麴町箚記

きわめて恣意的な襍文

痩蝶月旦:第6回 <六枚道場>

 

 

 

 

 ✍ アラムナイ゠6タゴンのひとりによる冗長なはしがき


ヴォツェック』3幕15場の形式/技法にもとづく3部15章の長篇を、かれこれ10年のあいだ書きつづけている。オペラの総譜とにらめっこしつつ原稿用紙300枚ばかりの梗概をまずは作成して、ランダムにそこから各章をしあげてゆく工程でなんとか全体の75%をしあげた。さいわい困難なパートもそのつどムーサの恩寵できりぬけてこられたが、ことしにはいって全体の80%にせまろうかというインヴェンションの後半で、ついに以降はとうてい書きすすめられるものではないという地獄の牆壁(かべ)にぶちあたってしまった。ボートにのりこんで、オールでこぐあいだ気温はみるまに氷点下にさがって、せっかく対岸がみえてきたのに自分をとりまくものは氷湖にかわってしまったから、すすむことはおろかUターンもできなくなっていたような創作の膠着が、つい先日まで3ヵ月もつづいた。だいたい10年のあいだ脱稿しない時点で、ふつうならボツだ。はじめの数年でファイルの消去にふみきっていたら、さもしい未練ものこらなかったはずだが、あと20%で完成じゃん? のりかかった船じゃね? 「すすめば往生極楽/ひけば無間地獄」の一向衆ばりに前進あるのみだとダーク・ラムやバーボンをあおりながら、ゆびさきを舞踏の神化にみちびくムーサの招魂もこころみたしだいだが、こんどばかりはそんな劇薬にたよったところで1行はおろか1字たりともキイボードからはじきだされない。いたずらに沈黙の3ヵ月がすぎた。いよいよ自爆するときかと松永弾正少弼ふうに観念して、ファイル消去をはかろうとしたとたん文字どおり魔がさした。

 

<六枚道場>にだすつもりで、つづきを書いてみたら?????????? 「ろ… ろくまい、ど?」あたまのなかがその瞬間にまっしろになって、ゆびさきはケンシロウもまっさおなタイピング激打にあけくれていた。ぶあつい氷面にたちまち亀裂がはいって、およそ3ヵ月のあいだ白紙だった箇所もことばの奔流でうめつくされた。ボートはふたたび対岸をめざしはじめたが、まてよ? おかしくないか? いまや奇蹟的にこうして膠着状態をまぬがれたことに安堵しながら、おれはこの安直なクリアにかえって不安をつのらせていないか? 「急がば回れ」というではないか? ふだん接続するはずがない日常会話の回線にキイボードをつないで、ぬけ道でなおかつマラソン大会のゴールをふんでいたような手段のやましさを禁じえない。ひとことでいうならオンラインで書いてしまったわけだが、だんじてそれは本意ではない。おのれと外界とをむすびつけるものは、ネット回線ではない。おのれの文章そのものが、ローカルから自分をひいては世界につないでくれる。すくなくとも外界にむすびついたと書き手がみずから妄想しうるほどの文章は、たいていのばあい筆舌につくしがたい労苦のはてにしか作中にもたらされないし、<六枚道場>で発表しようとおもったとたん3ヵ月のあいだ1行もすすまなかった難所が、かくも短絡的にクリアされるなどというのは、よほど自分はおめでたい墨俣の一夜城のはりぼてならぬ素股の一夜嬢の張形… おのれというかベルクの書法のかわりにSNSのおしゃべりで空白をみたしてしまったような陰鬱が、いまもなお意識にこびりついている。ともあれ支離滅裂な描写のとちゅうからはじまって、ピリオドもうたれない尻きれとんぼでおわる──できそこないの小説まがいにしかならないが、いっそのことタイピング激打のこのシーンから適当にぬきだした6枚ぶんを、ほんとに紙文氏におくってみたら?????????? 「お… おくって、み?」あたまのなかがまっしろになって、ゆびさきもふたたび魔がさしたようなタイピング激打にあけくれていたが、<六枚道場>で発表した過去3作は──おもえば3作すべてがこの無意識というか無想転生からくりだされた本能寺だった。そしてフォルダにはこのたび原稿用紙4枚ほどの "Des Abends" なる標題をもつシューマンもどきが新規保存されていた。こちらはどうやら何年もまえにpostした以下のふたつの140文字: 

 

 

 

 を3連符にかえて、ふたつながら同時にうちならした器楽曲ふうの小品らしい。アラムナイのひとりとして今回はこれで6タゴンに復帰するが、つぎは上掲のできそこない6枚でいどみたい…

 

 

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 さて先月とおなじく第6回の全作品が発表されるまえに上掲のはしがきをしあげて、あとは紙文氏、宮月氏、ハギワラ氏などの作品を、こんどこそ冷酷なまでに粘着質のメスで腑わけしてやるばかりだとサディスティックな快感にうちふるえていたわけだが、だれも参加していない!!!!!!!! さては阿波しらさぎ賞とやらに意識をうばわれてしまったのか??????? わたくしだって土佐くろしお賞、佐渡しおふき賞、マゾッホ菊門賞などがあったら応募したいくらいだが、いざ戦場にのりこんでみたら敵勢がいなかったような肩すかしをくらいながら、ケイシア氏と中野真氏との作品はあとのおたのしみにして、ほかの作品をよみすすめることにした。

 

 

ღ グループA 

「貧富の彼岸」大道寺 轟天

 

 おそれかしこくも後鳥羽院の世をしのぶ雅号とて轟天を名のられし御門のたはむれに筆すさびたまへる玉稿を、やつがれさへ拝しうる僥倖ここにきはまれりというべきならむ歟。もとより僭越ながら至尊のみこころをおもんばかるに4ページ12行めあたりより奔騰して山内さんの歯もぬけたるにおよんで作品はようやくメイン・ディッシュの本然をば顕現したりとぞいふもをかし… むしろ4ページめまではオードヴルとして1ページほどの分量でちゃっちゃと書きながして、おもうぞんぶん作者みずからの描写のよろこびに耽溺したほうがよかったのではあるまいか? 「幽暗を赫奕と照らす」あたりにその冀望せる世界観はあきらかで、とどのつまり作者はかの三島由紀夫のフォーマットをかりて、ことばをちりばめたかったのではないか? かさねて僭越ながら小生はつとに三島作品をきらいぬいて、しみったれた地方の歓楽街のようなものとしか感じたこともない──いたるところに美のネオン看板はまたたいているが、「美」そのものはどこにも存在しない──ひっきょう当方の三島観はそれにつきるが、ひとさまがその作品群にあこがれる感性や審美眼までを否定するつもりもなく、したがって氏にはもっと徹底的にのっけから美文攻撃をかましてほしかったなというおもいがつよく、みたび僭越ながら次回作をたのしみにしたい。

 

 


ღ グループC 

「扉を開けるとロンドンなのだけど、そこまで話は進まない」一徳元就氏

 

 おもいこみで浅見をさらけだしつつ書くしかないが、たぶん小説を書くよりも小説の枠内でご自身のつややかな玻璃細工にちかいテクステュアを構築することに余人のおよびもつかない情熱をかたむけている芸術家ではあるまいか? 「エディは13歳」が縦線ではなく横のながれにあわせたオーケストラとして作中からひときわ新鮮な音響をたかならせてくれたようにおもわれるし、ひょっとすると芸術家/作家などのことばもご自身のめざすところからは乖離しすぎて、いやがりそうなものかもしれない。そこでAVになぞらえてみるなら、けっして本番行為にいたらないのにシテュエイションだけで病的なエロの撮高や売上(もとい再生回数)をほこるレーベル系か? からめ手からまた淫靡なからめ手にうつるマニアックな迂回でけっして直進゠挿入することはなく、ほんらい小説家がもっとも書きたがって、なぞりたがる王道ともいうべき展開゠本番にもけっして突入しないまま奇怪な自動器具におのれのいちもつというかラール・プール・ラールの情熱をおさめて興がる… はたして生殖行為がそこにあるのかないのか? そこに愛はあるんか? すきなアイドル歌手や女優はおるんか? げんなり氏の作品から、つねにそんなことをおもってしまう。

 さて今回の作品は、リーダビリティをほこっている。つい最近までリーダビリティをリーダーになる素質の謂だとかんちがいしていた人間がこんなことばをつかっても説得力はないが、よみすすめるうえで停滞がなく、ことばの配列もていねいというほかはない。タイトルをみただけで結末までがリーダビリティだわといいたくなるほどサーヴィス精神も花びら回転天国:「サイクロードを使って山の上の湖を眺めに行くか」ぜったいに行かねーだろ、てめえとおもいつつも4ページめでふたたび山の上の湖がうんぬんされると、ぜったいに行かないだけに読者のなかにそれがやけに銀色のうつくしいものとして想起されないか? 「曲げわっぱ」「メキシカンダイナー」「のりたまご飯」「ランチバッグ」「ジャスミン茶」「ルイボスティー」などの小道具のひびきもサイクロードをかけぬけて、いっさいがその清涼な山上にすいあげられる。おそらく4ページまでに作者はつい最近までリーダビリティの意味もしらなかった低脳読者のおもいもよらない秘密をちりばめているにちがいないが、「金輪際パイポ」は禁煙のそれではなくて落語のほうか? 「トイレのドアは閉まった」ままだとしてもラストは本作のそのタイトルにむかってドアをあけはなっているようにおもわれるし、なぞめいたコードの堆積のなかで閉塞する6枚とはまた別趣のおおいなる開放感の風がふきよせてくる。

 

 


ღ グループE

「マニッシュ・ボーイ」ケイシア・ナカザワ氏

 

 なによりもケイシア氏に感謝しなくてはならないのは、テキサスの狂犬ランズデールの存在をおしえられたことだが、『短編画廊』におさめられた作品が無料でよめるぜという氏のtweetをのぞきみたのは4月のなかばだったか? 「まあ魔犬エルロイさえいたら、ほかのヤンキィ作家はいらないんだけどさ」いささか傲慢な通常運転の境地から、さして期待もしないままランズデールの短篇をひもといた。しびれた。すぐにハップ&レナードの文庫本シリーズにとびついたし、『サンセット・ヒート』も一気呵成によみおわってしまったが、『ボトムズ』だけはもったいないので手をつけていない… すばらしい書き手をおしえてくださってありがとうとお礼をつたえようとしたら、ケイシア氏はなんとtwitterではやくもランズデール本人とつながっているではないか!? うらやましい。しかし書くもののすばらしさにくらべて、フォロワー数1.9万人はすくなすぎる。いかに世間がよいものをわきまえないかの証左にもなろう… おしゃべりな日本のどうでもよい作家はおろかエロ漫画家や地下アイドルにも数でおくれをとっているかもしれないし、くだらないRTがまわってきたAV女優が同数の1.9万人くらいだったから微妙なところだが、「いいね」をランズデールからおしてもらうどころかフォローもしてもらったらしいケイシア氏はともかくもブロウ・ジョブならぬグッ・ジョブ。こうなったら海のむこうの邸宅にまねかれて、エンチラーダでもふるまってもらったうえに美貌のむすめとねんごろになるところまでいってほしい...

 

 さて海外に雄飛するべきケイシア氏のこのたびの作品は、ほかでもないランズデールにささげるオマージュか? 「映写技師ヒーロー」(わたくしがケイシア氏のtweetでおしえられた短篇だが、まずい邦訳タイトルだよね? "The Projectionist" の原題表記のままにしたほうがましなくらいじゃないか?)にふんいきもつうじるものがある。ほらほら納屋からもうショットガンをだしてきたじゃん、だしたくなるよねぇぇぇぇと当方がはるな愛口調で黙読していると、ダイオメドというものがでてきたので瞬時にググれカス。えがかれているひとびとの国籍をつかまなければならない──ここで余談だが、「ジムノペディ 第一番」でさいごにバラバラ殺人とむすびつける意味わかんねーという感想をみかけたが、わからないどころか当方にはその意図がわかるよねぇぇぇぇのはるな愛以上にわかりすぎる──えがこうとする土地と一体化したい(はるな)愛からその土地の史蹟や縁起までも書きこむアメリカの作家の職人気質をうけついだものにほかならない。バラバラ殺人にまで時空をひろげて、ジョージおよび恩賜公園をわがものにしようとしたのさ… などと余事におもいをめぐらせているあいだにレイク・ショアというものがでてきて、ふたたびググれカス。しかしダイオメドとはむすびつかない。シカゴのそれやノース・ショアなら検索にあがってくるが、たんなる湖畔の謂か? あるいは移民系のものがたり? 「これに関して面白い証言が出てきた」の一文だけは違和感がのこる。だって死んだ女性のだんなもそこにいるからね。しかし6枚なのに、よくもまあ自由闊達にこれだけ書けるものだ。おとなになりかけの少年にたいするラストの句点:「坊主(ボーイ)」

 

「バラッド・オブ・ジョン・ヘンリー」の系統だとわきまえた。クラシック特売セールでよくウェーバーの序曲集をみかける。オペラ全曲はかったるいが、やけに迫力があって蠱惑的な序曲のかずかずだけは必聴ですぜという理にかなった商売根性の1枚なわけだが、いつかケイシア氏もそのようなものを自身であむことができるのではないか? あたまからしっぽまで書ききる/よみきるばかりが快感ってわけでもなく、おいしいところだけ天ぷらでいかが? ”Landsdalic Overtures” ひょっとするとランズデールも自邸にむかえた日本のゲストからそんな1冊を献本されたらよろこぶかもしれないし、むすめに色眼をつかったところで文句もつけないにちがいない… さいごにまたまた余談だが、「無題」の閏現人氏が宮月氏の後輩ではあるまいか???? やけに書きなれた学術系のなおかつ清新なにおいも感じられた。

 

 


ღ グループF

「占い探し」中野真

 はっきりいって今回はみなさん阿波しらさぎ賞佐渡しおふき賞にこころをうばわれつつ6枚もしあげたような脱力感やまったり感でそろえてきている気がしてならないが、さすがに中野氏くらいになると脱力もあじわいというか芸になっている。マジシャンであることはまちがいなく、わずか6枚の分量がこのひとのまえでは無限にふくれあがって、ことばをいくらでも包有してくれそうなムーサのえこひいきも感じられる…

明日への扉」がわからなかったのでYouTubeで再生して、とうぜんながら作中に引用された歌詞がでてきたところで聴くのをやめた。こんなものを卒業式でうたわされるくらいなら、ダイナマイトをなげこんで教師や父兄もろとも爆死するまでよとおもいながら、なんだか無限につづいてもよいとおもわれる作中のふたりの会話をよみすすめる… これって新聞にこのまま連載されてても違和感ないよね? ご年輩だって阿部牧郎だとか宇能鴻一郎だとかのそれっぽい作家名をつけておいたら、ひそかに毎朝の連載をたのしみにするんじゃないか? うまい。つぎはやっぱりこんなやつを書いてほしい。

 

 


ღ 番外篇

オセロ」宮月中氏

 

「席替え」の元小説にあたるらしい原稿用紙約16枚の作品✍めったに国内の小説をよまないのでわからないが、だれ系統の作風といったらよいか? 「だれもくそもねえよ、おれさまのオリジナルだわ」かってに既存の商業作家の系譜にあてはめようとしたら宮月氏からそんな怒号をあびせられて、フック・キックも顔面にたたきこまれるかもしれないし、「席替え」のほうがすきだといったらネリョチャギでこんどは鎖骨をたたきわられることになろうか? 「席替え」の6枚には本作を鉈でぶったぎったような気勢とそこからふきだす諧謔的な音階と毒とがあって、なかんずくラスト2行からはシチリアにまいもどったヴィト・コルレオーネが、ドン・チッチオの腹にナイフをつきたてて心臓までえぐりあげる復讐のシーンをおもいうかべたくなるほどの上行ポルタメントがきこえてくる…

 

「席替え」が幻想曲だとするなら、こちらはもっと自然主義(ふるくさい譬喩ですみません)にちかいムードといったらよいか? 「ゆたかさ~」コンテストの応募作らしい。アカレンジャーがうんぬんされるが、およそ半世紀まえの特撮ヒーローをいまどきの中学生がわきまえているというのはおもしろい。ただし戦隊ものの各カラーがある種の思想をおびて男の子たちに滲透しているというのはもっともなことで、それらを即物的にただ色(識)別していたほどの “無思想” なこどもをさがすほうがひと苦労だろうし、「Aは黒、Eは白、Iは赤」とうたったランボオの感性もだからこそ珍奇なものではなく、おさないころにふれたカラーのひらがなカタカナの文字盤などで極東のわれわれにもそれらはおなじみの観念ではあるまいか? 「ずっと成宮になることを一つの幻想として抱えていた」誠一のまなざしも、だからこそ成宮をふりかえる瞬間になにか赤いものをとらえるシーンがあってもよかったなと感じた。まっかなソックスでも、シャープペンシルでも、ブック・カヴァーでも、スマートフォンでもよいが、ほんのつかのま相手の領域からはぜる燠火のようなものを… いっぽうが消防士をめざすなら、もういっぽうは放火魔をひそかに夢みてるとかの構図だってよいじゃん? 「ほんの少しも伝わらなかったのにがっかりした」誠一と成宮との無添加といってもよい齟齬をあつかうラストにそれだとうまく機能しなくなるか? “The Mighty Ducks” はエミリオ・エステヴェスが少年アイス・ホッケーの監督として奮闘する’90年代の傑作シリーズだが、ひとりの白人のこどもを両わきから黒人のこどもがはさんで展開する3人組の<オレオ攻撃>というやつが、ひときわシュールだった。わたくしがそんなことをおもいだすのも、かなしいことに宮月氏がここで呈示したアブノーマルやおふざけに逸脱しない理智的な作品というものを、いちどとして自分が書いたことがなかったことにたいする寂寞のせいかもしれない。アブノーマルやおふざけから、おもいでさえ腐蝕されている… とおい日の中学の教室をおもいだすと、うしろの席の男がいつも癇にさわって、わたくしはこいつの所持品というか机もろとも2階の窓からよく校庭にほうりなげたものだった。いじめられっこが、これとはべつに2人いた。いっぽうは数人の男子からたいていサンドバッグにされて、もういっぽうは机にあおむけの状態でおしつけられていちもつをしごかれていた。みてみぬふりで黒板とむきあう教師たちの後頭部にも、ひっきりなしに教科書がなげつけられた。バイクにまたがった先輩たちが、グラウンドに突入する。クラスの半数をしめる女子は、それらのいっさいが眼にはいらないみたいだった。わたくしは学校のむかいの宮内庁宿舎からかよう浮世ばなれがした美人のクラスメイトに恋していた。べつのクラスの産婦人科医を父親にもつ美人にも恋していたが、「おやじがそれなら万一のばあいも安心だよな」などと男たち数人でそんな愚にもつかないことを話題にしながら、ほくそえんでいた日々がかなしい…