とむすびつける意味わかんねーという感想をみかけたが、わからないどころか当方にはその意図がわかるよねぇぇぇぇのはるな愛以上にわかりすぎる──えがこうとする土地と一体化したい(はるな)愛からその土地の史蹟や縁起までも書きこむアメリカの作家の職人気質をうけついだものにほかならない。バラバラ殺人にまで時空をひろげて、ジョージおよび恩賜公園をわがものにしようとしたのさ… などと余事におもいをめぐらせているあいだにレイク・ショアというものがでてきて、ふたたびググれカス。しかしダイオメドとはむすびつかない。シカゴのそれやノース・ショアなら検索にあがってくるが、たんなる湖畔の謂か? あるいは移民系のものがたり? 「これに関して面白い証言が出てきた」の一文だけは違和感がのこる。だって死んだ女性のだんなもそこにいるからね。しかし6枚なのに、よくもまあ自由闊達にこれだけ書けるものだ。おとなになりかけの少年にたいするラストの句点:「坊主(ボーイ)」

 

「バラッド・オブ・ジョン・ヘンリー」の系統だとわきまえた。クラシック特売セールでよくウェーバーの序曲集をみかける。オペラ全曲はかったるいが、やけに迫力があって蠱惑的な序曲のかずかずだけは必聴ですぜという理にかなった商売根性の1枚なわけだが、いつかケイシア氏もそのようなものを自身であむことができるのではないか? あたまからしっぽまで書ききる/よみきるばかりが快感ってわけでもなく、おいしいところだけ天ぷらでいかが? ”Landsdalic Overtures” ひょっとするとランズデールも自邸にむかえた日本のゲストからそんな1冊を献本されたらよろこぶかもしれないし、むすめに色眼をつかったところで文句もつけないにちがいない… さいごにまたまた余談だが、「無題」の閏現人氏が宮月氏の後輩ではあるまいか???? やけに書きなれた学術系のなおかつ清新なにおいも感じられた。

 

 


ღ グループF

「占い探し」中野真

 はっきりいって今回はみなさん阿波しらさぎ賞佐渡しおふき賞にこころをうばわれつつ6枚もしあげたような脱力感やまったり感でそろえてきている気がしてならないが、さすがに中野氏くらいになると脱力もあじわいというか芸になっている。マジシャンであることはまちがいなく、わずか6枚の分量がこのひとのまえでは無限にふくれあがって、ことばをいくらでも包有してくれそうなムーサのえこひいきも感じられる…

明日への扉」がわからなかったのでYouTubeで再生して、とうぜんながら作中に引用された歌詞がでてきたところで聴くのをやめた。こんなものを卒業式でうたわされるくらいなら、ダイナマイトをなげこんで教師や父兄もろとも爆死するまでよとおもいながら、なんだか無限につづいてもよいとおもわれる作中のふたりの会話をよみすすめる… これって新聞にこのまま連載されてても違和感ないよね? ご年輩だって阿部牧郎だとか宇能鴻一郎だとかのそれっぽい作家名をつけておいたら、ひそかに毎朝の連載をたのしみにするんじゃないか? うまい。つぎはやっぱりこんなやつを書いてほしい。

 

 


ღ 番外篇

オセロ」宮月中氏

 

「席替え」の元小説にあたるらしい原稿用紙約16枚の作品✍めったに国内の小説をよまないのでわからないが、だれ系統の作風といったらよいか? 「だれもくそもねえよ、おれさまのオリジナルだわ」かってに既存の商業作家の系譜にあてはめようとしたら宮月氏からそんな怒号をあびせられて、フック・キックも顔面にたたきこまれるかもしれないし、「席替え」のほうがすきだといったらネリョチャギでこんどは鎖骨をたたきわられることになろうか? 「席替え」の6枚には本作を鉈でぶったぎったような気勢とそこからふきだす諧謔的な音階と毒とがあって、なかんずくラスト2行からはシチリアにまいもどったヴィト・コルレオーネが、ドン・チッチオの腹にナイフをつきたてて心臓までえぐりあげる復讐のシーンをおもいうかべたくなるほどの上行ポルタメントがきこえてくる…

 

「席替え」が幻想曲だとするなら、こちらはもっと自然主義(ふるくさい譬喩ですみません)にちかいムードといったらよいか? 「ゆたかさ~」コンテストの応募作らしい。アカレンジャーがうんぬんされるが、およそ半世紀まえの特撮ヒーローをいまどきの中学生がわきまえているというのはおもしろい。ただし戦隊ものの各カラーがある種の思想をおびて男の子たちに滲透しているというのはもっともなことで、それらを即物的にただ色(識)別していたほどの “無思想” なこどもをさがすほうがひと苦労だろうし、「Aは黒、Eは白、Iは赤」とうたったランボオの感性もだからこそ珍奇なものではなく、おさないころにふれたカラーのひらがなカタカナの文字盤などで極東のわれわれにもそれらはおなじみの観念ではあるまいか? 「ずっと成宮になることを一つの幻想として抱えていた」誠一のまなざしも、だからこそ成宮をふりかえる瞬間になにか赤いものをとらえるシーンがあってもよかったなと感じた。まっかなソックスでも、シャープペンシルでも、ブック・カヴァーでも、スマートフォンでもよいが、ほんのつかのま相手の領域からはぜる燠火のようなものを… いっぽうが消防士をめざすなら、もういっぽうは放火魔をひそかに夢みてるとかの構図だってよいじゃん? 「ほんの少しも伝わらなかったのにがっかりした」誠一と成宮との無添加といってもよい齟齬をあつかうラストにそれだとうまく機能しなくなるか? “The Mighty Ducks” はエミリオ・エステヴェスが少年アイス・ホッケーの監督として奮闘する’90年代の傑作シリーズだが、ひとりの白人のこどもを両わきから黒人のこどもがはさんで展開する3人組の<オレオ攻撃>というやつが、ひときわシュールだった。わたくしがそんなことをおもいだすのも、かなしいことに宮月氏がここで呈示したアブノーマルやおふざけに逸脱しない理智的な作品というものを、いちどとして自分が書いたことがなかったことにたいする寂寞のせいかもしれない。アブノーマルやおふざけから、おもいでさえ腐蝕されている… とおい日の中学の教室をおもいだすと、うしろの席の男がいつも癇にさわって、わたくしはこいつの所持品というか机もろとも2階の窓からよく校庭にほうりなげたものだった。いじめられっこが、これとはべつに2人いた。いっぽうは数人の男子からたいていサンドバッグにされて、もういっぽうは机にあおむけの状態でおしつけられていちもつをしごかれていた。みてみぬふりで黒板とむきあう教師たちの後頭部にも、ひっきりなしに教科書がなげつけられた。バイクにまたがった先輩たちが、グラウンドに突入する。クラスの半数をしめる女子は、それらのいっさいが眼にはいらないみたいだった。わたくしは学校のむかいの宮内庁宿舎からかよう浮世ばなれがした美人のクラスメイトに恋していた。べつのクラスの産婦人科医を父親にもつ美人にも恋していたが、「おやじがそれなら万一のばあいも安心だよな」などと男たち数人でそんな愚にもつかないことを話題にしながら、ほくそえんでいた日々がかなしい…

痩蝶月旦:第5回 <六枚道場>

 

 

✍ はじめに

 

「月旦」はほんらい人物評で以下につづられるのもそれにちかく、もとより作品論や批評はおろか感想でもないしろものだが、ひととなりといっても本サークルでじっさいにお逢いしたかたもいないし、おおむねSNSで数回のリプライをまじえたことがあるくらいだから、このたび以下4名にかぎって言及するというのは、とうてい第5回の全作品をよみきることができない──いや通読できても味読はむずかしいとふんだからだとして、くだんの4名の発表作がつまり群をぬいていたわけか? ただしくはそんな感銘にもとづく起草でもなく、なんというか拙作との接触でかつて鑑識眼がセクシィだったり、どんだけぇぇとおもわされたりしたことがあるという──まずもってエゴイスティックな所感にもとづく人選なり言及なりだということを白状せざるをえなくなるから、あらかじめ第5回作品をうんぬんする声部にちゃっかり前回までの拙作を論じていただいた数行がわりこむ間隙があることにも弁疏をかさねておく。

 

 かねてより原稿用紙6枚の小説にたいしては懐疑的だった。いいかげんな造型のキャラクターでも6枚ていどの小空間なら、まあまあな俳優のふるまいがつづけられるかもしれない。おもいつきの設定でもおそまつな人物描写でも6枚ならもちこたえるはずで、リアリティ皆無の──いやリアリティなどというものを、ほんらい6枚の分量であまたの局面にもとめられるか? ぶさいくな女のほくろが馬の顔にばけて、わらうとする──あくまでも当方のこれは嗜好にすぎないが、ぶさいくは作中でとことん使役されて、ばかにされて、きずついて、なきわめいたり忿怒したりしたすえの6枚めにようやく馬の顔がわらうというのでないと、カタルシスはおぼえない。いやます狂気のパワーが現実の重力をつきやぶって、はじめてファンタジィは浮上するのだという古陋な定式信者だからかもしれないが、『冬の旅』Winterreise の23曲めでついに3つの太陽がみえはじめるためには、シューベルトはともかくもそれまでのスコアに一定数の絶望にみちたパッセージを書きつらねておかなければならなかったということで、はじめの1行めからデブスのほくろが馬の顔でわらいだしたら拍子ぬけがするし、「うむそうか… よかったな」と藤岡弘のような口調でうなずいて、こちらはブラウザをとじる公算がたかくなる。もっとも原稿用紙6枚なので、よみとおすことはたやすい。よみとおせるから、どんな創作ごっこも小説まがいもまかりとおる。かといって経験値でまじめに書きすすめたら、こんどは既存の幻想小説やヒューマン・ドラマの複製画のごときものになりかねない。よほど気をひきしめないと、いずれかに堕してしまいそうな気がする。ただし本サークルの名義はあくまで道場だし、だれがどんなものを書こうとも読者から批評とはべつの嘲弄や一方的な訓誡をこうむるいわれはない。

 

 わたくし個人は、そこでいったいなにができたか? とりもなおさず原稿用紙6枚の小説自体をせせらわらう作品を呈示したということにすぎない。いっぽうで6枚ならむりでも3つほどを通作として20枚ちかい盛土をこしらえたら、あるいは読者をカタルシスにみちびく頂点がきずけるのではないかとも推察した。せせらわらう否定形とはべつの建設的なやりかたはないものかと思案すると、かえって小説からはもっとも乖離したハギワラシンジ氏による第3回発表作「ケトラルカ」のごときものを夢想してしまうが、あれとて1回性のうちあげ花火ではないか? くりかえすと偶発がこんどは偶発そのものを模倣しはじめて、ゼクェンツの泥沼でバロック的展開のサイレント・ホィールにはまりかねない。だいいち自動筆記は、ブルトンなどが前世紀にくりだした特Aランクの秘鑰… ひとがやったことをやるのが、わるいとはかぎらない。はじめの数回はそのフォーマットで自身の言語的な意匠を開発したり、たかめたりするのに有効かもしれない。ただし先人がつくりあげた計算ドリルを解答集がついたままの状態でとりくんでいる状態にかわりはなく、しまつがわるいのは自動筆記や12音技法でやにわに表現上の実験はゆきづまって、わたくしの眼には100年がすぎてもその地点から前進していないようにみえることだし、おなじようなセリエルばかりになって、クラシック音楽はまさに死滅したわけだが、はたしてハギワラ氏はこのたびの新作でいかなる幻境をかいまみせてくれるのか?

 

 

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ღ グループG 
「正解社会」紙文氏
「席替え」宮月中氏
「あんたなんかもう要らない」一徳元就氏
「安らぎたまえ、シークエンスの獣よ」ハギワラシンジ氏

 

 さて上掲のまえおきは、じつのところ4月のなかばに書きあげておいた。あとは該当のハギワラ氏、紙文氏、宮月氏、ケイシア氏の新作の1語1語をそれこそ顕微鏡でのぞきこむようにしながら、およそ人格がうたがわれるほどの長文でマニアックに解析してやるまでだとポッキーを片手にまちかまえていたわけだが、いざ5月2日(土)に全作品がおおやけにされると、なんと4人中3人までがおなじグループ!!!! あまつさえ一徳氏もそこにくわわる変態スクラムぶりで、こんな感染クラスタの1作ずつを精査してさばいてゆけるはずもなく、ひとつのカンヴァスのなかで連中がむりやり共作したコラージュのごとき表現性の強度にふみつぶされるのがせきの山だから、むしろ同グループの面子をごった煮にしたブイヤベースのような乱文にしたててやろうと決心したしだいだった。したがって順不同にGからまいろう…

 

「ケトラルカ」のうちあげ花火を、ハギワラ氏はかるがるしく再演することはなかった。だたしシークエンスならぬ3度下降のゼクェンツで隠微なニュアンスのうちに自動筆記をいつくしむ──いや第1回発表作「朱色ジュピター」のカット゠アップのふんいきにちかい技法というべきか? 「あんだれぱ」はなんとなく3月末に歿した志村けんの声でわたくしの脳裡にこだまして、こだまするたびに東村山ならぬ川越のローカル性(失礼)がきざす印象だし、べつの作品でもアメジストがでてきたはずだが、「朱色ジュピター」のなかにその語はみあたらなかったな… 「黒紙魚」と紫水晶(しのだ?)とによる和音のなめらかで不穏なニュアンスの推移をみせるゼクェンツにほくそえみながら、こいつ──ついついハギ神29歳をこいつよばわりしていたが、「こいつ実生活の職場とかオナニーでもこんな脳内会話のひとり芝居にあけくれてんだろうな」という邪推からピーナツでも後頭部にぶつけてやりたくなって、つぎの作品あたりでいよいよ極彩色のネオン天使がはばたくんじゃないか? こちらがそんな読後感にしずんでいると、ふいに背なかをかすめてゆく紙文氏の──まばたきをすると、あたりいちめんは悪意にみちた雪化粧──ほぼ1文ごとにちりばめられた樹氷はリアリティで作中をてらしだしながら、おなじリアリティから同時にその意味をうばいさってゆく。ひと呼吸でかたりつくすような脱力系の技巧がきわだっている。アルスのみでしあげられて、ひとり6枚の制約゠重力からときはなたれたクリネックスの天使もしくはクリオネさながらの飄逸、透過、融通無碍… やけに雪がねばついてきたなとおもったら、こんどは意識の表層をなでまわす一徳氏のローションまみれな十指☞ 「ちゃぷちゃぷと軽い水の音、波の音。かちかちと測量され、分析され、たとえば浅瀬に横たわり…」うまいうまい、ヴェテラン竿師のゆびづかいのごとく巧緻きわまる文章:「体の半身」はたんに半身という表現でよいか? ともあれ香油のような変奏にこちらの意識の皮膚もひたされて、リンパドレナージュエネマグラにくるめくあいだにヘルマプロディトゥスのあおざめた美が、けざやかに月魄のごとく作中にひろがりながら、ほほえみをたたえている…

 

 

なんというかクライマーズハイのような、書き上げるごとに筆がノる様な感じに思えてくる

 

 

「挽歌」という先月発表した拙作にたいする宮月中氏の感想:『ホワイト・ジャズ』の血みどろな空港の銃撃シーンで、エルロイがきずきあげたパトスの頂点のようなものを、わたくしも第2回から第4回までに発表した3作<別名:3楽章のシンフォニエッタ>の掉尾にもってこられたらとかんがえていたので、うれしいとともに宮月氏のこの観点はまさに烱眼だといって煽動するほかはなく、こちらは感謝のおもいから同氏のこのたびの新作にちまちまとした指摘をくわえることで応じるか? 「織田をそうせしめた」(1ページめ)は学園ものでもあるから、もうすこしラフないいまわしはなかったか? 「教室の角」もしかりだし、「引き戸を引く」はおなじ漢字をかさねるのがいやなのよね~などとこぼしはじめたら、てめえの文字嗜好なんぞファック・オフだわといって星野凜(すみません漢字訂正)氏から顔にフック・キックをたたきこまれかねないが、なぜ当方はかくも無用の指摘をつづけるのか? なぜだか当方にもそれはわからない。わからないうちに2ページめのおわりから微細な心理がえがかれはじめて、ついつい作品にひきこまれてゆく… 「私の(傍点)渉君を早紀に譲るわけにはいかない」の1文はいいよねとおもいながら、ラヴ・レターって死滅してないのか? 「ノルマを終えた青春が、静かな眠りにつこうとしていた」わかるわかる~などといっていると、さしずめ原稿6枚をかるく2枚のテンポでかけぬけたようなアレグロが、デクレシェンドで霧消しそうなところに異質のコーダがくわわって、シャープな上行形で終奏するセンスのよさ… かぶれる青春すてきだねといってブラヴォをおくりたくなるが、「いらっしゃいマンション」もそういえば先日賞翫しました。そこでは油彩画のごとく何層にもテーマがぬりかさねられて、よみおわるとそれらが山頂からの等高線をえがきだしているほど精緻にえがかれておりました。

 

 


ღ グループE
ジムノペディ 第一番」ケイシア・ナカザワ氏

 

 わたくしはケイシア氏のファンなので、かねてよりnoteは愛読している。ふるさとの愛犬とたわむれる夢の生活をつかむべく文壇の千両役者になろうとしていることも、ポメラニアンポンちゃんがかわいいこともわかっている。ハードボイルドを抒情的な文体でつづろうとして、つねにそれはいかんと自誡していることもわかっている。ジェイムズ・リー・バークやジェイムズ・クラムリィのごとく抒情的でなおかつ激越なハードボイルドの書き手はアメリカにみられるが、かなしいほど貧相で一面的な作品がめだつ和製ミステリや時代小説(の公募)でたしかに複雑なニュアンスがうけいれられるかどうかはわからない。むこうの小説はおおむね書きだしになかなか焦点というか調性がさだまらなくて、あえて厖大な情報をぶっこんでくるような作品がおおい。ブルックナーマーラーのながったらしい序奏部やぶあついオーケストレイションにもつうじるところがあるかもしれないし、かれらの後継者ツェムリンスキイ、コルンゴルトラフマニノフあたりがハリウッドの映画音楽をつくったわけだから、むせかえるような後期ロマン派の霧はじつのところアメリカのいくばくかの書き手の潜在意識にもたちこめているかもしれない… 『サンセット・ヒート』のようにケイシア氏はむしろ女性がたたかうミステリやハードボイルドを書いたら、まずしい和製ミステリ業界でもそんな抒情性をおびた作風はうけいれられやすいのではないか? 「花の歌」でも今回の新作でもそれを感じたが、「ジムノペディ」はいまやクラシック音楽の特売チラシみたいなものになってしまっているから、わたくしなら本作にべつの音楽をあてがいたい…

 

 おせっかいにもそんな欲求にかられて、ひとまずは本作がなぜサティの小品なのかを吟味:「ジムノペディ 怖い」がGoogleでサジェストされて、へぇぇそうなの… なになに不安定な和声進行のせい? 「公園は、小さな町ならひとつ丸ごと収まってしまうのではないか」はじめの2ページからは(オ)カルト味よりも吉祥寺にひっこしたケイシア氏のうきうき感♬がつたわってきますね。パリやジヴェルニィを夜ふけの恩賜公園にかさねあわせて、ひょうたん池の波がしらからも印象派のピアノによるアルペジォをききつけるような非在のノスタルジア… まっくらな黒紙魚の水面から亡者のうしろすがたがほのうかぶ浮游音階のイメージも表出したかったのか? おしまいのミンチにされた屍肉とからめるなら、ギリシア神話でおなじ最期をとげるオルフェウス。しかしモンテヴェルディグルックも屍肉のさいころステーキはうたいあげていないし、『バッカイ』の結末でエウリピデスはえぐい描写をもってきたものだけど、だれもオペラや器楽曲であつかっていないよな? 『バッカスの巫女』のヘンツェ? 『ルル』組曲アダージォ・ソステヌート(ひとりで夜ふけに聴いてね)はこわさでいったら最恐ランクだが、「ジムノペディ」にかわる曲か? むずかしいな…

 

「饗宴」という第3回道場に呈示した拙作は、われながら悦にいるほど精緻な室内楽曲ふうの書法でえがいたつもりだが、さほど読者にはつたわらなかった。まあ作者による自註やしょうもないトリヴィアの吐露はさむいだけなのでやめておくが、どさくさまぎれに1点だけ表白:『湖中の女』にみられるフィリップ・マーロウのごときヒーロー像のほろにがいダンディズムは、こんにち逆説的なことにその仇敵デガーモ警部補やジェイムズ・エルロイがえがいた卑劣な悪党のすがたなどからしか抽出することができないのではないか? もの書きのそんな野性の直観がはたらいて、わたくしは卑劣そのものの擬人化から男性のよりいっそう濃密なヒロイズムやダンディズムの数滴をしぼりだすために前述の第3回発表作をものしたしだいだが、ただちにこれを看破したケイシア氏はまさに見者だった。

 

めちゃくちゃ格好良いし、渋い。

こんな世界観の中で生きている主人公の男には

否が応でもマイカを守って欲しい。

と思いました(中略)

僕はこういうセンスある世界観で生きている

主人公ならば大丈夫だと思うので(中略)

しかしまあ、このような深み、渋みというものは

時代の道徳性に消されゆく定めにある、

そんな気もします。 

    

 じつにハイパー・セクシュアルなプリンスも顔まけの省察ではないか!? はやく文壇の千両役者になって、わたくしを金庫番につかってほしい... じつはケイシア氏の上掲文が引用したくて、このたびの道場評をはじめた。おもいきり功利的にこれからも生きて、コロナでそろそろ死にたい。ともあれ紙文氏、宮月氏、ケイシア氏など今回はわずか6枚なのに会話文のながれが最大限にいかされた作品がすくなくありませんでした。

 

 


ღ グループD
「僕と左手と」中野真氏

 

 はじめの1文でひきこまれた。ファンタジアでも前掲のほくろが馬の顔にばけて、わらうのとは月とすっぽんな実存性 🌛👋 よみはじめたとたん彫刻家としての故ミック・カーンの処女作にあたるサッチモの片手(だれもわかんねえだろうな)のブロンズの重量のようなものが意識にのしかかってくるし、「かえってきた」がひらがなだというところもイノセンスと先天的な威厳とをたたえている。しかばねさながらの殺菌された左手の呈示部から、まっさきに読者がきく女声:「ほんとキス魔だよね」から追想゠生のぬくもりや密室のかぐわしさがたちこめて、わたくしは自分がながらく模索してきた無調音楽のノヴェライズの血がかよった理想型を、そこにみいだす予感にときめいた。

 

悲愁のマジシャン」ひとは中野氏をそうよぶ。ともすると氏はその作品はおろか実生活においてさえも、マジックのつかい手なのではないかとおもう。しかしマジックは当人の生活にまるで益しないばかりか同氏をひたすら苛酷な局面においこむ──いっぽうで氏のマジックは、まわりをゆたかにする──あかの他人のわたくしでさえ氏にいくばくかを無心したら、ひらひらと紙幣が眼前におどるような奇蹟にありつきそうな気がするし、ともあれ本作にふれられたこと自体がまさに一攫千金:「口唇期固着って知ってる?」よけいなことに思念をめぐらせるあいだも未羽はことばをつづけて、よりいっそう作中にひきこみながら、いっぽうではこちらの余念をますます拡散させる… かねてよりハギワラシンジ氏もこのマジシャンに愛着をいだいているが、せつなさやイノセンス以上に中野真という書き手がじつは口唇愛の対象──あかんぼうにとってのおしゃぶりのごときものが、ハギワラ氏にとっての中野氏ではないのか!? 「乳離れが早いとね、その時期の欲求にこだわることがあるんだって。爪を噛んだり、キス魔だったり、煙草を」(これをうけた次行:「そうかもって?」だけが奇妙というかテクストの数語の歇後をイメージさせる)喫煙はつねにその一端を口にふくんでいたくなる自意識の──ふくみつつもつねにそれを紫煙にかえて無化したくなる話者の幻滅めいたものか? かりに未羽が作中からとびだして、ラーメン屋にかけこむハギワラ氏を眼にしたら、ピーナツでも後頭部にぶつけたくなるにちがいない。「こいつが麵をすするのも口唇期固着」

 

  

 いまだに食後はさして美味だという気がしない。しかし一定期間をおくたびに異常な常習性というか饑餓にさいなまれて、くだんの神保町や三田本店の長蛇の列にまいもどりながら、ここにみられるのは口唇愛のなおかつ性欲のフーゾクの常習性にとりつかれた亡者のむれだと痛感させられる… わずか600~700円で二郎はふつうのチェーン店の3倍のヴォリューム(カロリー)を饗するが、ぜいたくな食材をつかった料理ではないことはいうまでもない。ソープランドの2万円でうけられるサーヴィスをじつに4千円ほどで提供する非合法の本サロにちかくて、ナイナイ岡村が夢みるランクをそこで眼に(口に)しえないのはいうまでもないが、「ろくなのいねーじぇねーか!!」などと毒づこうものなら、かえって心外そうな表情をうかべるボーイがただちに拇指以外の4本をこちらの眼前につきだしながら、てか4Kっすよお客さんと論駁するだろうし、「あ~あ、なにやってんだろ」と文字どおりフーゾク後のむなしすぎる飽食をかかえながら、こちらは三田から西麻布にさまよいでて、こんりんざい二郎はやめだと決心するものの1ヵ月後にはチャリでふたたび飯田橋から神保町にむかっていたりする…

 

「うちでは絶対吸わないでね。一緒に暮らしてもだよ」いかに口唇愛がこのばあい話者に根づいたもので同居予定者だった未羽にうとましさをつのらせるものかが、ジロリアンtweetからもつたわるだろうか? ところで喫煙とはべつに話者がオナニーにふけるとしたら、いずれの手をもちいるのか? 「僕は左手になりたかった。左手は生まれた時からずっと、僕になりたかったと言った」こちらの余念もついにその1文でたちきられて、おとずれる奇蹟との邂逅:「生まれた時から」が主体の話者゠僕のかわりに左手にかかっている点がすばらしく、かえって僕と左手とが等化することで無調のうつくしい霧が… ひとことでいって無調音楽のめざすものがメロディからの解放なら、おなじ無調の小説がめざすのもストーリーからの脱却。メロディ゠ストーリーをかたちづくる主音(主役)も属音(わき役)もなくなって、アンシァン・レジーム(階級的序列)を内包する全音階的な重力からオクターヴは解放されると、スコアやページの上空にただよう。だいいち本作は導音から主音に進行して安直な解決をはかるようなストーリー展開もなく、ふいに未羽がきえたとたん本作をえがきだす作者゠脳とその作業にしたがう肉体゠手との従属関係の重力もきえうせて、わたくしはたぶん後半の3ページがすべて3文字の無窮動:「ち○ぽち○ぽち○ぽち○ぽち○ぽ」でうめつくされていたとしても、ブラヴォの拍手をおしむことはなかっただろうが、「未羽のゴーシュ」などの別タイトルを読後にあてはめたくなった誘惑からはのがれきれていない。ゴーシュはフランス語で左をあらわすとともに不器用をあらわすことから、セロ弾きのなんたらにもつかわれたらしい… さいごに本作とは関係がないが、なぜ毎回グループAとFやGあたりとでは投票数にかなりの差がうまれてしまうのか? たいていAにはいる和泉氏などがうらやましい。

 

※かかる乱文をつらねながら、ハギワラ氏に書いてほしい長篇のアウトラインもおもいえがいた。マーラーの終楽章のように長大な序奏/呈示部/展開部/再現部によるソナタ形式:「ケトラルカ」がさらに拡大するかたちで序奏からひきつがれた呈示部の第1主題は、これでもかというほど言語の解体をうつくしく乱舞させるが、「お前はまだ自我を持たない」あたりから徐々にきこえてくる理性的な第2主題:「朱色ジュピター」や今回の発表作にもとづくそれは言語的意味をむしろ凝縮゠ストーリー化しながら、エンタテインメント小説にかぎりなく肉迫して読者をひきつける。そしてクライマックスにちかづいた段階で、ふたたび文章は解体のニュアンスをおびてゆく──いや自動筆記よりもジェイムズ・エルロイが前掲『ホワイト・ジャズ』以降にもちいた電文調のみじかいセンテンスにひとまずは分解されてゆくのが効果的ではあるまいか? 「ケトラルカ」のうちあげ花火による第1主題は、そこからようやく回帰──つづく第2主題もますます読者を夢中にさせるサスペンスふうのスリルをはらんだ展開部をかたちづくると、ついに対立していた言語の解体゠第1主題/凝縮゠第2主題はおなじ調性(空間)のもとに融合して、ポリフォニックな再現部になだれこむ。きわめて革新的な長篇だから既存の作品になぞらえるのも気がひけるが、『シティズ・オヴ・レッド・ナイト』のころのバロウズを規範にあおいでみたくもなる… わがままな長篇のリクェストで恐縮ですが、はれてハギワラ氏がこれで文学賞をものにしたあかつきには、わたくしも強欲ではないので印税の1%で手をうちます。

 

 


ღ グループH
「有毒植物詩」草野理恵子氏
「最近の僕らは」あさぬま氏
「「いつまでもそばにいられたらよかったのに。」」阿瀬みち氏
「ゆーとぴあ」野村日魚子氏

 

 とおりいっぺんの記述ですみません。そして以下のことを書くような人間には、おそらくM*A*S*H氏からほぼ1ヵ月にわたって脅迫のリプライがとどくにちがいない。これまで詩のグループは、フォト・リーディングですませてきた。おまけ同然といったら身もふたもないが、『酒場放浪記』で吉田類さんが街の駄菓子屋や職人の工房を見学する冒頭のあの2、3分間のおまけ感にちかいものとみなしてきた。わたくしは小説の各グループをめぐりながら、つまり対岸の火事として詩のそれをながめてきた。ただし今回はその紅焰のゆらめくさまが、やけに熾烈にうつくしくみえた。

 

 ゆるいファンタジィがつかのま善意にみちた読者のやさしさにふれて、ゆるい共感や讃辞の屍衣にくるまれながら、ひと月またひと月と忘却の河にながされてゆく空間のぽえむ♬部門ということなら気がめいるが、「#17 トウアズキ」から口火をきる草野氏の詩句はけっしてそんな空疎でゆるいものではなく、かえってナイフがえぐった皮膚の血の文字でつづられたように凄絶だった。さいごに附記される毒花の各註釈がそれらを現実にしっかりと固着させて、なおかつ現実はこのばあい額縁にもばけると、そこから顔をのぞかせた花びらはよりいっそう耽美をにおいたたせる… 「温室」のあさぬま氏がおなじ薫香をまといながら、ワグナーのほぼ同名の歌曲:「温室にて」Im Treibhaus の繊麗なオーケストラにひきこんでくれる。できれば耽美をさらに敷衍させてほしかったが、「わかってないよなぁぁ」といって氏から逆にこちらのそんな停滞した感性はあざわらわれるかもしれない。ことばの運動はかたときも停滞することなく、かたちもさだまることはなく、うずをまいて旋廻しながら、ブラックホールからはさらに歌声がひろがる…

 

 ひらがなの1行と漢字まじりの1行との連禱による阿瀬氏の作品はことのほか初見から眼をひいて、ピアノの白鍵と黒鍵との半音階のなやましさから、まぶたをひらいた双眸がみる現像/幻像と、まぶたをとじたさいの残像との交錯が、ラメントにくるめく。もとより詩人はそれが最善だと信じて表記するので、こちらがそれに反する嗜好をつたえたところで無意味だが、「ぷらずまくらすたー」だけはピンボケ感があるし、「きみをつめたる」の文語調もこそばゆい。てめえの嗜好なんぞファック・オフだわといって宮月氏とともに阿瀬氏からも顔にフック・キックをたたきこまれそうだが、いちおう書いておく。さいごに野村氏の10行もばつぐんだった。ただし唎酒師としてそれをことばにする気力や体力が、もはや当方にのこされていない…